2006年08月19日

「渾名の真相」 3-1

 観客は、六十人ぐらいだったろうか。
 青く見える島原半島を左手に、海沿いを北上するドライブを楽しみ、この日僕は「キングスガンビット」を訪れていた。潮湯温泉の近所にある「キングスガンビット」は、木造二階建ての洋風建築物で、二階中央は吹き抜けになっており、二階廊下からはステージを見下ろす事ができる。一階は西洋風の酒場、そして二階は宿泊施設だ。彼等三人の演奏は、最初に稲葉が何気ない素振りで、ポロンとギターの弦を弾き、そしてそれを合図として、突然に始まった。
 そして彼等三人が一〇番街の殺人を演奏し終えた瞬間、「キングスガンビット」は熱狂の渦に包まれたんだ。彼等にとっての今世紀二度目のセッションは、彼等には珍しく一曲だけ、それもたった五分少々の物だった。しかしそこに、多くの演奏の秘技が使われていたんだ。ガットギター、コントラバス、そしてアクースティックのドラムセットが一組。たった三つの楽器だけを使ったセッションであったにも関わらず、その音楽は幽玄にして壮大。それは本当に、重厚な音だった。稲葉の、トゥクトゥクトゥクツクっていう低音弦奏法、トレモロ・グリッサンドも、これ迄聞いた事の無い位滑らかだったんだ。そう、それもエレクトリックギターでは無かったにも拘わらずだ。彼のギタープレーは、速いとか音が良いとかの次元を超えていて、最早人間業とは思えない。スリーハンドの異名のとおり、本当に腕が三本くらいあるんじゃないだろうかって、そう思って了う位なんだ。又、稲葉に奔放なインプロビゼーションを許す二人の技量も、卓抜した、なんていう安易な言葉で表すには、遥かに遠い位の凄まじさだった。店自体が、大きなうねりを起こしてる様な感じってわかるかい?まったく、まったくそんな感じだった。彼等は一〇番街の殺人を演奏しながらも、その内三分位は、別のスタンダードナンバーを次々と挿入し、僕らに独自の世界を見せて呉た。演奏が終わった時、居合わせた人々は皆、一様に感激をして了ったんだ。
 電光の速さで楽弓を動かし、メロディーラインを奏でる木田くんのベースプレイはとても鮮やかで、その響きは地が鳴る様な音でグッと腹に響いて、単音を鳴らしたとしても飽きがこない澄んだ音がする。その稲妻の様な動きの弓は、蒼白く輝く三池典太の姿を思わせた。彼の流れるかの様な運指は、弓の捌き方同様、肉眼でとらえる事など、とても出来はしない。ベースは、雷雲をイメージさせるかの様なくぐもった音も、時に発する。彼は鋭い音を出したかと思えば、暖かく柔らかな音も自在に紡ぎ出した。僕には、伝わってきた低い音の波が、僕の膝の裏や、尻の骨が震わせるのが良くわかる。円熟した演奏技術の魅力というのは、屹度こういう物なんだろう。これ程の迫力を持つベースを、僕は他に知らない。
 それを支え補うゴジョウちゃんの、ドラムビート。ゴジョウちゃんは、二つのキックドラムを殷々と、霹靂が奮う様に鳴らした。そして、まるで震霆の様な物凄い速さで、タムタムとスネアドラム、六つのシンバルを叩いてみせたんだ。放電現象でも視るかの様な、激しい動きだ。それらは、お店に落雷があったか、って位のきざみ方だった。それは演奏と言うよりも、武術や体技、体術に近い感じさえした。そのスティックの動きは、楽器を打鳴らしていると言うよりも、飛んで来る匕首でも叩き落としているかの様な印象を僕に与える。そして暴漢を殴り殺すかの様な力強さだ。そのバスドラムの鳴らし方は、地を踏み鳴らし、悪党を威圧しているかの様だった。そしてそれは、悪漢の頭蓋を踏み割るかの様な、荒々しい動きだ。疾風の速さで、彼がスティックを振るえば、ビュンと風斬り音がし、室内には旋風が巻き起こった。一打一打が正に、飃撃と表現すべき一撃。六呎半の体躯から繰り出されるそれには、「円熟した演奏技術の魅力」なんて物はどこにも無い。小学生が給食の時間に食器を叩き鳴らす様な、若々しくて、エネルギッシュな持ち味が有るだけなのだ。実にワイルド。ドラムが二、三人いるのかって感じるぐらい、それは物凄い演奏だった。彼程秀でたドラマーを、僕はまるで知らない。
 そして、曲の装飾を担当する稲葉のギター。稲葉は速弾きを得意じゃないって言ってたけど、それはとても真似ができない程速かった。弦は勁く張られていたから、生半可な押さえ方ではいけなかったにも拘わらずだ。次々と弦を押さえる右手は、摩擦熱を生じる程素早く上下し、又、それを弾く右手の動きは、頭で理解する事は不可能な位複雑だった。目紛しいというのは、屹度こういった状況の事を言うんだろう。僕ら店にいる全員は、稲葉のダイナミックな音の奔流に圧倒されてしまって、誰もが食事やポーカーを止めてしまったんだ。彼のギターから発せられる音圧は、身体を押え付けられるかの様な烈しさだ。激しく弦を弾くその音は、店中を、吹雪が吹き荒れる様だった。僕はこの時、彼の演奏を、自分が言葉として「凄い」としか表現できないって事を感じたんだ。だけどそれは、僕の国語が未熟だって事ばかりが原因じゃアない。日本語自体が、彼の演奏を表現できる程、発達していないんだ。きっと英語も、ロシア語も、北京語も、タガログ語にだって、どんな言語にだってできやしないに違いない!
 右手で弓を扱う木田君のベースと、左手で掻き鳴らす稲葉のギターが、大きなVの字に視えない事は無かった。そしてその中央後ろに、ゴジョウちゃんのドラムが構えている。電子楽器を全く使わない、ロック&ロールのスタンダードナンバー。しかしそれは、どんな演奏よりも激しかった。
 彼等三人の演奏は、どれをとっても本邦のプロ以上のレベル。楽し気に体を揺らしながら、彼等の雪崩れ打つ音楽を聴ける者など、一人もいなかった。無論、聞き流すなどという事が、出来よう筈が無い。場の全ての人が金縛りにあったかの様に五分余り、じっと動けなくなってしまったんだ。店に居た人々は、スタッフも含めて皆、彼等三人が履き、纏い、放つ、銛々とした殺気によって、身体が空間に縫い付けられたかの様な感じを体験した。人々は瞬く事を止め、口を閉じる事を忘れ、じっと彼等に見入ってしまった。神業って言うのはきっと、この三人の演奏の様な、衆に能れた技術や技能を指すのだろう。そしてその個々の技が、三位一体となった時、無限の音の広がりが産まれるんだ。彼等の音楽を、ロック&ロールと表現しても、はたして良いものなんだろうか。何か新しい名称を、僕達人類は作らなければ、ならないんじゃないだろうか。僕はそう、考えてる。
 彼等三人は、とっても凄い三人組だ。僕は改めてこう言いたい。彼ら三人は最高だ!って、ね。

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2006年08月20日

「渾名の真相」 3-2

 演奏が終わったので、僕はキューバリバーをゴクリとやる。演奏を聴く事で、すっかり喉が渇いてしまっていたんだ。
 キューバ・リバーという飲み物は、なんて素敵な飲み物なんだろうって何時も僕は感じる。少量のアルコールと、コーラの薄められた炭酸の刺激が心地良い、この世に存在する事が有難い位、素敵な飲み物だ。晴れ渡った秋の夕暮れ。そんな時間に、夕日に向かって海岸を駆ける様な、そんな若々しい気分になる。まだまだ青春真っ盛り、というフレッシュな気持ちになって、その快感はもう言葉にはあらわす事はできない。キューバ・リバーはメキシコーラと並んで、人類が産み出した最高の発明品だと言っても、過言じゃないだろう。僕はそう思いながらそれを、あっという間に飲み干して了った。この快感は、二月の初旬などでは無く、八月の熱い日であったならば、尚更の事だっただろう。
 雨にぬれてもを口笛で吹きながらブーツを鳴らし、ステージを降りたゴジョウちゃんは、
 「よう、久しぶりぢゃっか」
 って、独りで座った僕に話し掛けて来て呉た。ステージ上では慌ただしく、本来のコンボが準備を始めている。彼等三人は、今日特別にリクエストがあっただけだったんだ。
 「お洒落ばして来たね。十ガロン帽と、ループタイの似合とるやんね。ベルトんバックルも派手で、バッチグーばい。羊毛んシャツに、黒色ジーンズ、そん上にショットガンズのオーバーズボンちゃ、オレぁ好いとる姿ばい。向うにユキちゃんも居らしたばってん、向うもチャルロんごたる恰好で、つば広帽にスカーフの、良ぉ似おとらしたよ」
 と、ゴジョウちゃんはがらにも無く、世事を言って呉た。十ガロン帽とは、フィラデルフィアのJ・B・ステットソン社で作られてたんで、ジョンB帽っても呼ばれる帽子の事だ。このメーカーのラベルは、帽子で汲んだ水を、愛馬に飲ませているおっさんの絵で有名だ。
 「袖カバーやオーバーズボン、ブーツなんかは、慣れないんで気持ち悪いけどね。この背の割れたコートは、気に入ってるんだ」
 と、僕が答えると、ゴジョウちゃんは笑った。ゴジョウちゃんは何時もの、黒いシングルのライダースジャケットに、レザーのパンツで、やっぱりとっても恰好が良かった。
 「まーた、アンヤツに呼び出されたっぢゃろう」
 ゴジョウちゃんは振り返り、稲葉を見る。彼はサスペンダーで青鼠のスラックスを吊ったスタイルで、今日は珍しく、やや細みの黄色いネクタイまでしていた。その隣の木田くんは、オレンジ色したとっくりのセーターがとっても似合って、凄くカッコが良い。木田君のジーンズは、ブーツカットのフラットヘッドの様だった。
 「うん、まあね。ストラップさんは元気?」
 一応、共通の知人である、あの人の事も聞いてみた。
 「哥ィは、相変わらずばい。ハンバーグだとか、辛子煮込み、酢味噌餡子とか、カレーとかば、いつもんごつ熱心にお勉強中たい。オレにゃあそうゆー事なぁ、いっちょんわからん」
 きっとモスバーグ、カラシニコフ、スミス&ウエッソン、それにエレーについて言ってるのだろうと思う。カラシニコフは恐らく、ミカエル・ティモフェイエビッチ・カラシニコフ本人では無く、彼の設計したアブソマット・カラシニコバの事だろうね。僕にもゴジョウちゃんは、ちっともわかんない。傍系とはいえ、由緒も格式もある家柄の人間なんだから、もっとちゃんとした言葉を使ってほしいって僕は思う。ゴジョウちゃんはどうも、些し横文字に弱いらしい。こないだも、「セルビアの札束」って言うから、ユーゴスラビアのディナール紙幣の話だとばかり思っていたんだけど、よくよく聞いてみたら、「ツァスタバピストル」の事だったし、「風呂ん妊婦」は、銃器設計の第一人者、「ジョン・M・ブローニング」の事、「観音様」は「キャノン砲」だったんだ。
 「何か落書きがしてあるね、その壜」
 僕はゴジョウちゃんのバーボンの壜が気になって言った。墨と筆で、ラベルに何か豪快に書いてある。
 「旅人たい。貴きもんは、酒にしあるらし」
 と、ゴジョウちゃんは言い、僕に壜を見せて呉た。
 「世の中は 空しき物と 知る時し 転益悲しかりけり」
 と、些し違うけど、万葉集の五巻目に載ってる有名な短歌がそこには書かれていたんだ。世の中が空しいって本当に知っちゃったので、愈々今迄よりも、もっと悲しくなっちゃった、って意味の歌だ、これは。神亀五年六月廿三日、まだ太宰の帥だった頃の旅人が、凶問に報えて詠んだ歌だね。ゴジョウちゃんは旅人が本当に好きらしく、お杉にも旅人の、
 「此処にありて 筑紫やいづく 白雲の 棚引く山の 方にしあるらし」
 という、お杉の故郷を懐かしむ歌を教えている。尤も現代と、旅人が生きてた奈良時代では、その距離感覚と言うのは随分と違うものだとは思うけれど。きっと旅人は、一生戻れない場所と、もう二度と会えないかも知れない友人達を懐かしんだんだろうね。
 考えてみれば旅人の短歌と、彼等三人の演奏は似ているって思う。小手先の技術を使わず、その時の心情を素直に表した旅人。旅人の作品にはだけど、彼の文学的素養がにじみ出ていて、しかも親し気で先進的だ。又、旅人は漢詩に随分と影響されてるそうだけど、やっぱりブラックミュージックやミリタリードラム、古典音楽等、ロック&ロール以外の音楽にも大きく影響されてる、この三人組と通じるところは、大いにあると思う。
 「価無き、宝と言うとも一杯の」
 とゴジョウちゃんが言うので僕は、
 「コーラ割りの酒に、豈に勝らめや」
 とかえした。僕も伊達に四年制大学は出ていない。それなりの学識と素養は持っているのだ。尤もゴジョウちゃんの第二句、「言うとも」の「とも」、つまり「十方」に対して、「豈に勝めやも」と、「やも」、「八方」とする方が、本当は正しいのかも知れない。だけどゴジョウちゃんは嬉しそうな顔をして、
 「飲もい」
 と言った。僕も、
 「うん、飲もう」
 そうかえし、新しく注文したメキシコーラのグラスで、ゴジョウちゃんのロックグラスと「オツカレ」って乾杯をした。
 メキシコーラという飲み物は、なんて爽快な飲み物なんだろうって、時々感じる。ある程度のアルコールと、コーラの薄められた炭酸が喉に気持ちが好い、人の世に存在する事が不思議な位、美味しい飲み物だ。晴れ渡った春の日。そんな日に大観峰を、愛車のお屋根を開けて、ビューンって駆け上る様な、そんな清々しい気持ちになる。その清涼感は、何とも言えないものだ。レヴカウンターの針が、垂直方向よりも右を指し示す様な感じ、とでも表せば良いだろうか?メキシコーラはキューバ・リバーと並んで、人類が産み出した最高の発明品だと言っても、言い過ぎじゃないだろう。僕はこの時、そう確信した。

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2006年08月21日

「渾名の真相」 3-3

 「ゴジョー君、仲間が向こうで呼んでるぜ。そろそろ彼を僕に貸して呉ないかい?」
 と、僕らの間に稲葉が入ってきた。左手に、湯気の立つマグカップを持っている。彼は黄色地に青い水玉模様の、相当趣味の悪いやや細みのネクタイを締めていたんだけど、変な回り方をしていた。というのも、小剣が大剣の前にあって、しかもバルーンノットみたいに、上にピョコっと飛び出していたんだ。こんな締め方、見た事無い。
 「何だい、そのネクタイ」
 と、僕は謂って了った。
 「ゆーたろが、こんニヤガリ者が。そん巻き方、誰でん変なかち思とんばい」
 と、ゴジョウちゃんも笑った。すると稲葉は、
 「何言ってんだい君達。タイなんて文化は、ついこないだ生まれたばかりじゃないか!タイなんてのは、スカーフを巻かない一部の人達が広めていったんだぜ!初めは変わり者さ!結び方も同じ。君達が日常的に使ってるウインザーノットだって、ウインザー公、つまりエドワード八世っていう英国人が考案したものだぜ。初めはまったく新しい方法だったのさ。君達は僕の結び方をバカにするけれど、二十一世紀のスタンダードは、この結び方かも知れないよ」
 と、稲葉は言った。稲葉は日本語でネクタイが、締めるものだって事を知らないんだろうか。結ぶ結ぶと言っていたが、僕はあえて訂正しなかった。尤も、ゴジョウちゃんの巻き方って表現にも、僕は少し抵抗を感じたんだけど。
 「君も、この結び方をスタンダードにするのに、ちょっとした手伝いをしないかい?」
 「一体、それはどういう意味だい、稲葉」
 と、僕が稲葉の問いに尋ねると、稲葉は、
 「君にもこの、新しい結び方、イナバノットを教授してやろうって、そう言ってるのさ」
 と答えた。
 「教えてもらうのは良いけど、なんだかその締め方、太い部分が首を回っていて、ちょっと苦しそうだね」
 と、僕が言うと稲葉は、
 「うん、実はそうなんだ。良いところに気がついたねえ。僕は今まで何故息苦しいのかって、思案してたところだったんだ。いやあ、巻き方に欠点があったんだねえ。君に指摘されて、今始めて気が付いたよ。これではあまり流行りそうにないなあ。うん。結び直そうか」
 と言った後彼は、プレーンノットで締め直したんだ。その間にゴジョウちゃんは、「ぬしどんらのゆーとる事は、よーわからんばい」と言って、席を移動して了った。向こうで木田くんとお杉が、僕らにロックグラスを上げてみせた。その輪にゴジョウちゃんは入ったみたいだった。
 「ねえ、今日はシャンデーガフは飲まないの?」
 「僕はこの間迄体調を崩していてねえ。今日はアルコールは控えておくよ」
 僕の質問に、稲葉はこう応えた。
 「体調を崩すって、一体どうしたの」
 と、心配になって僕は聞いてみた。
 「季節の分かれ目だよ、原因は」
 「えっ、風邪かい?」
 季節の変わり目って言ったって、この時は未だ二月の初めだ。気温の変化ってのはそう無くって、暑かったり寒かったりって事は無い。衣服の量を細やかに調整する必要はまったく無い筈だ。確かにインフルエンザは流行っていたけど、寒いばかりだったから、季節の変わり目ってのがどういう意味なのは、僕には全然わかんなかった。だけど、
 「寒いんだから、気を付けなきゃ」
 と一応謂っておいた。しかし稲葉は、
 「違うよ違う。風邪じゃないんだ」
 と言う。
 「えっ、風邪じゃ無いのかい?」
 じゃあ、一体何なんだろうって思った。
 「うん。日本では冬の最後の日にね、例の行事をやるだろう?柊の葉っぱを飾ったりする。あの魔よけはロシアの一部地域にも風習があるんだがね。日本では頭が信心の対象となってるあの魚も、かの国ではイバッシーとか呼ぶらしいよ」
 「ああ、わかった、わかった。君が言ってるのは、節分の事だね。確かに鰯の頭を飾る地域もある様だね」
 と、僕はやっとピンときてそう謂った。
 「うん、そうだ。立春の前日だね。同じ北半球でも、ヨーロッパでは春と言うと春分以降なんだけど、この国では少し春の訪れが早い様だね」
 と、稲葉は説明する。
 「で、節分と君の体調不良には、一体どんな因果関係があるんだい?まさか、鬼に噛み付かれたとか言うんじゃないだろうな」
 「まさか。そんな非科学的な事は言わないよ」
 と、僕の冗談を受け流した後に稲葉は、
 「その日は、お庭は外、だとか何だとかって、そんな妙なマジカルスペルを詠唱する風習があるよね。そして、素焼き大豆とかピーナッツだとかを、年の数だけ食べるだろう?」
 と、真剣な顔をして言う。
 「ああ、お庭とは言わないけれど、確かに歳の数だけ豆を食べるねえ」
 「うん、そうなんだ。こんな苦行を毎年こなすなんて、僕は日本国民の忍耐強さには、まったく敬服するよ」
 一体どういう意味だろう。素焼き大豆や落花生は、彼の口には合わないんだろうか。稲葉はニュージーランドでの暮しが長かったから、日本の風習に成れていない事が多い。これもそうなのかって、僕は思った。
 「フェン・イン・ローマ、ドゥ・アズ・ザ・ローマンズ・ドゥ。羅馬にいる時は、羅馬人のする様にしろって、そう云うだろう?僕も日本の風習に従って、年の数だけ大豆を食べたんだよ」
うん、郷に入っては郷に従えと云うね。
 「だいたい年の数だけ数えるのが大変じゃ無いか。僕は六百六十七回も数えるのに、先ず苦労したものだよ」
 あちゃー、この人やっちゃってる。大きな勘違いだ。年の数って、年齢の意味なのに。
 「年の数だけ詰めて、売って呉ない物かねぇ」
 「つまり、お腹を壊したって意味だね?」
 僕は一応、聞いてみた。
 「うん。まったく見事な推理だよ」
 名推理などではまったくない。誰もが経験的に知っている、論理的帰結だ。僕は聞いた事を、後で恥ずかしく思った位だ。
 「じゃあ、もし去年だったら何回数えたの?五百回かい?」
 僕は何だか真実を話すのが可哀想になって、こう聞いてみた。
 「いや、六百六十七回だよ。そこから一粒減らせば良いじゃ無いか。まあ、気分によっては、六百六十六回と二粒になるかも知れないけどね。四つづつってのは、目が痛くなるからね、僕はしないんだ。もっとも、五百を四回数えるのに較べたら、ずっと楽だけどね」
 僕はそれに、はははと笑って応えた。

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2006年08月22日

「渾名の真相」 3-4

 「じゃあ君は、今日はずっと飲まないの?」
 「うん。今日は酔わないんだよ。だけど、夫れ塩は食肴の将、酒は百薬の長にして嘉会の好、鉄は農の本なり、と云うだろ?君は大いに飲んで呉て構わないゼ」
 稲葉はそう言い、
 「パブで飲むグリーンティーも、なかなか乙なもんだよ」
 と続けた。
 「君は、変わった男だな」
 と、僕が言うと稲葉は、
 「君も全体主義者の様な事を言うねぇ。だけど君だって、僕の診たところ、十分平均的なラインからは、はみ出しているよ」
 と答えたんだ。すると今度は後ろから、
 「稲葉っチは北北西の風が吹く時だけ、奇人なんだっチャ。風が南になれば、たかり屋も詐欺師も、みんな裸足で逃げだすんだっチャよう」
 という声がした。
 「やあ、ミスター・ハムレット。今日も元気そうだねえ。しかし僕の観た劇ではそこは、鷹と鷺って台詞だったよ」
 稲葉はそう左手を挙げ、お杉に挨拶した。お杉も、頭からソンブレロを取って挨拶を返す。お杉はこの日、首に真っ赤なスカーフをして、焦茶色のスウェードの上衣とズボンというカッコだった。シャツは厚手で、穴や刺繍が施された、豪奢なやつだ。稲葉が述べた、ハムサンドとか、オムレットみたいな名前の人物は、お杉の卒業論文のテーマとなった劇の登場人物だそうで、独白の多い男尊女卑の、デンマークの皇太子なんだそうだ。
 「向こうでは、何の話してたの?」
 「フロリダ州の投票結果についてっチャ」
 お杉が楽しそうに言った。一月ぐらい前のニュースだ。ちょっと遅い。
 「木田君やゴジョー君好みの話題だねえ。まあ、僕の感想はちょいと長くなるから、言わないでおくよ」
 と、稲葉は言った。
 「まあ、副大統領だったあのおっちゃんは、負けを認めた後に撤回するってのが、往生際が悪いって言うか、見苦しかったよね」
 この程度で、僕らはこの話を打ち切った。
 「それより二次会には、参加しないっちゃか?二次会をゴジョウちゃんの贔屓の店でやろうって話だっチャよ」
 お杉は左手に持ったメキシカンビールを、僕らの丸テーブルに置いて、椅子に腰掛けた。
 「へぇー、何処、そこ」
 僕は聞いてみた。
 「歩け鳥兜とかいう、例のバーだっチャ。後二時間ぐらいで、名誉ある古代砲兵隊の演奏っチャからねぇ」
 ああ、「アルケブス」かって僕は思った。名誉ある古代砲兵隊は、この店の閉店前に演奏される曲の名前だ。この店は閉店が早い。
 「今そこに、ストラップッチがいて、チョコレートを試食しているんだそうだっチャ」
 「チョッコレエト?何だい、それは」
 僕は聞いてみた。
 「ゴジョウちゃん、先の何かの仕事で、三日分の非常食だった筈のチョコバーを、おやつ代わりに食べちゃったんだそうだっチャ。それで木田くんともう一人、カンカンに怒って、おやつに出来ない、オエッて来ない程度に不味いチョコレートの開発を、あそこのマスターに頼んだんだそうだっチャ。それを今日試食してんだっチャよう」
 お杉の解説に、
 「それで君達も、それの試食にって訳かい?それはなかなか楽しそうだねぇ。僕も行って良いのかな?」
 と、稲葉が謂った。
 「そうなんだっチャ。不味いの食べたいっチャよう。みんなで付いて往くっチャ!」
 僕は二人の意見を聞いて、あらためて二人が風変わりな人物である事を確認した。僕は不味い非常用チョコレートなんか食べたくは無い。
 しかし僕はここで思い出した事があった。というのは、「アルケブス」での広瀬さんの出題の答を、僕もお杉も出しそびれていたって事だ。あの日の次の日からは、大変な仕事続きで忙しく、それどころでは無かったからね。

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2006年08月23日

「渾名の真相」 3-5

 僕がその事をお杉にいうとお杉は、
 「ユキもあれはわからないんだっチャ。うまい仮説はたてたんだっチャけど、どうも最後で躓くんだっチャよう」
 と言った。
 「いや、仮説をたてられるだけ凄いよ。僕なんか全く想像がつかないもん」
 と、僕が言うと、
 「君達、何の話だい?」
 と稲葉が尋ねてきた。それで僕達は顔を見合わせ、稲葉にこの事件について一緒に考えてもらおうって思ったんだ。それで、僕とお杉があの事件について、稲葉に語って聞かせた。
 「貯金箱」って呼ばれていた世界経済担当の教員が、商学部だか経済学部だかの学生に殺されていた事。しかも後頭部をスキャナーで殴られたはずなのに、首から出血していた事。事件は直後に沢山の人に見られた事。事件現場は大学敷地内の建物内で、「貯金箱」さんにあてがわれた部屋だった事。
 僕達の話を聞き終わると稲葉は、
 「位置関係からすれば、加害者の学生を、施錠されていない部屋に残したまま、「貯金箱」は出入り口方向に向かおうとしている。そこを彼は襲われた訳であるから、学生の主張する正当防衛が、間違っても認められるケースでは無いね」
 と謂い、
 「先ず最初に、折角考えがある様だし、オスギムラ君の意見を拝聴しようじゃないか」
 と、僕に提案したんだ。僕はこの時、稲葉もわかんなかったんだろうって思った。だから僕はその提案に頷き、そしてお杉が推理を披露する事に成った。お杉はかなり深いところ迄推理している様だったから、お杉の推理をヒントに、僕も稲葉も事件の真相に気付くかも知れないって、そう思ったんだ。
 「では、ユキの推理を披露するから、良おーく聴いてほしいっチャ」
 「では、早速始めて呉給え」
 お杉の言葉に稲葉がそういうので僕も、
 「はい、どうぞ」
 と言った。
 「先ず最初に言える事は、広瀬さんは常に、加害者を「加害者」だとか、「学生」ってしか呼んでないって事だっチャ。女子学生や女子大生、女学生、女生徒、彼女だとかって、性別を特定する様な単語は、まるっきり避けてるっチャよう。つまり、加害者を女だとは、一言も言って無いんだっチャ!」
 確かにそうだった。思い出してみれば確かに、広瀬さんは一度も、加害者を女性だとは言わなかったね。お杉はこういう細やかな事に気付く、能れた男なんだ。男性の恋愛対象を女性だと限定する考え方は、「卵を産む動物は、哺乳類ではあり得ない」って発言する位、無知で視野が狭い間違いだ。
 「それどころか広瀬さんは、被害者のラブの対象も、学生としか言って無いんだっチャ」
 「良く気が付いたねえ。続けて呉」
 稲葉もまったく感心してお杉の話を聞いていた。
 「ご同輩は、被害者の「貯金箱」って名前が、事件の謎を解く重要な手掛かりって考えたっチャね」
 僕は頷く。
 「だけど以上から考えるに、「貯金箱」って渾名は、事件に大した意味は無いんだっチャ」
 と、お杉は謂った。
 「えっ?どうしてそうなるの?」
 僕の質問にお杉は、
 「「貯金箱」って名前は、ホモセクシャルって意味だからだっチャよう」
 と言った。どうしてそうなるんだろう。隣を見ると稲葉が、何やら嬉しそうに、ニヤニヤとしていた。
 「被害者と加害者がゲイボーイだって事は、今の君の説明で大体想像がついたよ。だけど何で、その渾名がゲイボーイを意味してるんだ」
 僕はあらためてそう聞いた。
 「「貯金箱」って渾名は、その前は「貯金瓶」って名前だったんだっちゃ。だけど今じゃ瓶に貯金する人って寡なく成ったっチャろう?だから、どこかで「貯金瓶」の本当の意味を知らない学生の時代に、「貯金箱」って間違った名称に変わって了ったんだっチャよ」
 「何だいそれは。説明に成って無いじゃ無いか。まあ、仮に君の推理が正しいとしよう。だけど、どうしてそれで、「貯金瓶」がゲイボーイって意味に成るんだい?」
 僕は全くわからなかったんで、又そう言ってみた。何だか同じ質問を三度もした気分だ。
 「それは、世の中の多くの人が、トランスセクシャルとホモセクシャルを混同しているからだっチャ。オカマやミスターレディーって呼ばれる人達って、一部の人は外国とかに行って性転換手術だとかって肉体改造を受けるっチャね? それだと勘違いされたんだっチャよ。だけど、ホモセクシャリストはトランスセクシャリストとは違うから、ナニは切らないんだっチャ。つまり、「貯金瓶」とは本来「チョッキン・亀」、ナニを切り落としたって意味だったんだっチャよう」
 なるほど。「貯金」というのは、切り落とす鋏を意味した擬音で、「瓶」は亀だったと言ったのだ。つまり被害者は、亀の頭を切り落としているって意味の渾名で呼ばれていたんだと、お杉は推理したんだ。ペニスがないってのはオカマの象徴であるし、世間の人はゲイとオカマを混同しているからね。まあ、被害者が事実ゲイボーイであるならば、それは当然必要で、股間をブラブラしていた筈なんだけど。
 「君の言いたい事はわかった。つまり、被害者の渾名の本来の意味は、オカマだったんだけど、それはゲイボーイとオカマを勘違いされた事に起因する物だって事を、循べてる訳だね?」
 僕はそう訊ねた。
 「そうっチャ」
 「そしてその渾名が永い間使われるうちに変化して、本来の意味がわからなく成ったって事だね。そしてそれは、この事件の犯人が男だって事を示す以外に意味は無いって、そういう事なんだろう?」
 「そう、まったくそのとーりっチャよう」

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2006年08月24日

「渾名の真相」 3-6

 僕の発言に、お杉は得意げにそう答えた。稲葉も面白そうな顔をしていたので、
 「君も今のお杉の推理に感服したんだろう」
 と聞くと彼は
 「まったくオスギムラ君の推理には驚いたよ。なかなかやるもんだねえ」
 と嬉しそうに言い、
 「だけどまだ首からの出血って問題を、彼は解決して無いぜ。讃えるのはそれを聴いてからにしようよ」
 と続けた。尤もだと思った。お杉もそう思ってたらしく、
 「そう、ここからが事件の本番なんだっチャ」
 と、稲葉に答えた。
 「えっ?君の推理は未だあるのかい?確かさっき往き詰まったって」
 と、僕が言っているとお杉は、
 「ユキがわかん無くなったのは、もっと先だっチャ」
 と、その質問を遮る様に言った。それで、
 「じゃあ、続きを話して呉」
 と稲葉が嬉しそうに言った。
 「ユキが問題視したいのは、目撃した女子学生達が本当に、頸や後頭部の意味を知っていたかどうか、という事だっチャ。彼女達がその言葉の意味も知らずに使用しているとすれば、事実と証言の食違いにも納得ができるっチャ!」
 「それぐらい識ってるだろう。子供じゃあるまいし」
 と、僕はお杉の意見に反対した。いくら何でもそれはあんまりだと思ったんだ。ところが稲葉は、
 「それは大いにあり得るねぇ。頸と頭の区別が出来ない女子大生はきっと、山程いるぜ。大部分なんじゃないかな?まぁ、そう言う僕も以前、喉頭部と後頭部を間違えた事がある。恥ずかしながら、頚部と脛部を間違えた事もあるなぁ」
 なんて事を、楽しむ様に言ったんだ。僕はこの二人は、頭がどうかしてるんじゃ無いかって、そう、思ったよ。だから僕は、
 「頸や頭や喉や脛の意味も知らない大学生なんて、いくら何でも現代日本に居るものか!」
 って、叫んで了った。すると、
 「君達は日常、野菜って言葉を口にするねえ。じゃあ野菜って、一体何の事だい?」
 と、稲葉は言ったんだ。又もや話が、内容と関係ない方向に進み始めた。
 「食べられる植物の事っチャ!」
 と、稲葉の問いにお杉はそう答えたけど、それでは正解とは言えないだろう。
 「じゃあ、米や麦も野菜かい?ミカンや梨は?ワカメや昆布やモズクはどうだい」
 と、稲葉は意地悪く言った。
 「主食とならない、主に調理して食す、陸上の食用植物の総称だよ。厳密にはイモは主食たりえるから、野菜じゃ無いよね」
 と、僕は答える。話が全く脱線していた。
 「うん、その通りだ。まったくの正解だね。では、話を元に戻そうじゃないか」
 と僕の答に応えると、
 「じゃあ君。もう一つ聞くが、首と頭の境界線は一体どこなんだい?」
 稲葉はそう、僕に聞いてきた。
 「そうっチャ!ユキもそれが言いたかったんだっチャよう」
 と、お杉もそう言ったんだ。そう言われてみると、確かにこれも難しい問題だ。
 「曲がる所から下が首で、上が頭だ」
 僕はそう答えた。
 「うん、それで良いっチャ」
 と、お杉が言う。稲葉もそれに、頷いたんだ。そして、
 「もっと正確に言うと、耳の後ろの乳房型に出っ張った骨から、後頭骨中央の出っ張った骨」
 僕は後ろに手を廻し、自分の頭の下の方を拇指で触ってみる。そこには確かに、頭皮下に触れる盛り上がった骨があった。
 「そう、そこだよ。その外後頭隆起を結んだ線、それこそが、首と後頭の境界線なんだ」
 稲葉は左の食指だけをピンと上向きに立てて、そう言って右目でウインクし、微笑んだ。それは会話が楽しくて仕方が無い、という表情に僕には思えた。
 「この事件では、首から出血があったって証言されてるっチけど、本当は後頭部の下の方、頭と首の境界線に近い部分が殴られていたんだっチャよ。恐らくは、首より数ミリ上だって所だっチャ!」
 と謂った。
 「つまり、」
 「そうだっチャ。死体を見た女子学生達は、視なれぬ死体を視た事によって、少しパニック状態に成ってたというユキの推理には、異論無いっチャね?」
 無い。普段変死体を見なれていない女子大生ならば、冷静に観察している方が妖しい。それこそ不可解だ。恐らく、軽いパニック状態であった事だろうって考えられる。
 「そんな時に彼女達は、ほとんど境界線上の傷を視て、それが確かに首より数ミリ上だって事が気づけるものだっチャかねえ。地上の万物は地球に引っ張られてるんだっチャ。勿論汁状である血液もだっチャよ。だから印象としては、首が血に濡れていたから、頚部から出血している様な錯角を起こし易いんだっチャよ」
 と、お杉は謂う。
 「つまり被害者は後頭部の中でも首と勘違いされそうな位下の部分を殴打され、女子大生達はそこを首だと誤認した訳だね。僕達は後頭部って言うと、後ろのてっぺん当たりを思い浮かべるけれど、首との境も立派な後頭部だからだね。だけど女子大生達は、そこが、つまり首との付け根当たりの部分を後頭部と呼ぶという事を、知らなかったか、パニックで忘れてたかの、孰れかだったんだね」
 と、僕は言った。
 「そうだっチャ。ちょっと違うっチャけど、要約すると、その通りだっチャよう!」
 「まあ、大した知識じゃ無いんだけどね。実際、商学部のお嬢さん方には、まるで興味の無い事柄だろうねえ。又警察も、後頭部と首の境界線近くって表現を、わざわざ後からする事も無いだろう。面倒臭い」
 と、お杉に次いで、稲葉も楽しそうに言った。なるほど、これは盲点だった。確かにその部分は人間の急所の内の一つであるから、殺人犯が狙う場所としては最適だ。それに後頭部と言った場合の多くは、その部分を連想し難い。
 「お杉!もう正解をとっくに出してるじゃ無いか!何を謙遜してるんだい!」
 と僕はお杉に謂い、
 「うまい仮説だって?もうこれは仮説なんかじゃ無いよ、真相って言うんだ!」
 と、続けた。
 「それでオスギムラ君。最後で躓くっていうのはどういった意味だい?まあ、無理もないけど」
 と、稲葉がお杉に聞いた。僕はその隙に、メキシコーラをぐっと、飲んで了った。
 「うん。実はユキが躓くのは、被疑者についてなんだっちゃ」
 「どういう意味だい?」

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2006年08月25日

「渾名の真相」 3-7

 「オスギムラ君、君は犯人について何等かの情報を入手したって意味だね?」
 「そうだっチャ。ユキは当時の新聞を捜したんだっチャよう」
 「続けて呉」
 稲葉がお杉を促す。
 「ユキは当時の炭都日報を見たんだっちゃ。すると、被疑者の名前が出てたんだっちゃ。「犯人はK大学商学部に在籍する三回生、橘阿蘇子(二○)で、」って」
 「そんな、名前じゃ男か女かわからないじゃ無いか! 聖徳太子や中臣鎌子にだって、張良子房にだって、子の字は付くよ! 魏文だって、字は子桓だし、月旦の故事で有名な人相見は、許劭子将だ。魏関係者ならば他にも有名どころは、曹仁子孝、曹真子丹、曹彰子文、曹植子建、曹洪子廉、夏侯楙子林、鐘会子季、衛茲子許と、三国志を読むだけでも山程出てくるよ!」
 と、僕が謂うと、お杉は手帳をめくり、
 「「福岡県警の見解では、中山氏と同じK大学の商学部に通う女子大生、T嬢の嫌疑は濃厚」って、前の日の新聞にもちゃんと書いてあったんだっチャ。Tは橘の頭文字っチャよう」
 と、読み上げた。これはもう、裁判で被告人席に座ったのは女だと、認めるしかないだろう。尚、殺害された大学講師、つまり「貯金箱」は、中山政幸と云うらしかった。
 「それに、被疑者の動機は、被害者に別の女がいるって思ったからなんだっチャ」
 その新聞、炭都日報の記事によると、「貯金箱」が担当した後期試験の問題の答えが、「ア」、「イ」、「コ」、「カ」、「キ」、「ウ」、「エ」と、まるで人名の様な順序で、偶然記号が列んだ事が、殺人の原因らしい。「カキウエアイコ」とは何処の女の名前だと、橘女史は「貯金箱」に詰め寄ったのだそうだ。そしてその後、鼻で笑われ部屋を出ようとした事に激怒し、犯行に及んだという事らしい。しかし五十音の並びで、アからコまでしか使わ無くても、「オウキエイコ」、「カコキクエ」、「アカイケキクコ」、「カイアキエ」、回文の「コイケケイコ」等、ちょっと考えただけでも女性の名前は簡単に作れるし、「コエカオウキイ」や「ウエイクカ」、「エキイコウ」つまり、「声が大きい」「上往くか?」「駅行こう」等の簡単な文章だって、作成可能なのだ。橘嬢は、少々勘違いが甚だしい様に、僕には感じられる。
 「これが確かならば、「貯金箱」がホモセクシャルっチ言う、ユキの仮説は、根本から崩れるんだっチャよぅ!」
 とお杉は困った顔で謂ったけど、しかし、その言葉に稲葉は、
 「君の推理は、犯人が女だったぐらいで壊れるものじゃ無いだろう?」
 と楽しむ様に謂った。その通りだって、僕も思ったんだ。
 「そうだよお杉。犯人はゲイボーイじゃなくって両刀、バイセクルだったんだよ」
 と、僕は謂う。
 「ああ、そうだっチャ。そうだったんだっチャかあ!」
 と、お杉も気付き、興奮した。そしてその後で、
 「あ、でも、バイセクルはバイサイクルの事だっチャから、二輪車の事っチャよ。正しくはバイセクシャルっチャっ」
 と、どうでも良い事を訂正した。
 「まあ、この答が面白いから、これで正解で良いよね」
 と、稲葉は言った。何だか引っ掛かる言い方だ。だから僕は、
 「ねえ、それはこれが正解じゃ無いって意味なの?」
 と稲葉に聞いてみる。しかし稲葉は、
 「いや、これを正解にしようって言ってるのさ。実際というものは、もっとつまらない話だからね」
 などと言うから、
 「ちょっと待って呉よ、稲葉。お杉の推理に穴が有るとでも言うのかい?」
 と、僕がそう聞くと、稲葉は左の食指を立て、それを回しながら、
 「無い訳じゃ無いさ」
 と言った。
 「じゃあ、話してみて呉よ。お杉が真相を先に言い当てたんで、負け惜しみで言ってるんじゃないだろうな」
 と僕が謂うと、軽く咄呵し、
 「ならば話しても構わないぜ。だけど、オスギムラ君の唱える説の様に、奇想天外でも無ければ面白くもなんとも無い、まったく常識的な現実だよ。美しく見える人でも、化粧を落とせばがっかりする様な事だって、世の中には沢山あるんだぜ」
 なんて稲葉は謂う。
 「それでも良ければ話すけどね」
 と言うので、僕らはお願いして話してもらう事にした。

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2006年08月26日

「渾名の真相」 3-8

 「君達はちびっ子の頃、貯金箱は持ってたかな?」
 稲葉の話は、最初っから脱線で始まった。
 「持ってたよ」
 「ユキも貯金はした事ないっチャけど、可愛いのいっぱい持ってたっチャ!」
 「その中に、人形の形をしたのは有ったかな?」
 「いっぱい、いっぱい、有ったっチャ」
 うん。僕もパンダ型のを一つ持っていた。当時は日中共同声明発表に伴う、両国の国交正常化の直後で、空前のパンダブームだったから。
 「うん。先ずはそいつを思い浮かべて呉よ」
 と稲葉は言った。
 「ユキは、口からお金を入れるカエルさんとか、頭のてっぺんからお金を入れる坊やのお人形とか、頭の後ろに穴の開いているピンクのクマさんだとかを持ってたっチよう」
 僕のパンダも、お杉のクマと一緒で、頭の後ろから硬貨を投入するタイプの貯金箱だった。
 「そうかい。二人とも、それらをしばらく記憶しておいて呉よ。では、本題に入ろう」
 「はいどうぞ」
 「どうぞっチャ」
 脱線は終わったらしいので、僕達は稲葉を促した。
 「先ず最初に、オスギムラ君は先輩が、犯人のジェンダーを特定しなかった事を怪しいと思うよね」
 「そうだっチャ」
 「しかし僕はそれは、先輩が被害者を、ホモセクシャルの可能性がある事も含めて、循べたからだと思うんだ。だから、被害者がホモセクシャルである事を隠す為にそう言ったのでは無いと、僕はそう思うね」
 そうかも知れないって思った。広瀬さんは恐らく、犯人が男か女かを、知らなかったか忘れていたか、憶えてなかったんだ。それに広瀬さんは、大きな括りの用語を使う事を好む人だ。僕達の言うピストルが、ハンドガンであったり、カードリッジがアミネーションだったりね。僕達がマイコンとかパソコンって呼んでいる物も、コンピューターとか、電算機って呼んでいる。それと同じ事かも知れない。
 「それに君達の話を聞くと先輩は、「後頭部に傷口は見え無かった上に、出血は首の後ろ当たりからしていた様に見えた」だとか、「傷口が見えずに、出血場所がズレている」なんて言っているよね。それが、女子学生が首や後頭部の意味を知らなかったって正解で良いのだろうか。それが正解ならば、出題のアプローチ自体に問題があると僕は感じるね。しかし先輩は、そういうアンフェアな人じゃないんだろ」
 確かに。広瀬さんは、フェアプレイ精神の持ち主だ。
 「だからね。真実はもっと別の物なんだ。尤も、真実はもっと平凡な、もっともらしい現実だけどね」
「だけど、渾名の件は、ユキの説明で間違い無いっチャろう?」
 とお杉が問うと、
 「いや、あのニックネームの件こそが、このクイズの謎を解く、重要なファクターなのさ。そこから如何に連想するかが、この問題を読み解く、大きなポイントだと言っても良いだろうね。ここで解釈を謬っては、真実は永遠に看えない」
 と稲葉は答えた。

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2006年09月03日

「渾名の真相」 3-9 (最終回)

 「事実君の説は、問題の破廉恥教員、ええっと、チューサンだっけ? 何だか鼠みたいな名前だね。まぁそのチューさんが、ホモセクシャリストかトランスジェンダリストで有る様な証拠は何も無い訳であるし、ちょっと苦しい説明で有るとは思わないかい? 僕は、彼がヘテロセクシャルだったと考えても、まったく構わないと思うな」
 確かに、被疑者は事実女性であった訳であるし、教員がゲイボーイである事を前提にした、お杉の説明では多分に疑問が残る。ちなみに稲葉の言う「チューサン」というのは、屹度、中山の音読みだろう。
 「それにチューさんには、噂が鮮なかったんだゼ。君はここを見落としてるんだ。この教員がもし仮に、トランスセクシャルよりももっと軽度な、トランスベスタイト、異性装者であったとしても、それなりの噂にはなったと思うよ」
 まったくそのとおりだと思った。女装趣味でも十分噂になるだろう。
 「じゃあ、「貯金箱」ってのは、一体どういう意味なんだっチャか、稲葉っチ」
 「そのまんまだよ。チューさんは見た目がかつては、貯金箱みたいだったのさ。しかし事件当時は違うから、学生達は貯金箱って愛称の意味が理解できなかったんだね」
 「良くわからないよ。もっとわかる様に説明して呉ないかい」
 「いっチャ!」
 「だから、チューさんは人形型の貯金箱、先程君達が言った、カエルやクマの貯金箱の形に、昔はそっくりだったんだよ」
 稲葉の言う意味が、僕にもお杉にも良くわからなかった。
 「畢竟するにだね、この被害者の教員は、額の方から侵攻が始まる天然のスキンヘッドだったのさ」
 一体どういう意味だろうって、そう僕は思ったから、
 「額から禿げるハゲってのがどうして、貯金箱に見えるのさ」
 と聞いてみた。
 「うん、それには些し説明が必要かも知れないね。ちょっと解説をしようか」
 などと稲葉は困った顔で言う。稲葉が説明をするっていうのは、とても珍しい事だった。
 「チューさんは、女好きであったにもかかわらず、ハゲだったんだ。そしてその対象は、多くの場合身近にいる女学生だった。ここ迄は良いかな?」
 うん。被害者がハゲという前提でならば、おかしいところはとりあえずどこにも無い。
 「しかし大抵の女子学生は、多くの場合ハゲが嫌いなんだ。まあ理由を説明する事は難しいから、今日はこの事実だけを知っておいて呉給えよ」
 僕らは頷く。
 「そして多くの彼女達が我々を値踏みする際、容姿は、財力や地位の次に重要視する項目なんだね。我々は彼女達にとって資金源であると同時に、アクセサリーの一種でもあるのだから。畢竟、ハゲなのに彼女達に好まれる為には、余程羽振りが良く無ければなならいんだよ。まあ、彼の経済状況はさておいて、女性達に気に入られる為には無論、彼はそのハゲを隠す方が当然都合が良かったんだ。我々男性の立場からすれば、隠さず堂々としている方が、逆にかっこいいものなんだがねぇ。まぁお嬢さん方も髪型は、髢で我々を欺いている訳であるし、諸々の手口を合わせ鑑みれば、化かす事に関しては、向こうが一枚も二枚も上手さ。この程度の隠蔽工作は大目に見るべきだろうがね」
 僕も確かに、隠していない人をかっこいいとは思う。見栄を張らない男らしさに、僕ら同性は共感できるというものだ。だけど、洒落者の被害者がハゲを隠したい気持ちも、稲葉の説明でなんとなくわかった。しかし、ハゲと「貯金箱」は一体どう結びつくのだろう。お杉もそう思ったらしく、
 「それでどうして貯金箱に見えるっチャか?」
 と稲葉に聞いた。
 「まあ、そう焦るなよ。今話すよ」
 と彼はそれに答える。それで、
 「はい、どうぞっチャ」
 と、お杉は稲葉を促した。
 「彼は額上方のハゲを隠す為、どうしたか。そう、彼は後ろの髪の毛を、無理矢理前に持ってきて、それを隠蔽しようとしたんだ。オールバックって髪型があるけど、それの全く逆の櫛さばきさ。さしずめハーフフロントとでも名付けようか。そうして彼はポマードか何かで、ギットギトに固めていたのさ」
 「良くわかんないっチャ」
 僕も良くわからなかった。確かにそうすれば、前髪が増えた様に見える筈だけど、どうしてそれが貯金箱に見えるんだろう。
 「うん。では実際にやってみよう。オスギムラ君、櫛かブラシは持ってるかな?」
 お杉が櫛を稲葉に渡した。
 「ありがとう。それじゃあ、君。ちょっと君の頭を借りるぜ」
 と、稲葉が僕に言う。
 「ちょっと待って呉よ」
 と、僕が抗議しようとすると、
 「オスギムラ君、彼をちょっと押さえていて呉」
 と言い、僕の髪に櫛を入れ始めた。
 僕は諦め、一分程抵抗せずに、稲葉の言うハーフフロントの髪型にさせてやると、お杉が
 「ああ、貯金箱だっチャ!」
 と、感嘆の声を上げた。
 「な、だろ」
 と、稲葉も自慢げだ。
 「セオドア君そっくりの線が出来てるっチャあ!」
 「セオドア君って何?」
 「ユキの貯金箱の、ピンクのクマさん」
 「まんまだねぇ」
 お杉の答に稲葉が苦笑した。それはセオドア・ルーズベルトの愛称が、テディであるからだろう。
僕は右手で軽く後頭部を触ってみた。するとそこには確かに、前に持っていった髪と、下に下がる髪の分け目が水平に出来ている。それは多分はた目には、人形型の貯金箱の、コインを入れる穴の様に見える事だろう。
 「貯金箱って渾名の由来はこれか、稲葉!」
 と、僕も興奮をして了った。
 「うん。彼はこうやって、生え際の方から禿げているのを隠そうとしたんだよ。そして、一部の学生はこの事実に密かに気付いていて、陰でこっそりと「貯金箱」と、彼を呼称して笑っていたんだ」
 稲葉は左の食指をピンと立ててこう言ったんだ。だけど僕には、この推理には一つ納得の出来ない事があった。
 「だけど稲葉、ちょっと待って呉よ。だけどこの渾名は何故、由来がわからなくなってたんだい?ちょっと注意深い人にならこれは、わかりそうなものじゃないか」
 僕は思いきって疑問をぶつけてみる。
 「そう言われてみればそうっチャねぇ」
 とお杉も僕に同意したんだ。だけど稲葉は左手を額に当て、
 「バカだなぁ、君達」
 などと言ったんだ。
 「僕は、以前はこの髪型だったって、そう言ったじゃないか」
 正確には、「かつては、貯金箱みたいだった」と「昔はそっくり」という表現を稲葉はしている。
 「ハゲって言うのは多くの場合、時間の経過とともに悪化する物なんだぜ。その位の事も知らないのかい?」
 確かにそうだ。
 「じゃあ、この被害者は」
 と、僕が言うと稲葉は、
 「そうさ。彼は事件当時、もう大分悪化していてねえ。可哀想に、額からお尻までの間にはもう、ほんのチョッピリの毛しか生えてはいなかったのさ。それで彼は仕方なく、カツラを冠っていたのだね」
と引き継いだ。まるで見てきたかの様な言い方だった。
 「しかも用心深い彼は、未だ進みの軽度な内に見切りを付けて、こちらのやり方に移項したのだろうと思うよ」
 「だから、「貯金箱」って渾名が、当時の学生達にはもう、通用しなかったんだね」
 と謂うと稲葉は頷き、
 「うん。つまり殺害時、被害者の教員は、カツラの上から殴られていたんだ。だから傷口はカツラに隠されて見えなかったし、血はカツラの端、つまり首の部分から漏れ出たんだよ。当時のカツラは未だ、通気性が悪かったろうからね。粘度の高い血液ならば、尚の事さ」
 と謂い、渇いた口にお茶を含んだ。

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