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2006年08月22日
「渾名の真相」 3-4
「じゃあ君は、今日はずっと飲まないの?」
「うん。今日は酔わないんだよ。だけど、夫れ塩は食肴の将、酒は百薬の長にして嘉会の好、鉄は農の本なり、と云うだろ?君は大いに飲んで呉て構わないゼ」
稲葉はそう言い、
「パブで飲むグリーンティーも、なかなか乙なもんだよ」
と続けた。
「君は、変わった男だな」
と、僕が言うと稲葉は、
「君も全体主義者の様な事を言うねぇ。だけど君だって、僕の診たところ、十分平均的なラインからは、はみ出しているよ」
と答えたんだ。すると今度は後ろから、
「稲葉っチは北北西の風が吹く時だけ、奇人なんだっチャ。風が南になれば、たかり屋も詐欺師も、みんな裸足で逃げだすんだっチャよう」
という声がした。
「やあ、ミスター・ハムレット。今日も元気そうだねえ。しかし僕の観た劇ではそこは、鷹と鷺って台詞だったよ」
稲葉はそう左手を挙げ、お杉に挨拶した。お杉も、頭からソンブレロを取って挨拶を返す。お杉はこの日、首に真っ赤なスカーフをして、焦茶色のスウェードの上衣とズボンというカッコだった。シャツは厚手で、穴や刺繍が施された、豪奢なやつだ。稲葉が述べた、ハムサンドとか、オムレットみたいな名前の人物は、お杉の卒業論文のテーマとなった劇の登場人物だそうで、独白の多い男尊女卑の、デンマークの皇太子なんだそうだ。
「向こうでは、何の話してたの?」
「フロリダ州の投票結果についてっチャ」
お杉が楽しそうに言った。一月ぐらい前のニュースだ。ちょっと遅い。
「木田君やゴジョー君好みの話題だねえ。まあ、僕の感想はちょいと長くなるから、言わないでおくよ」
と、稲葉は言った。
「まあ、副大統領だったあのおっちゃんは、負けを認めた後に撤回するってのが、往生際が悪いって言うか、見苦しかったよね」
この程度で、僕らはこの話を打ち切った。
「それより二次会には、参加しないっちゃか?二次会をゴジョウちゃんの贔屓の店でやろうって話だっチャよ」
お杉は左手に持ったメキシカンビールを、僕らの丸テーブルに置いて、椅子に腰掛けた。
「へぇー、何処、そこ」
僕は聞いてみた。
「歩け鳥兜とかいう、例のバーだっチャ。後二時間ぐらいで、名誉ある古代砲兵隊の演奏っチャからねぇ」
ああ、「アルケブス」かって僕は思った。名誉ある古代砲兵隊は、この店の閉店前に演奏される曲の名前だ。この店は閉店が早い。
「今そこに、ストラップッチがいて、チョコレートを試食しているんだそうだっチャ」
「チョッコレエト?何だい、それは」
僕は聞いてみた。
「ゴジョウちゃん、先の何かの仕事で、三日分の非常食だった筈のチョコバーを、おやつ代わりに食べちゃったんだそうだっチャ。それで木田くんともう一人、カンカンに怒って、おやつに出来ない、オエッて来ない程度に不味いチョコレートの開発を、あそこのマスターに頼んだんだそうだっチャ。それを今日試食してんだっチャよう」
お杉の解説に、
「それで君達も、それの試食にって訳かい?それはなかなか楽しそうだねぇ。僕も行って良いのかな?」
と、稲葉が謂った。
「そうなんだっチャ。不味いの食べたいっチャよう。みんなで付いて往くっチャ!」
僕は二人の意見を聞いて、あらためて二人が風変わりな人物である事を確認した。僕は不味い非常用チョコレートなんか食べたくは無い。
しかし僕はここで思い出した事があった。というのは、「アルケブス」での広瀬さんの出題の答を、僕もお杉も出しそびれていたって事だ。あの日の次の日からは、大変な仕事続きで忙しく、それどころでは無かったからね。
投稿者 strap : 2006年08月22日 02:06