2005年05月05日
大作家の誕生日
本日五月五日は、中島敦の誕生日です。
明治四十二年、教師中島田人の長男として、東京都の四谷に生をうけました。
お祝いしましょう。
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2005年05月13日
中島敦 弟子(1)
中島敦の「弟子」は、
「由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり」だとか、
「由や勇を好む事我に過ぎたり。材を取る所なからん」と言われた愛すべきキャラクター、仲由(子路、又は季路。五男か?)を主人公とした作品です。
彼は論語の中で最も多く現れる弟子であり、「墨子抗儒編」にも名が出る人物で、孔子門弟の中では、我々に最もなじみは深いですね。
政治に長けた弟子たちのリーダー格であり、又勇ましい人物でもある。「弟子」でも
「片言以て獄を析むべきものは、それ由か」と引用されています。又、孔子に最も叱られるのも彼でしょう。
リーダー格、勇ましい、剣客、労働者階級の出身、政治に長ける、一番弟子、最も叱られる、共感できる人物。
これらのキーワードを並べた時、僕は一人の人物を又連想します。
新約聖書ヨハネ福音書第十八章を引用します。
「シモン・ペテロ剣をもちたるが、之を抜き大祭司の僕を撃ちて、その右の耳を切り落とす。僕の名はマルコスと云ふ」シモンは弱さを持った一番弟子として登場し、イエスの死後強力なリーダーシップを発揮する人物となる訳ですが、二人は似ていると思いませんか?
シモンは、
「我に従い来たれ。さらば汝らを人を漁る者となさん」などと言われ、弟アンデレと共に即座に弟子になる訳ですが、こんな所も似てますよね。
非攻(2)に少し書きましたが、墨子の門弟を指揮する禽滑釐なども、
リーダー格、勇ましい、剣客、労働者階級の出身、政治に長ける、一番弟子、最も叱られる、共感できる人物という条件に当てはまる人物だと思います。
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2005年05月25日
弟子(2)
(弟子(1))参照
世間的には中島敦の代表作といえば、
「光と風と夢」
「李陵」
の二作ですが、僕的には、
「山月記」
「悟浄出世」
そしてこの
「弟子」
です。確かに二作は素晴らしい作品ですが、中島の短編作家としての上手がこの三篇には良く出ていると感じるからです。三篇とも短いですし、人にも薦めやすいですしね。
携帯端末版のサイトに以前作品短く解説を書いていましたので、ここに採録します。
『弟子』は中島敦晩年の作品であり、死後に発見された遺稿である。今読んで実にそのとおりと納得してしまいました。
中島敦はその漢学の素養の為、支那の古典を題材として作品を書く事を得意とした。この作品では、孔子の弟子、子路を主役とし、儒者達を生き生きと描いている。初出は『中央公論』昭和十八年二月号。中島敦は子路という良く知られたキャラクターを生かしつつ、それを自身の「懐疑する人」という、自身が多くの作品でテーマとしたキャラクターの一人とした(この代表は沙悟浄、隴西の李徴、ナブ・アヘ・エリバ博士、三造など)。疑似漢文調と哲学的要素。『弟子』は、中島敦の二つの魅力を備えた、真骨頂ともいうべき名著であろう。
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2005年06月28日
プライド 中島敦作品の登場人物
彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。のっけから部分引用で恐縮であるが、上記は「狼疾記」の一説である。この後に、
自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖がと、主人公である三造の性格を語る。
作品「李陵」において主人公である李陵は、
確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己のために身命を惜しまぬ部下五千と共に危なきを冒す方を選びたかったのである。と、兵站輸送を軽視し、
臣願わくば少を以て衆を撃たんなどと謂ってしまう。「悟浄出世」での観世音菩薩摩訶薩の言葉を借りれば、
これを至極の増上慢といわずして何といおうぞ。という事になるだろう。結局李陵がどうなるかは、作品の(史書の、歴史の)示すとおりである。
中島作品の登場人物の多くは、人よりも優れるが故にプライドを持ち、自信があるが為に何らかの失敗を犯してしまう。
自信があるが故に、その弱気の為(一見二律背反するが、彼らは自信はあるが、それが絶対的では無いが故に弱気になってしまうのだ)能力を活かす事ができなかったり、己の能力に頼る事が大きすぎて、過剰な負荷に潰れてしまったり。
この、「プライドのある人」という中島作品の一連の登場人物の中でも特に僕が注目したいのが、「山月記」の李徴である。「狼疾記」の三造とは違い、己の才能に絶大な自信を持つが故に、平穏を捨てチャレンジし、夢破れた男の物語である。双葉の頃より芳しと、幼い頃からその神童振りを謳われた中島は、李徴の様なチャレンジを何度も考えた事だと思う。しかし同時に、三造のようにひっそりと生活する事で、李徴の様な結末を回避しようとも考え迷ったのでは無いだろうか。僕が考える中島作品全体のテーマは、、
才能ある人が世に認められない悲劇と、
少しの才能を元手に賭けをした為に失敗する人の憐れでは無いかと思える。そして中島自身としては、自信のある自身の文才が、
真に優れたものであるのか、
世間の人と較べれば上という程度で、プロとしては通用しないものであったのかは、判断つかなかったであろうから、結局は対の問題であったに違いない。己の能力を真の意味で客観視する事など、誰にも出来ないからだ。例え真に客観視を出来たとしても、白か黒かを判定するならば、その結果が疑心暗鬼を生み、己の客観性を疑うだろう。
中島作品を読んだ時思う事は、中島が真に優れた作家であるという事だ。
漢文調の格調を作りながら、それは下し読みのような平坦なものでは無い。「擬似」漢文調とでも言うべき作風である。リズムを整え崩し、ハードボイルドの手法で人物の心理描写をする手法は見事である。作品「李陵」は、「漢書 卷五十四 李広蘇建伝第二十四」等を下敷きとし、筋も内容も多くは変わらぬが、それが一流の作品となっている。
東京帝国大学国文科、同大学院と、文学論を研究していた中島敦にとって、自身の文章が衆に優れたものである事が、理解できなかった筈は無い。しかしそれでも尚、彼は自身の作品に絶対の自信を持っていなかった節がある(雑誌社に伝手のある人に原稿を預けますが、大切な原稿だからと直ぐに取り返しにいったり)。
山月記を読んでいると、そこに書かれた李徴は、中島敦自身が恐れた、もう一人の中島敦自身の姿なのでは無いかと思う。
己の才を信じ、安定した生活を捨てて夢を追ったものの、名を得るには指一本届かず、空しく散り敗れる男の哀れ。なまじプライドがある為に、賭けに負けた己に情けなくなり発狂してしまうその思い。
「もしもこの道で立つ事が出来ぬなら」
と思う、作家を志す人の不安が書かせたような作品だという気がしてならぬ。
誰もが指摘するように、三造自身は中島敦本人がモデルなのだと僕も考える。
そして、三造の言葉は全てが中島敦の気持ちと合致するわけでは無いかも知れぬが、間違いなく
「臆病な自尊心」のくだりは、中島敦自身の考えであったのでは無いかと推測する。
我々は、中島敦の残した作品の少なさを残念に思い、それを悲しむ。
それは無論、中島敦という才能を認める事が出来なかった文壇や出版社の責任だとは思うが、中島敦のその性格にも起因するのでは無いかとも考える。
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2005年10月16日
中島敦の文体模写と文体。中島作品の文章の巧妙
誤解を恐れずに書くならば、中島敦の文体模写は比較的簡単です。
擬似漢文、漢語調のリズムを掴めば良い。
加えるならば、要点は以下の三つでしょう。
1 云々、炯々、区々といった言葉の多用。
2 「朔風は戎衣を吹いて寒く」や、「時に、残月、光冷ややかに」の様に、光と風を印象的に用いる。
3 哲学用語の使用。
作品冒頭を、
魯の叔孫豹がまだ若かった頃、や、
趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、と、人物名を含み時代と出身地を表す文章で始める事も、重要な雰囲気作りかも知れません。これは、紀伝体で書かれた文章の冒頭で、
呂布字奉先、五原九原人也 。以弓馬驍武給并州。 (後漢書)と、姓、諱、字、籍貫を記す決まり事に通じる部分ですね。
呂布字奉先、五原郡九原人也 。以驍武給并州。 (三国志)
この手の上辺だけのテクニックは、少し研究すれば、ある程度の形にはなります。
後漢、献帝の建安元年。豫州は沛国、沛県。県城から一里の西南。
日は朗々とし秋風揺蕩う中、驪に跨がる二百の驍騎と一千の勁卒を引き連れ、そこに呂布が営した。
小沛の軍、歩士五千は既に、城外にて陣を構えている。対する淮南軍は紀霊を大将とし、雷薄、陳蘭を副将とする、歩騎併せて三万の大軍であった。淮南軍は約定ある呂布の接近を聞き、加勢と喜び一時兵卒を休ませた。
この様な感じでしょうか。
しかし、中島敦の文体の凄さを知るのは、ここからという事になります。
先ず「弟子」を引用してみましょう。
ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑み込めないのである。第一、何処かヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。どうでしょう?僕は恐ろしくてこの手の文章でカタカナを使う事など出来ません。しかし、ここに「ヴァイタルな力」という現代人に理解しやすい語句を用いても、微塵も違和感を持たせないのが、中島敦の凄いところです。
又、
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。と「山月記」で書かれた一行などは如何でしょう?「時に残月、」では無く、「時に、残月、」と、音を区切ってリズムを崩し、寂しさを強調しているところなど、我々には真似が出来ません。僕も何度か挑戦しましたが、全くこのリズムは旨くいきませんね。
あの域に達する為には、どれ程の努力が必要なのでしょうか?
昭和十七年の上半期。中島敦の「光と風と夢」は、芥川賞候補に選ばれながら、落選します。
つまり、中島に対する世間の評価は、「芥川賞を取れなかった人」です。
しかし僕は思います。
芥川賞受賞者に、何人中島敦より優れた文学者がいるというのでしょうか?
僕は逆に、中島敦を落選にした事実こそ、芥川賞の権威を疑うべき材料ではないかと、ね。
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2005年12月21日
南洋の中島敦
さて、「謀臣の資質」連載の最中ですが、一旦お休みをして、お勧めの本の紹介です。
中島敦はこのブログでも何度も中島敦作品カテゴリー等で語ってきましたが、今回は作品ではありません。
これは表題どおり、パラオ南洋庁の国語編修書記時代の、家族への書簡を集めたものです。殆どは長男向けに書かれた葉書ですね。私人としての中島敦の優しさや人間的苦悩(こっちは作品でお馴染みか)に触れる事が出来る本です。
中島敦には「環礁 ミクロネシア巡島記抄」という作品がありますが、これの元ネタになったと思われる事件が書かれていたりと、興味深く読む事が出来ます。
中島敦のファンの方には是非の一読をお勧めしたい一冊です。
すっかりと失念していたが、今月四日は中島敦の命日である。十四日の討ち入りも忘れていたし、最近は記念日に疎くていかん。
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2006年01月18日
山月記の初出
アクセス解析によると、「山月記 初出」というキーワードで検索されていた様ですので、今後の為に記しておきます。
昭和十七年二月「文学界」
尚、同年七月、筑摩書房からでた中島敦の第一作品集「光と風と夢」に収められました。
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2006年05月04日
本邦を代表する大作家について
ちょうど一年前、大作家の誕生日に書いたが、本日五月五日は、中島敦の誕生日である。
渡辺 一民著、中島敦論は、「北方行」を中島敦のライフワークとして捕らえ、「北方行」絶筆の理由を、中学時代の友人である湯淺克衛氏の著作、「カンナニ」が検閲された事と推測している。
そして「北方行」に続く各作品を、それが書かれなかったが為の代用品、そしてそれらからの脱却の過程、として論じている。なかなかに面白い。
この本では、
「北方行」の特徴として最後にあげなければならないのは、アクチュアリティーというか、作者中島敦の現代史への関心の深さである。(中略)今日の中国現代史の書物と比較してもじつに完結かつ正確なものであって、同時代の一人の日本の文学者が五年と経たぬうちにその生きた時代をこのように広い視野を持って歴史としてとらええたことに、わたしは瞠目せざるをえないと指摘する。
この指摘に因り気付いたが、この作品に限らず、確かに現代を舞台にした中島作品には現代史への感心が見られる。この事が、後のスティーブンスの伝記的作品や、歴史的資料を題材(若しくは設定を借りた)数々の代表作の下地とも言えるかも知れないと思う。

