2005年04月19日
陳倉城攻防戦(1)
僕は諸葛亮という人を、戦略に才のあった人では無いかと評価しています。
第二次北伐は、敗軍に及び涕を流して之を斬り、而して其の後をあわれむで触れた街亭の敗戦と同年に行われています。
敗戦の直後であっても、敵(この場合魏)が手薄になれば、雪崩れ込む。なかなかに優れた判断だと思います。
第一次北伐自体も、馬謖の失策がなければ、大きな戦果が得られた様な書き方がされていますし、機を見るのが巧かったのでしょう。
まぁだからこそ、作戦家、戦術家としての不味さが際立つ事になった訳ですが。
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2005年04月22日
陳倉城攻防戦(2)
(陳倉城攻防戦(1)の続き)
前回も書きましたが、この戦いは策士諸葛亮という人を軍人として分析する時、最もその特徴が出た事件だと考えます。
八月、周鮑の偽降の為、曹休が陸遜に大敗すると、魏はその対応に追われてしまいます。
このチャンスを見逃さないところが策士諸葛亮の策士たる所以でしょう。十一月には大軍を以って北上を実行。箕谷を経由して散関を越え、陳倉城を囲みました。
この時陳倉城には千人ほどの兵力しかなく、蜀は数万を数える圧倒的多数でした。
策士諸葛亮という人を、抜け目の無い戦略家であると、充分評価出来ると思います。援軍の見込みの無い少数の敵を物資潤沢な大軍で包囲する。勝ちを得るには十分過ぎる条件に感じます。
戦う前に如何に勝つ為の準備を整えるか。戦いを、如何に自分の都合(若しくは相手の都合の悪い時)ではじめるか。彼にはb戦略の重要性が判っていたのですね。
諸葛亮という人は、初めて劉備にあった時、戸籍の調査をして徴兵を適切に行う事を示唆したとされています。軍事に優れた面があったとするならば、戦略と軍政にでしょうか。
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2005年04月24日
陳倉城攻防戦(3)
(陳倉城攻防戦(2)の続き)
そういう訳で、魏の太和二年(西暦228年、蜀の建興六年、呉の黄武七年)策士諸葛亮は陳倉城を包囲しました。この陳倉という小城を守禦していたのがカク昭という将軍です。魏の援軍は当分来る事は出来ない状態であり、カク昭は大ピンチの中にいました。
諸葛亮は先ずカク昭の同郷人である靳祥を遣わし、降伏を呼びかけましたが、カク昭は圧倒的不利の中、それを断ります。それで策士諸葛亮は全面攻撃を開始したのです。
投稿者 strap : 19:13 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月30日
陳倉城攻防戦(4)
陳倉城攻防戦の続き
さて、このカク昭という人は、どういう人だったのでしょう?
カク昭には本伝も無く、魏書明帝伝に名を残すだけの人物です。
生年不詳(没年は正確では無いが、陳倉城での攻防戦から間もなくとある)。出身地は太原郡であったようです。
彼は策士諸葛亮よりの使者靳祥を、弁舌によって退ける能弁家です。
策士諸葛亮は、雲梯や衝車などの攻城兵器や、坑道戦まで仕掛けて陳倉攻略を試みますが、カク昭は適切な処置をし、陥落させる事はありませんでした。つまり、防衛戦の大家であった事が伺えます。
又、緊急時は、墓を暴いてまで物資を調達する合理主義、先祖崇拝の否定(反儒教思想)。薄葬を願う節葬思想。
能弁、都市防衛のエキスパート、合理主義者、反儒教、節葬。
彼は何かに似ている気はしませんか?
投稿者 strap : 15:24 | コメント (0) | トラックバック
2005年05月15日
陳倉城攻防戦(5)
という訳で、一つの仮説をたてます。
最も僕は歴史の専門家ではありませんし、素人の根拠の薄い推論に過ぎないかもしれません。
しかし可能性はあると思います。
カク昭は、三国時代に生き残った墨家の一員、若しくは、墨子に私淑していたのではないでしょうか?
彼は坑道戦で策士諸葛亮の攻撃を防いでいますが、これはノウハウも無しに実行するのは大変難しいと思います。坑道戦まで持ち込む事が出来たならば、攻撃側が圧倒的に有利です。策士諸葛亮は沢山の人間を使って、短時間にトンネルを掘ったのだと思います。併しカク昭はこれに向かって穴を掘って逆襲したのでしょう。
防城技術は卓越しています。
やはり墨家だったのではないでしょうか?
と、こうして歴史上の人物を読み解けば、新しい性格付けができると思います。
投稿者 strap : 21:17 | コメント (0) | トラックバック
2005年05月16日
陳倉城攻防戦(7)全体の流れ
このカテゴリー読み返しまして、歴史全体の流れが掴み辛いなぁなぁと感じました。
という訳でこの攻防戦をざっと紹介する纏めです。年号は三つ書くのがメンfドウなので西暦で。
228年
蜀の第一次北伐。街亭の敗戦により、策士諸葛亮泣いて馬謖を斬る
同年八月
魏の曹休、呉に大敗。
同年十二月。蜀の第二次北伐。蜀の軍、陳倉城を圧倒的多数で包囲するも、攻めあぐねる。包囲から二十日後、糧食がつき、魏の張コウの援軍が迫った為撤兵。
こんな感じでしょうか。
