2005年05月28日
荒野の七人(1)
色々なところで書いていますが、「荒野の七人」は僕が最も影響を受けた映画です。後に名優へと育つ遅咲きの俳優ばかりがキャスティングされた(既に有名だったのはユル・ブリンナーとイーライ・ヲラック位)映画で、決斗三部作で有名なジョン・スタージェンスが監督を務めました。脚本はウォルター・ニューマン(ウィリアム・ロバーツ)、撮影はチャールズ・ラング・ジュニア。そして音楽が巨匠、エルマー・バーンスタインと、低予算映画であるにも拘らず、才能ある映画人の名前が見られます。今考えると、キャストもスタッフも、信じられない位豪華な低予算映画ですね。
僕の作品の主人公には、「実力はあっても世間に認められていない人」という一ジャンルがあり、これには中島敦の「山月記」の影響と共に、この「荒野の七人」の影響が強いと思います。
僕が今までに構想した作品には、
「七人のボディーガード」
とか、兎に角七人のクライムヒーローが活躍する話がかなりあります。
書き掛けの「幽州の七人」などは、関羽がユル・ブリンナー、夏侯惇がスティーブン・マックイーン(若しくは「続荒野の七人」のロバート・フラーでも可)、張飛がホルスト・ブーツホルツという、ほとんどまんまな話で、そのマンマなだけに面白いのではないかと自負しています。
さて、この映画で先ず注目したいポイントは、矢張りクリス(ユル・ブリンナー)とヴィン(スティーブン・マックイーン)の出会いでしょう。
男が突然(病気か何かで)死んだ為、通りすがりの下着のセールスマンが、葬儀屋に埋葬を頼みます。しかし死んだ男がネイティブアメリカンであった為、街の者は共同墓地に彼を埋葬する事を拒みます。それでクリスとヴィンが霊柩車の護送し、力を示して埋葬するのです。この流れ者達が力ずくで埋葬させるところが如何にも痛快なのですが、このシーンで、クリスはダッジシティーの出身だと言い、クリスはトゥームストーンの出身だと答えます(ダッジシティーもトゥームストーンもどんな街か説明は不要ですね)。作中ウインチェスターM92が使われていますし、クリス達が最新式の銃を使っているとは考え辛いですから、舞台は恐らく1900年位でしょう(アープの時代ならウインチェスターM73)。
つまり、彼らは若年の頃、ワイアット・アープの活躍を見ている可能性が高いのです。チコ(ホルスト・ブーツホルツ)がクリス達に憧れたように、クリス達もアープに憧れ、ガンマンになったのかも知れません。どんな作品でもそうですが、シンタリティとか、地域性(肥後もっこすみたいな、国民性、県民性という奴)は書きますし、三国志小説での人間関係は、血縁や学派と共に、地縁(同郷)が重要な要素ですし、この様な演出は参考になると思います。
尚、この時下着のセールスマンが見ず知らずのネイティブアメリカンの葬儀の為に支払う金額にも注目して見ると面白いかも知れません。20ドルは大金なのかも知れませんが、見ず知らずの人の葬式代に出せる程度の金という訳です。後のクリス達七人(チコは無償なので六人)の命の値段の安さが判ると思います。
あと、サイドバイサイドにヴィンが装填する際、シェルを軽く振った後に装填したり、撃ち終わったシェルを抜きながらチェンバーに息を吹きかけたりと、細やかな演出が実に効いていますね。クリスのマッチの擦り方などもさりげない仕草が良い演技だと思います。ツイストドロウでコルトシングルアクションアーミーをファストドロウするクリスに、中学生の頃は憧れました。
2005年06月02日
荒野の七人(2)
(荒野の七人(1)より)
「コバーンが賊の徂撃手を三人と断言した後、なぜブリンナーがそれを納得したか」
とか、
「巻き割りの最中二人が接近すると、(七人の侍の千秋実を意識して)小銃の向きを変えるヒゲ無しブロンソン(丹頂ポマードのCMと、ポール・カージーシリーズで有名)」
「ホーンを掴んだまま馬を走らせる飛び乗るマックイーン(ランダル銃最高!実はコバーンが拳銃無宿にゲスト出演している話あり)」
「ロバート・ボーン、遂に銃を抜く(衰えたとは雖も無茶苦茶強い。流石は0011、ナポレオン・ソロ)」
など、見所満載の映画なのですが、今回は音楽の話。
バーンスタインは、「大脱走/荒野の七人 エルマー・バーンスタイン自作自演 with RPO Pops」の小冊子でこう語っている。
「荒野の七人」では、音楽は興奮を増す事が第一の目的だったが、同時に、音楽無しではテンポの遅い物語展開をテンポアップする役目を担っていた。今度この映画を見る機会があったらよく見ていただきたいのだが、スクリーンの上で実際に起きている事よりも音楽の方がテンポが速い部分が何箇所もある。その意味でこの音楽は、前面に出る場合でも背景として退く場合でも、大変にフィジカルな音楽だと言える。恥ずかしながら、このコメントをみた時、既に軽く三桁は見ていたのに、全く気づきませんでした。実際に音をけしてこの映画を鑑賞すると、バーンスタインの担った仕事の大きさがわかると思います。
さて、この映画の音楽はどれも好きなのですが、特にお気に入りの一曲があります。
ウエルズファーゴの駅馬車の御者に水平二連を借りて、ブリンナーとマックイーンが霊柩車を護送するのですが、これを無事に終えて、霊柩車を還す時に流れる音楽です。ホルスト・ブーツホルツが歓声を上げ、街の人は歓声をあげ、駅馬車の御者が葬儀屋から霊柩車の保険を返してもらうシーン。この映画で最も最初に興奮させられる場面でしょう。
このシーンでつかわれる曲のタイトルは、「Return Of The Seven」。僕のテーマ曲です。

オリジナル・サウンドトラック「荒野の七人」
2005年06月18日
映画「荒野の七人」から学ぶ三国志小説の作法
荒野の七人カテゴリーで数度話題にしたが、「荒野の七人」は映画史上に残る屈指の名作だ。この映画と較べることが出来るアクション映画は数少ない。では、この映画の素晴らしいところは何処なのか?
無論科白も良ければ、音楽も良く、撮影技術も一級品で、役者の何気ない仕草が良い(マックイーンが多くのシーンの背景で、帽子を弄る動きの存在感は実に見事)。アクションシーンの迫力も、激発物に頼らない、本物の演技がそこにはある。しかしこの映画がパイオニアであったのは、その様なところではないだろう。
僕が考えるにそれは、この映画の登場人物達が、古い時代の西部劇とは違い、スーパーヒーローでは無いという事だ。マックイーンのTVドラマ、「拳銃無宿」も、闊達なだけでは無いガンスリンガーが主役であるが、この「荒野の七人」はそれを上回る。無論腕に覚えのある男達が主人公なのだが、皆堅気では無いという劣等感を背負って生きているし、又、自分の力の衰えを感じ怯えていたりと、人間的弱点を持ち合わせている。助けに行った村の村民達には信頼されず、裏切られて一度は盗賊の一味に敗れるのだ。作中男達は、人々に信用の無い我が身を悲しむが、それがここへの伏線となっているとも言えよう。マックイーンの演ずるヴィンは、妻子がいない自分の人生を立派なものではないと言うし、ブロンソン扮するベルナルド・オライリーは子供達に、自分は家族を守る父親の役割が担えない弱い人間だと諭す。彼らは、「本当に強い」という事が、ガンが巧く使えるという事では無いと知っているのである。従来の、ガンを巧く使える男は人々に尊敬される、という西部劇の常識をここでは破壊している。
しかしそれが故に、「荒野の七人」はアクション映画ではあるが、人物を描く場面が多く、個性的な七人の魅力を存分に引き出している。七人の個性が鬩ぎ合い、競い合い、そしてお互いを高めあって、西部劇というアクション映画を、一流の映画へと昇華させているのだ。そして皮肉な事に、七人の魅力を引き立てる事に成功しているからこそ、メインとなるアクションシーンが大いに生きてくるのである。
さて、三国志小説をみてみよう。
三国志を小説化した場合、その主題の多くは戦闘であり、多くのスーパーヒーロー達が活躍する、勝った負けたの作品となる。武と武、勇と勇が会し、どちらが上かを競う。清廉なヒーローグループが、悪の大軍団に寡兵で勝ち、読者は爽快感を得る。
これは、古い西部劇の構造とそっくりでは無いだろうか?
無論、戦闘シーンがまるでなければ、三国志としてはあまり高い評価はできぬだろうし、そればかりの構成でも面白い作品は多くあるだろう。何といっても僕自身が三国志の小説化を、ミリタリー小説の一ジャンルと捕らえている位であるから、戦闘に関わらないシーンは極力落としたいと考えている位だ。
しかし、である。
「荒野の七人」では、何故ああまでアクションシーンが生きてきたのであろうか。と、僕はそこを考える。
僕は、主人公の弱点が、「寡兵である事」というばかりの三国志小説は、他の方に譲ろうと思う。
僕自身は、新しいチャレンジをしたい。
「荒野の七人」以前の西部劇をここでは非難しているようでですが、ジョン・フォードの騎兵隊三部作(特に「黄色いリボン」)などは大好きですよ。
2006年05月07日
荒野の七人(3)
参考:荒野の七人(1)
荒野の七人(2)
映画「荒野の七人」から学ぶ三国志小説の作法
荒野の七人には、忘れられない多くの名シーンがある。
無論、オープニングのイーライ・ウォラック一味の登場シーンは、映画史に残る名シーンであるし、ユル・ブリンナーとスティーブン・マックシーンの出会いのシーンは既に述べた。
科白こそ多くはないが、この映画でのマックイーンのガン捌きと乗馬は凄まじい迫力で、特に最初のイーライ・ウォラックとの接触後に行なわれる戦闘はただただ凄い(dvdでは「チャプター9 カルヴェラとの対面」)。ホーンを掴んだまま馬を走らせて飛び乗り、ウインチェスターM92の馬上片手撃ち。これが堪らなくカッコいい。勿論、イーライ・ウォラック一味のまるで障害競技の様な馬術と、チャールズ・ラング・ジュニアの撮影に因るの1.5Kmに及ぶ横移動撮影、エルマー・バーンスタインの音楽など、多くの要素がこのシーンをよりカッコいい物にしている。
さてこの映画は主人公が七人もいる映画であるので、それぞれに見せ場が用意されている。
ジェイムス・コバーン演じるブリットは、七人の侍で宮口精二の演じた久蔵に相当する役所で、圧倒的な強さを持つ(ホルスト・ブーツホルツを除く)六人の中でも、一つ飛びぬけた実力を持つ。コバーンは以後「ナイフの男」という渾名で呼ばれたという程、印象的な役であり、見せ場は多い。登場、酒場へ現れるシーン、ツーハンドで短銃を構えて逃げる斥候を射殺するシーン。
その中でも特に印象深いのが、狙撃手の人数をユル・ブリンナーが確認するシーンだ(dvdでは「チャプター10 無邪気な子供達」)。
ユル・ブリンナーさえも何処から狙われているのか解らない程の遠距離狙撃。「姿を見たか?」とのブリンナーの問いに、コバーンさえ「いいや」と答える。ここでブリンナーはコバーンに「二人位だろう」と予想を言うが、しかしコバーンは強く否定して「三人!」と。ここでブーツホルツが迂闊に飛び出し狙撃を受ける。再度コバーンが「三人」と言うと、ブリンナーも納得して「ああ」と応える(吹き替え版ではコバーンの「どうだ」という科白にブリンナーが「三人だ」と答える)このシーン、何気なく見ていると何故ブリンナーが三人であると解ったか、という事はわからない。しかしちゃんとこれには訳がある。
先ず、敵の攻撃が「何処から狙われているのか解らない程の遠距離狙撃」であるという事を理解する事がある。その後に、敵の狙撃の銃声のタイミングを良く聞いて欲しい。解ったであろうか?
無論、徂撃に用いられている銃がレバーアクションである事も理解しておかなければならない(発砲に時間がかかる)。
二人にしては狙いが正確過ぎるし、四人にしてはその発砲が遅い。
こういった細かい事にまで気を配っているからこそ、この映画は類を見ない傑作に仕上がっているのだと思う。
2006年05月19日
荒野の七人(4)
参考荒野の七人スレッド
映画「荒野の七人」から学ぶ三国志小説の作法
「荒野の七人」程に、僕に影響を与えた映像作品は無い。
そして「荒野の七人」のロバート・ボーンはカッコいい。
しかしまるで、中島作品の主人公達の様でもある。(中島作品については、中島敦カテゴリーを参照の事)
「荒野の七人」は、腕利きガンマン達の物語であり、ロバート・ボーン演じるリーも勿論凄腕ガンマンである。
にも関わらず、決戦(dvdではチャプター15 「カルヴェラとの決着」)まで劇中発砲は僅かに三回しかしない。
銃撃が始まれば常に隠れ、終わるのをじっと待つ。アクション映画の主人公とは思えぬ位にアクションシーンは少ない。そもそもリーは、命を狙われており、ブリンナー一行に加わるのも、街を避ける為であった。映画の作りとしても、本来アクションの為の人員では無い。ガンマンの悲しみを直接的に描く為の人物である。
特に、悪夢に魘されるシーン(dvdではチャプター12 「おじけづく村人たち」)では迫真の演技に因り、衰えのきたガンマンの悲哀をストレートに描く。洒落者のガンマンが見せる人間的弱さは、見る者に自信を失った人の憐れを強く印象付ける。銃の腕だけを誇りとして来た人が、その誇りを失った姿を見せ、その姿から逆に、平凡な幸せの尊さを強く訴える。
「荒野の七人」という作品は、単純な「勝った」「負けた」のアクション映画では無い。それは一流の人間ドラマでさえある。
ブーツホルツ演じるチコ以外の六人は、皆己が日陰者である事を知っている。恐れられたり頼られたりする事はあっても、決して人から信用され、尊敬される様な存在では無い事を。自分が人に愛される様な存在では無い事を。
そして、銃の腕は抜群だが、それでも自分達には勇気が無い、という事を理解している。家族を養うという責任を負う勇気が無い事を知っているのだ。
しかし、そんなガンマン達は悲しい。盛りを過ぎれば、衰えるだけなのだ。
そして、それを失ったとしても、愛すべき家族もいなければ、寛げる家も無い。引き立ててくれる人もいなければ、人に尊敬もされない。人には愛される事無く、一人孤独に耐え、知らぬ街で撃ち殺され死ぬしかないのだ。
七人がカッコ良いのは、それでも、それを知りながらも、それに耐えて生きている姿であろう。社会に忌み嫌われても、人としての優しさを決して失わず、弱者に手を差し伸べようとする姿勢。これこそ本当の男の姿であると思う。
「負け戦」とわかってはいても、人生という辛い戦いを生き抜かねばならぬ事を知っている事こそが、最高にカッコいい。
それは誇りを失っていたリーも同じである。
最後に人としての優しさから、ガンマンとしての誇りを取り戻し、村人の為に銃を抜くリーの姿はとてもカッコいい。ただの三発。たったそれだけの発砲であるが、そこにはそれまでの苦しみから解放された軽やかさがあり、リーというガンマンの最後の残照がとても眩しく輝く。リーの鮮やかなアクションは、男の誇りが戻ってきた証なのである。
「荒野の七人」はアクション映画ではあるが、それは他のそれとは一線を隔す。本当の意味での名画である。
多くの映画ファンは、爆発や激しい撃ち合い等、派手なシーンばかりを好むから、登場人物の人物描写などには全く興味を示さない。制作サイドとしても、火薬の量を増やして、二枚目俳優とセクシーな女優さえ出しておけば映画ファンは満足するのだから、そんなものに力を入れようとはしない。しかし「荒野の七人」は、あえてそこに力を注いだ映画なのである。しかも皮肉な事に、それらに成功しているからこそ、メインとなるアクションシーンが大いに生きている。「最高の映画を作ろう」という、スタッフ一人一人の熱意が妥協を廃し、素晴らしい映画を作り上げたと言えるだろう。
「荒野の七人」は、評するならば、「最高の映画」である。今迄にこれに並ぶ程のアクション映画は、「大脱走」以外に作られてはいない。
記述者 strap : 01:18
2008年04月11日
「D&D」の影響
ゲームデザイナーである井上純弌氏が自身のブログであるBLOG希有馬屋で述べられている様に、現在の(一部の)娯楽小説はゲームデザイナーであるゲイリー・ガイギャックス氏が生み出したゲーム「D&D」、及びそれを始祖とするRPGというゲームジャンルの影響を、多分に受けている。
井上氏は今から僕が述べる事よりも「広い意味」で述べられている訳であるが、僕はここで登場人物の作法についてのみに限って(しかも否定的に)発言をしよう。
僕は度々「荒野の七人」という映画を「史上最高のアクション映画」と言うが、この映画の優れた部分の一つにスキルで登場人物を表現していないという事があげられると思う。主人公が七人もいるというのに、何か特殊な事が出来るとか、何かが得意だとかといった事で個性が表現されていないのだ。
確かにブーツホルツは「未熟」というスキル不足があるが、これは彼の「(いい意味での)怖さを知らない事」、「無謀な事」、「夢を持っている事」、「情熱や正義感がある事」という個性の為に必要な属性で、彼は六人の若い頃の姿と同じなのであるから、「未熟な人」なのでは無く、「若い頃を思い出させる人」なのである。
又、コバーンの役はナイフ投げを得意とするが、これはオマケみたいなものだろう。
つまり七人もいる主人公達は、持ってる武器や、得意技などで個性を与えられている訳ではなく、その性格によって、明確に分けられている訳である。
もし凡庸な人が七人のガンマンを書いたらどうなるであろうか? 「二挺拳銃使い」、「徂撃の名手」、「馬上撃ちの達人」、「早撃ち名人」などといった人々になっていたのではないだろうか?
僕は「特技」や「武器」で登場人物にお手軽に個性を与える手法を、「サイボーグ009形式」と独自に命名している(もっとも「サイボーグ009」自体はお手軽では無いが、こう言った方がわかりやすいので)。
却説、現在の一部の娯楽小説には、この「サイボーグ009形式」で登場人物の個性を作ったものは数多く存在する様だ。それらは役割分担と呼ばれ、「剣に秀でた者」、「魔術が使える者」といった「スキル」で個性を表すやり方である。
無論こういうやり方は、過去の作品にも多く有ったのだが、僕は本邦の今のそれは、RPGというゲームジャンルの影響だと考えている訳だ。
RPGというゲームでは、戦闘で活躍する場を奪い合わないように、なるべく異なった特技を持つ登場人物を想像する。「D&D」でいえば、「戦士」、「魔法使い」、「僧侶」、「盗賊」、「エルフ」、「ドワーフ」、「ハーフリング」の七つにキャラクターが分類され、「戦士」以外は通常そのゲームで2人以上いる事は無い。これはゲームであるという特性上、ある程度仕方の無い事であった。
ところがこのシステムをそのまま小説に持ち込んだ人達がいるんですね。代表的な作品はドラゴンランスシリーズであろうか。
そして本邦でも多くの劣化した類似作品が作られ、今に至る訳である。それらの作品は明確に、「D&D」以降のゲームの影響下にあると言ってよい。
これらは「指揮」、「支援火器」、「通信」、「衛生」の様な分隊での役割分担に似てはいるが、実はそうではなく、ただ手本(ドラゴンランスシリーズや、RPG)の前例に倣っているだけの、構成でしかない。前例を模倣しただけのそれは、「役割分担」よりも「諸兵科混合」に近い様な気がする。
これらの作品は、安易にそれらの手法(サイボーグ009形式)を取り入れた作品であるが為に、うすっぺらいのである。登場人物はどれも類型的で、特徴が無く、どこかで見た事のある人物ばかりになってしまった訳だ。
スキルによって登場人物を区別するというやり方は、安易であるが故に、人の個性を失わせてしまう。
2010年02月24日
荒野の七人は、最高の映画か?
僕は常々、「荒野の七人は、最高の映画だ!」と主張をしています(当ウェブログ内でも、恐らく何度も同じ発言をしていたと記憶します)。
無論僕の中では然うで、主観で謂えばこれは間違いの事実なのですが、しかしこれに賛同する人々は多くない様に思います。それどころか、「映画ファンが選ぶベスト50」の60年代部門にも、ノミネートされない様なトホホな感じです(尤も60年代は映画の全盛期で、素晴らしい作品が多いのも事実ですが)。
「まあ、これは個人の好みの問題だしなあ~」などと客観視していた心算でしたが、最近違うのではないかなあ~と、思うようになってきました。
この映画を本当に評価しているのは、「現代の社会的弱者の生活や苦悩を知っている者なのではないか」、と思い始めたからです。

荒野の七人という作品には素晴らしい部分が多くあり、僕の小説作品のストーリーは、全て荒野の七人の影響を受けています。しかしこの映画の最も素晴らしいところは、この映画が優しい人を肯定している事だと思います。
荒野の七人という映画は、ユル・ブリンナー達ガンマンの物語なのですが、彼等は普通の暮らしをする人に、疎まれています。そういう生活が厭で、マックイーンの演じるヴィンは就職活動をするのですが、全く巧くいきません。現代で言えば彼等は、契約社員や派遣社員の様な、社会的弱者に相当するのではないでしょうか? 真面目に働きたい、真っ当な生活をしたい、所帯を持ちたい……と考えながらも、世間に冷遇されている人々です。
偖、一方敵方のイーライ・ウォラックを見ますと、こちらも同様の環境である事が推測されます。
実はユル・ブリンナー達七人とイーライ・ウォラックに、然程の際は無いのです。
しかしその僅かな差が、大きな差になっているのではないでしょうか?
平成20年6月8日、秋葉原という電気街で、通り魔殺人事件がおきました。
彼は世間を怨んでいたのでしょう。無関係の人々を殺傷し、現行犯逮捕されました。死者7名、負傷10名の大事件です。
彼自身の境遇を考えると、同情するべきところもあり、事件に至った経緯にも「解からんじゃない」と思える事もあります。又、彼のこの直訴的行動が、多くの社会的弱者への待遇改善を促す切欠になるかも知れない……という側面も持ってはいます。
切羽詰っていて、本人にとってはこうやって憂さを晴らすしかなかったのかも知れません。
しかし、矢張りこれはいけない行為なんですよね。
荒野の七人という作品が何故優れているのかというと、「世間に虐げられているからと、世間を怨んではいけない」という事を教える映画だからだと思います。
イーライ・ウォラック達カルベラ一味は、食料が無い為に人々を襲い、略奪をしています。これはカルベラ一味だけの問題ではなく、カルベラ一味を必要とはしない社会の問題でもある訳です。
生活の為であり、前述した通り魔事件の犯人とは、少し違うかも知れませんが、自分自身の事情の為、全く関係ない人々を苦しめている事にかわりは無いと思います。本人達の理屈では、「仕方ない」というものかも知れませんが、どんな理由があれ、自分の利益の為に人を平然と虐げる事の出来る精神の人々です。
一方ユル・ブリンナー達七人は、同じ環境でありながら、そうは考えていません。ブラッド・デクスター演じるハリーも、金に目がくらんで仲間になりましたが、しかしカルベラ一味の様な野盗とは矢張り違います。人を苦しめずに幸せに成ろうと、もがいています。
苦しい時、誰かを苦しめる事で楽になるのかも知れません。貧しさの為に、他の人から物を奪う行為が当たり前と思える時があるかも知れません。しかし、そうしないかっこよさというのがあるのです。
偖、社会的弱者となった場合、どちらの生き方が正しいのか。それは僕には解かりません。しかし人間社会全体の秩序を守る観点から考えた時、カルベラ一味の様な生き方は、迷惑以外の何物でもありません。被害当事者にとって見れば、相手の事情などは考えられず、ただ悪としか見る事は出来ないでしょう。
この映画は、最後にカルベラ一味が滅び終わりますが、七人にも犠牲が出ましたし、又生き残った人が得をした訳でもありません。恐らく今後も苦しい生活が続くでしょう。
しかし、それでも七人はかっこよく見えます。
「そんなの痩せ我慢じゃないか」というのは尤もな意見ですが、自分の利益の為に憎悪を振り撒くよりも、人の為に生きる人生の方がかっこ良いし、折角の一度きりの人生ですから、かっこ悪く生きるより、かっこ良く生きてみたいじゃないですか。
たとえ他人にその生活水準の低さを侮蔑されようと良いのです。胸に誇りを持って生きたい。
人を怨み、嫉み、呪いながら生きるよりも、人には優しく生きたい。
荒野の七人は、苦しい立場の人間に然う思わせる様な映画です。
物語の構成自体が、そんな社会的弱者の葛藤と同じ構造を持っている事が、素晴らしいのだと思います。
尤も、この映画は正義が悪を倒す単純な映画だと思って見る方が良いのかも知れません。幸せに生きている人には、社会的弱者の境遇などわかりはしませんし、わからなくても良いのですから。
