2005年05月05日
大作家の誕生日
本日五月五日は、中島敦の誕生日です。
明治四十二年、教師中島田人の長男として、東京都の四谷に生をうけました。
お祝いしましょう。
2005年05月13日
中島敦 弟子(1)
中島敦の「弟子」は、
「由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり」だとか、
「由や勇を好む事我に過ぎたり。材を取る所なからん」と言われた愛すべきキャラクター、仲由(子路、又は季路。四男か?)を主人公とした作品です。
彼は論語の中で最も多く現れる弟子であり、「墨子」の「非儒下第三十九」にも名が出る人物で、孔子門弟の中では、我々に最もなじみは深いですね。
政治に長けた弟子たちのリーダー格であり、又勇ましい人物でもある。「弟子」でも
「片言以て獄を析むべきものは、それ由か」と引用されています。又、孔子に最も叱られるのも彼でしょう。
リーダー格、勇ましい、剣客、労働者階級の出身、政治に長ける、一番弟子、最も叱られる、共感できる人物。
これらのキーワードを並べた時、僕は一人の人物を又連想します。
新約聖書ヨハネ福音書第十八章を引用します。
「シモン・ペテロ剣をもちたるが、之を抜き大祭司の僕を撃ちて、その右の耳を切り落とす。僕の名はマルコスと云ふ」シモンは弱さを持った一番弟子として登場し、イエスの死後強力なリーダーシップを発揮する人物となる訳ですが、二人は似ていると思いませんか?
シモンは、
「我に従い来たれ。さらば汝らを人を漁る者となさん」などと言われ、弟アンデレと共に即座に弟子になる訳ですが、こんな所も似てますよね。
非攻(2)に少し書きましたが、墨子の門弟を指揮する禽滑釐なども、
リーダー格、勇ましい、剣客、労働者階級の出身、政治に長ける、一番弟子、最も叱られる、共感できる人物という条件に当てはまる人物だと思います。
2005年05月25日
弟子(2)
(弟子(1))参照
世間的には中島敦の代表作といえば、
「光と風と夢」
「李陵」
「狼疾記」
の三作ですが、僕的には、
「山月記」
「悟浄出世」
そしてこの
「弟子」
です。確かに二作は素晴らしい作品ですが、中島の短編作家としての上手がこの三篇には良く出ていると感じるからです。三篇とも短いですし、人にも薦めやすいですしね。
携帯端末版のサイトに以前作品短く解説を書いていましたので、ここに採録します。
『弟子』は中島敦晩年の作品であり、死後に発見された遺稿である。今読んで実にそのとおりと納得してしまいました。
中島敦はその漢学の素養の為、支那の古典を題材として作品を書く事を得意とした。この作品では、孔子の弟子、子路を主役とし、儒者達を生き生きと描いている。初出は『中央公論』昭和十八年二月号。中島敦は子路という良く知られたキャラクターを生かしつつ、それを自身の「懐疑する人」という、自身が多くの作品でテーマとしたキャラクターの一人とした(この代表は沙悟浄、隴西の李徴、ナブ・アヘ・エリバ博士、三造など)。疑似漢文調と哲学的要素。『弟子』は、中島敦の二つの魅力を備えた、真骨頂ともいうべき名著であろう。
2005年06月28日
プライド 中島敦作品の登場人物
彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。のっけから部分引用で恐縮であるが、上記は「狼疾記」の一説である。この後に、
自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖がと、主人公である三造の性格を語る。
作品「李陵」において主人公である李陵は、
確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己のために身命を惜しまぬ部下五千と共に危なきを冒す方を選びたかったのである。と、兵站輸送を軽視し、
臣願わくば少を以て衆を撃たんなどと謂ってしまう。「悟浄出世」での観世音菩薩摩訶薩の言葉を借りれば、
これを至極の増上慢といわずして何といおうぞ。という事になるだろう。結局李陵がどうなるかは、作品の(史書の、歴史の)示すとおりである。
中島作品の登場人物の多くは、人よりも優れるが故にプライドを持ち、自信があるが為に何らかの失敗を犯してしまう。
自信があるが故に、その弱気の為(一見二律背反するが、彼らは自信はあるが、それが絶対的では無いが故に弱気になってしまうのだ)能力を活かす事ができなかったり、己の能力に頼る事が大きすぎて、過剰な負荷に潰れてしまったり。
この、「プライドのある人」という中島作品の一連の登場人物の中でも特に僕が注目したいのが、「山月記」の李徴である。「狼疾記」の三造とは違い、己の才能に絶大な自信を持つが故に、平穏を捨てチャレンジし、夢破れた男の物語である。双葉の頃より芳しと、幼い頃からその神童振りを謳われた中島は、李徴の様なチャレンジを何度も考えた事だと思う。しかし同時に、三造のようにひっそりと生活する事で、李徴の様な結末を回避しようとも考え迷ったのでは無いだろうか。僕が考える中島作品全体のテーマは、、
才能ある人が世に認められない悲劇と、
少しの才能を元手に賭けをした為に失敗する人の憐れでは無いかと思える。そして中島自身としては、自信のある自身の文才が、
真に優れたものであるのか、
世間の人と較べれば上という程度で、プロとしては通用しないものであったのかは、判断つかなかったであろうから、結局は対の問題であったに違いない。己の能力を真の意味で客観視する事など、誰にも出来ないからだ。例え真に客観視を出来たとしても、白か黒かを判定するならば、その結果が疑心暗鬼を生み、己の客観性を疑うだろう。
中島作品を読んだ時思う事は、中島が真に優れた作家であるという事だ。
漢文調の格調を作りながら、それは下し読みのような平坦なものでは無い。「擬似」漢文調とでも言うべき作風である。リズムを整え崩し、ハードボイルドの手法で人物の心理描写をする手法は見事である。作品「李陵」は、「漢書 卷五十四 李広蘇建伝第二十四」等を下敷きとし、筋も内容も多くは変わらぬが、それが一流の作品となっている。
東京帝国大学国文科、同大学院と、文学論を研究していた中島敦にとって、自身の文章が衆に優れたものである事が、理解できなかった筈は無い。しかしそれでも尚、彼は自身の作品に絶対の自信を持っていなかった節がある(雑誌社に伝手のある人に原稿を預けますが、大切な原稿だからと直ぐに取り返しにいったり)。
山月記を読んでいると、そこに書かれた李徴は、中島敦自身が恐れた、もう一人の中島敦自身の姿なのでは無いかと思う。
己の才を信じ、安定した生活を捨てて夢を追ったものの、名を得るには指一本届かず、空しく散り敗れる男の哀れ。なまじプライドがある為に、賭けに負けた己に情けなくなり発狂してしまうその思い。
「もしもこの道で立つ事が出来ぬなら」
と思う、作家を志す人の不安が書かせたような作品だという気がしてならぬ。
誰もが指摘するように、三造自身は中島敦本人がモデルなのだと僕も考える。
そして、三造の言葉は全てが中島敦の気持ちと合致するわけでは無いかも知れぬが、間違いなく
「臆病な自尊心」のくだりは、中島敦自身の考えであったのでは無いかと推測する。
我々は、中島敦の残した作品の少なさを残念に思い、それを悲しむ。
それは無論、中島敦という才能を認める事が出来なかった文壇や出版社の責任だとは思うが、中島敦のその性格にも起因するのでは無いかとも考える。
中島敦カテゴリーへ
記述者 strap : 00:39
2005年10月16日
中島敦の文体模写と文体。中島作品の文章の巧妙
誤解を恐れずに書くならば、中島敦の文体模写は比較的簡単です。
擬似漢文、漢語調のリズムを掴めば良い。
加えるならば、大きな要点は以下の4つでしょう。
1 云々、炯々、区々といった畳語の多用。(例:「まさに昏々昧々粉々若々として帰する所を知らぬ」)
2 「朔風は戎衣を吹いて寒く」や、「時に、残月、光冷ややかに」の様に、光と風を印象的に用いる。
3 送り仮名は省略(起き上がる→起上る 等)。
4 哲学用語の使用、哲学的な内容。中島敦が好む一般的ではない漢字用法を憶える(駆ける→駈ける 独逸→独乙 科白→台詞 等)。
作品冒頭を、
魯の叔孫豹がまだ若かった頃、や、
趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、と、人物名を含み時代と出身地を表す文章で始める事も、重要な雰囲気作りかも知れません。これは、紀伝体で書かれた文章の冒頭で、
呂布字奉先、五原九原人也 。以弓馬驍武給并州。 (後漢書)と、姓、諱、字、籍貫を記す決まり事に通じる部分ですね。
呂布字奉先、五原郡九原人也 。以驍武給并州。 (三国志)
又、
映画館を出ると、三造は、早めの晩食を認めるために、近所の洋食屋に入った。
三造は、すっかり食慾をなくして、半分ほど残したまま、立ち上がった。
ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!
の様に、ところどころ、句点間は、短めにすると、それっぽいでしょう。
この手の上辺だけのテクニックは、少し研究すれば、ある程度の形にはなります。
後漢、献帝の建安元年。豫州は沛国、沛県。県城から一里の西南。
日は朗々とし秋風揺蕩う中、驪に跨がる二百の驍騎と一千の勁卒を引き連れ、そこに呂布が営した。
小沛の軍、歩士五千は既に、城外にて陣を構えている。対する淮南軍は紀霊を大将とし、雷薄、陳蘭を副将とする、歩騎併せて三万の大軍であった。淮南の軍は約定ある呂布の接近を聞き、加勢と喜び一時兵卒を休ませた。
この様な感じでしょうか。
しかし、中島敦の文体の凄さを知るのは、ここからという事になります。
先ず「弟子」を引用してみましょう。
ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑み込めないのである。第一、何処かヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。又、「盈虚」という作品では、
孔氏の邸に潜入、姉の伯姫や渾良夫と共に、孔家の当主衛の上卿たる・甥の孔悝(伯姫からいえば息子)を脅し、之を一味に入れてクウ・デ・タアを断行した。と書いています。
どうでしょう?僕は恐ろしくてこの手の文章でカタカナを使う事など出来ません。しかし、ここに「ヴァイタルな力」や「クウ・デ・タア」という現代人に理解しやすい語句を用いても、微塵も違和感を持たせないのが、中島敦の凄いところです。
又、
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。と「山月記」で書かれた一行などは如何でしょう?「時に残月、」では無く、「時に、残月、」と、音を区切ってリズムを崩し、寂しさを強調しているところなど、我々には真似が出来ません。僕も何度か挑戦しましたが、全くこのリズムは巧くいきませんね。
あの域に達する為には、どれ程の努力が必要なのでしょうか?
昭和十七年の上半期。中島敦の「光と風と夢」は、芥川賞候補に選ばれながら、落選します。
つまり、中島に対する世間の評価は、「芥川賞を取れなかった人」です。
しかし僕は思います。
芥川賞受賞者に、何人中島敦より優れた文学者がいるというのでしょうか?
僕は逆に、中島敦を落選にした事実こそ、芥川賞の権威を疑うべき材料ではないかと、ね。
2005年12月21日
南洋の中島敦
さて、「謀臣の資質」連載の最中ですが、一旦お休みをして、お勧めの本の紹介です。
中島敦はこのブログでも何度も中島敦作品カテゴリー等で語ってきましたが、今回は作品ではありません。
これは表題どおり、パラオ南洋庁の国語編修書記時代の、家族への書簡を集めたものです。殆どは長男向けに書かれた葉書ですね。私人としての中島敦の優しさや人間的苦悩(こっちは作品でお馴染みか)に触れる事が出来る本です。
中島敦には「環礁 ミクロネシア巡島記抄」という作品がありますが、これの元ネタになったと思われる事件が書かれていたりと、興味深く読む事が出来ます。
中島敦のファンの方には是非の一読をお勧めしたい一冊です。
すっかりと失念していたが、今月四日は中島敦の命日である。十四日の討ち入りも忘れていたし、最近は記念日に疎くていかん。
2006年01月18日
山月記の初出
アクセス解析によると、「山月記 初出」というキーワードで検索されていた様ですので、今後の為に記しておきます。
昭和十七年二月「文学界」
尚、同年七月、筑摩書房からでた中島敦の第一作品集「光と風と夢」に収められました。
2006年05月04日
本邦を代表する大作家について
ちょうど一年前、大作家の誕生日に書いたが、本日五月五日は、中島敦の誕生日である。
渡辺 一民著、中島敦論は、「北方行」を中島敦のライフワークとして捕らえ、「北方行」絶筆の理由を、中学時代の友人である湯淺克衛氏の著作、「カンナニ」が検閲された事と推測している。
そして「北方行」に続く各作品を、それが書かれなかったが為の代用品、そしてそれらからの脱却の過程、として論じている。なかなかに面白い。
この本では、
「北方行」の特徴として最後にあげなければならないのは、アクチュアリティーというか、作者中島敦の現代史への関心の深さである。(中略)今日の中国現代史の書物と比較してもじつに完結かつ正確なものであって、同時代の一人の日本の文学者が五年と経たぬうちにその生きた時代をこのように広い視野を持って歴史としてとらええたことに、わたしは瞠目せざるをえないと指摘する。
この指摘に因り気付いたが、この作品に限らず、確かに現代を舞台にした中島作品には現代史への感心が見られる。この事が、後のスティーブンスの伝記的作品や、歴史的資料を題材(若しくは設定を借りた)数々の代表作の下地とも言えるかも知れないと思う。
もう一冊紹介しておく。
中島敦―注釈・鑑賞・研究は、一部の作品本文(抄録)と注釈も同時に収めた研究書である。旧字旧仮名で中島作品が安く読めるのは嬉しいし、「山月記」と比較する為に李景亮の「人虎伝」が全文(邦訳で)収録されているのも嬉しい。「第四章 『悟浄出世』中の「鮐魚の精」を巡る諸問題」は、「五 菊池寛との引用箇所との関連性」など、興味深く読んだ。
又、著作目録と年譜はありがたい。
2006年06月15日
「山月記」感想
僕は先日、周倉木強人也と題したエントリーで中島敦の「五月五日自哂戯作」という五言律詩を紹介したが、今「山月記」を読みかえすと、「狷介」という言葉が気にかかった(中島自身の事を指す「木強嗤世事 狷介不交人」を下し読みするならば、「木強にして世事を嗤い、狷介にして人と交わらず」)。
「山月記」では
性、狷介、自ら恃む所すこぶる厚くと、李徴を説明している。今、この「狷介」という言葉に注目して見ると、物語の前半部分に、獣編の漢字が意外に多い事に気づく。穿った見方をすれば、
若くして名を虎榜に連ねや
鈍物として歯牙にもかけなかったといった一文の「虎」や「牙」でさえも、変身予告に感じてきてしまう。第一、「虢略」という李徴の故郷の名には「虎」の字が含まれているのだ。知らぬうちに暗示をかける効果でも狙ったものであろうか。
参考→「山月記」と「人虎伝」
僕は弟子(2)で「山月記」を中島敦の代表作三作の内に入れたが、これには多くの名文がある。
ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。という、倒置法を用いた文章は、その悲痛が叫びとして感じられる勢いある名文であるし、中島敦の文体模写と文体。中島作品の文章の巧妙で紹介した
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。は、暗記したい程に美しい。
しかし、中島作品は、こういう細部ばかりを見ていると、その文章の巧妙のもっと大きな部分を見落としかねない。
「山月記」は李景亮の「人虎伝」という怪異譚をモチーフとしている。つまり、非現実的な物語と言えるだろう。僕は科学の信奉者であり、怪異や奇跡、魔術といったオカルトは正直ある訳が無いと認識しているし、そういう話を軽蔑もしている。今日のtvを見ると、卜占や前世の事といった、胡散臭い事を語る人達が出演している番組が多数あるし、超能力捜査などが大手を振っている。それを本気で信じている人達をみると、噴飯の至りだとすら思う。
しかしそんな僕が、この怪異譚に対して「そんな莫迦な話がある訳無い」とは、全く思わなかったのだ。作品が物語である為とはいえ、これは自分でも不思議で仕様がない。それ位に自然に、事の奇異を感じなかった。作中
後で考えれば不思議であったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪しもうとはしなかった。とあるが、まさにその様な感じなのである。中島敦の手腕には唸るほかない。
ブログを回っていて見つけたのであるが、蒼い月の観察日記。さんの
とにかく、ありえない話なのに凄い現実味があるような感じが好きです。(何)という一文には大いに頷いた。
尚、「山月記」に対してはこう思ったが、同じ中島敦作品でも、「名人伝」は僕にはやりすぎの様に感じてしまう。
「牛人」や「悟浄出世」などは最初からそういうスタンスで書かれているので、割り切って読む分、最初から気にならぬのではあるが。山月記の初出に関してはこちら。
記述者 strap : 01:57
2006年09月09日
「山月記」と「人虎伝」
中島敦の「山月記」は、李景亮の志怪小説である「人虎伝」をもとに、独自のアレンジを加えられた文芸小説である。二作は非常に良く似ているが、違いも多くある。
中島敦は、芸術に捕らわれた己の姿を映す為に、その筋書きを借用したと見るべきであろう。
僕は、中島敦―注釈・鑑賞・研究に収められた「人虎伝」の和訳を参考に、二作を読み比べるが、二作はほぼ同じものであるだけに、その違いの生ずるところに中島敦の主張や、技のキレを見つけて大変に面白い。
先日僕は、「山月記」感想に、「物語の前半部分に、獣編の漢字が意外に多い事に気づく」と書いたが、「人虎伝」と比べると、矢張りそれは思う。「人虎伝」の前半部に虎を連想させる言葉は「発狂」一つしか無い。
隴西の李徴は皇族の子にして、虢略に家す。と、故山こそ虢略であるが、そこには「虎榜」の字も見られず、ただ
進士に登台す。と書かれるのみである。「狷介」の字も無ければ、「容貌」、「狂悖」の字も無い。
意識したのでは無かろうかと思う。
又時代設定を、原書の南北朝時代から唐の時代に変更しているのも興味深い(すいません、勘違いでした。原文「天宝十載」)。
「山月記」は李白や王維、杜甫の活躍した時代と同時代である。この意味を考える時、この作品のテーマにより深く触れる様な気がする。
記述者 strap : 02:50
2007年07月09日
解説修正:「山月記」と「人虎伝」
最近、「山月記」というキーワードでこのページを多くの人に見て戴いているが、エントリー;「山月記」と「人虎伝」に重大な誤りがあったので、改めた。
科挙の制度が隋から始まった事に疑問を持ち、調べていたら解決した。
「天」を「大」と読んでいたらしい。「大宝十五年」は西遊記の「貞観二十七年」みたいな、架空の年かな、と(これは例えるなら「昭和六十五年」みたいな、実在しないもの。貞観年間は二十三年までしか存在しない)。
しかしこの物語が、李白や王維、杜甫の時代である事は、やはり大きな意味があると思う。
話は変わるが、ここで僕の記事が紹介されていた。 →紹介されていた記事
この記事は自分の記事の中でもベスト10に入る良質な記事であると思っていたので、他人に認められたのは素直に嬉しい。
記述者 strap : 09:16
2007年07月17日
中島敦の文体
文体模写とは抑々モノマネの一ジャンルであって、文章修練の為の勉強方という意味は非常に薄いと僕は考える。
実力派の歌手の歌マネがどんなに巧くても、歌唱力があるとは必ずしも言い切れないし、無い場合が殆どであろう。
それは文体模写も同じことで、上辺だけを真似は出来ても、その本質をコピーする事は、大変に難しい。
中島敦の文体はなどは正にそれで、文体は現代に生きる我々にとって特徴的過ぎる為、似せる事は簡単であるが、その美しさをまねる事は大変に難しい。
その難しさはどこから生まれるのか、という事を考えた時思い当たる事があったので、自身の為に記しておく。
中島敦の文体は、過ぎる位に美しい文体であるにも拘らず、美文では無い。
当然技術が無い訳では無いし、高度な技巧が施されている訳であるが、麗句を並べた華美な言葉ではないし、美しく飾り立てようとした言葉では無い。その美しさは、音のリズムと、字面(漢字の形の並び方)の美しさだけでは無く、そこに「表現しようとする力」が存在している事も重要なファクタァであろうと思う(無論それを裏打ちする、確かな教養も、大事な因子だ)。
喩えるならそれは、衣服や装身具、化粧、整形で飾り立てた美しさではなく、飾らない質素な、身だしなみを整えた程度の人の美しさである。本質的に美しいならば、後者の方が断然美しい。
美しい言葉、美しい韻。又は、美しい情景、美しい「人物の心情」。これらが文章を美しくする訳では無い。それで美しい文章になったとしても、それは上辺の美しさであり、中島敦が持つ様な、中から零れる美しさとは異質である、という気がする。
記述者 strap : 16:28
2007年09月12日
「悟浄歎異 沙門悟浄の手記」にある矛盾
奕旨と囲棋賦の違いについて書こうと考えていたが、後日にする。
「悟浄歎異 沙門悟浄の手記」を再読していて、おや? と思う事があったので、記しておく。
中島敦という人は、人間の内面描写には力を入れた様だが、こういう事には頓着しない性格だったのかもしれない。
先ず中島敦は悟浄に、
俺は、悟空の文盲なことを知っている。かつて天上で弼馬温なる馬方の役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧と判断の高さとを何ものにも優して高く買う。と、孫行者の事を語らせています。
元の「西遊記」に、孫行者が文盲であるという記述は無かったと思いますので、これは中島敦の作品中で付加されたものだと僕は考えています。しかしこの設定(「知識は無いが智慧は有る」という性質)が有る為、頭でっかちの悟浄が孫行者と己とを対比する構造が生まれています。これは知識(文字)が人の思考を阻害するという「文字禍」等で何度も語られた内容であり、「悟浄出世」のメインテーマからの引継ぎでありますから、中島敦の中で非常にウエイトの高い問題であると考えられます。元々悟浄という哲学者は、この様な事を語る為に借用されたキャラクターですから、行動的な孫行者を文盲とする設定は、必然的誇張であった様に思えます。
しかし、西遊記には孫行者が五行山に囚われる切欠となる、有名なシーンがあります。「悟浄歎異 沙門悟浄の手記」自体から引用してみましょう。
そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲の履を穿き鎖子黄金の甲を着け、東海竜王から奪った一万三千五百斤の如意金箍棒を揮って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙の集まる蟠桃会を擾がし、その罰として閉じ込められた八卦炉をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙ぎ倒し、三十六員の雷将を率いた討手の大将祐聖真君を相手に、霊霄殿の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉・阿難の二尊者を連れた釈迦牟尼如来がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞がって闘いを停めたもうた。悟空が怫然として喰ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修しえたというのか?」悟空曰く「東勝神州傲来国華果山に石卵より生まれたるこの俺の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生の法を修し畢り、雲に乗り風に御し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来曰く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空は、いきなり如来の掌の上に跳り上がった。「俺は通力によって八十万里を飛行するのに、なんじの掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらずきん斗雲に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々として言った。
書いた文字を「せいてんたいせいここにいちゆうす」と下し読みするか、「せいてんたいせいとうしいちゆう」と読むかは好みですが……こんな事書いたら文盲って事にはなりませんよね。
記述者 strap : 15:23
2008年02月22日
牛人 (と「弟子」)
牛人というのは、中島敦の短編小説で、「古俗」と題された作品群の中の一遍。盈虚と共に昭和十七年七月に政界往来昭和十七年七月号(第十三巻七号、昭和十七年七月八日政界往来社発行 170~174ページ)にて発表された、彼には珍しいホラー小説である(同年十一月、今日の問題社からでた単行本「新鋭文学全集2 南島譚」に収められている。草稿や原稿は残されてはおらず、製作年代は不明)。無論、ホラー小説と位置付けているのは僕だけかも知れないし、事実(小説としてでは無く)ホラー小説として評価するならば、未熟な作品ではある。
しかしこれはやはり、豎牛という怪人の恐ろしさをその父である叔孫豹が体験する一種の復讐劇であると理解するべきであると思うし、恐怖体験が書かれた小説であると考えるべきであろう。
この作品は、春秋左氏伝の昭公四年(紀元前538年)の記事(「十二月癸丑、叔孫不食、乙卯、卒」のあたり)をもとに書かれているが、最近これに気付き、あっ! と気付いてしまった。
というのもこれは、中島敦の代表作である「弟子」と同時代・同地域を扱った小説であるからだ。
叔孫豹の子である仲壬が斉に亡命のは、昭公に与えられた玉環を身に付けたからであるが、「弟子」でもこの昭公については少し触れられる。「弟子」では昭公が亡命先で死亡した事が書かれ、孔丘が昭公の次の王である定公に仕官する事が書かれているのだ。
「牛人」で書かれた物語はこう考えてみると、中島敦の得意とする儒教の記述から取材された事がわかる。春秋左氏伝が元ネタで、しかも(故に)「弟子」に極めて近い時代であった事に驚きを覚えた。
却説、今久しぶりに「弟子」を読んでいるのだが、どうやら中島敦には、儒教が宗教であるという認識が欠けていたか、(当時の日本では思想と考えられていたので)それを匂わせなかった。
この物語がもし宗教人の物語として描かれていたなら、印象は随分と違ったものになったと思う。
尚、「弟子」を何と読むか、という問題であるが、
子路が他の所ではあくまで人の下風に立つを潔しとしない独立不羈の男であり、一諾千金の快男児であるだけに、碌々たる凡弟子然(ぼんていしぜん)として孔子の前に侍っている姿は人々に確かに奇異な感じを与えた
と、作中にルビがあるので、「デシ」ではなく、「テイシ」と発音すべきだと僕は考えている。
2008年06月26日
今年も山月記の講義の時期です
知人の国語科教師が初めて山月記を講義するという事で、連絡をくれました。
話をしていてわかりましたが、僕がブログに書いている内容は、指導書に書いてある事ばかりの様です。
2009年02月04日
今年で100年
北九州市立松本清張記念館で、松本清張生誕100年記念として、「一九○九年生まれの作家たち」という企画展が行なわれています。
http://www.kid.ne.jp/seicho/html/event/kikaku.html
松本清張、大岡昇平、太宰治、埴谷雄高に加え、我らが中島敦に関する展示もあるようですよ。
(2009/06/12追記)
遠いので往きませんが、神奈川近代文学館でも様々な企画が有るようです。往くならば、此方の方が資料が豊富で、レプリカでもないので良いかも知れません。
生誕100年記念 中島敦展―ツシタラの夢―」
2009年12月16日
『李陵』のテーマと『三国志演義』のテーマ
二週に渡って国営放送のドラマ「坂の上の雲」について(それぞれ別のカテゴリーで)感想を書きましたが、第三回「国家鳴動」に関しては、日誌にちょろりと書くだけに留めます(もっと書くなら、西田敏行が50円札の役で出ていますね。名前だけは何度も1万円札が出てきます。現行のものをみてもそうですが、モチーフに明治期の人物は多いです)。今後書くかどうかは決めていません。
気が向いたら書くかも知れません。
とはいえ、なるべくブログの趣旨に反しない様に書いてみます。
****以下本題*******
中島敦の『李陵』を読んで僕が感じるのは、結局は『山月記』と同じテーマを書きたかったのではないかという事です。
無論、『李陵』には『李陵』独自の、『山月記』には『山月記』独自のテーマがあるのですが、しかし中島敦が最も強く、何時も思っていた事は、「自惚れの為に破滅する人」では無いかと思います。『李陵』の李陵も、『山月記』の李徴も、自分の実力以上の事に挑戦して失敗をしていますし、先ず間違いはないでしょう。これは中島敦にとって、重要な問題だったのだと、そう僕は確信をしています(中島敦自身の、原稿の預け方などに、それを思わせるところがあります)。
恐らく中島敦は、己の文才に非常な自信があったのだと思います。しかし彼のその自信は又、「臆病な自尊心」でもあったのでしょう。『狼疾記』には
彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。人中に出ることをひどく恥ずかしがるくせに、自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖が、才能の不足を他人の前にも自らの前にも曝し出すかも知れない第一の生き方を自然に拒んだのでもあろう
という一文がありますが、中島敦自身、そういう「臆病な自尊心」を持ち合わせていたのだと思います。そして「臆病」である故に、自分の文才に自信を持ちながら又一方では「才能の不足」が露呈する事を恐れていたのだと思います。
と、こうは書きましたが一方、『李陵』前半部には「才気溢れる人が、充分な活躍の場を与えられぬ苦悩」というテーマが混在しているのではないかと思います(史実の李陵がどうであったか、という話ではなく、その史実がどう解釈されたか、という話です)。事実中島敦は李陵を、優れた指揮官として描いています。
二律背反している様に感じるかも知れませんが然うではありません。僕はこの作品を、「才気溢れる自惚れた人が、充分な活躍の場を与えられぬ為、無理な仕事に挑んで破滅する」物語だと思うからです。結局「臆病な自尊心」というのは、「自らを高しとする点では決して人後に落ちない性癖」を含んでいる訳で、「挑戦すれば成功するだろう」という自信と、「挑戦して失敗をすれば、破滅するだろう」という恐れの自家撞着なのだと思います。
そしてこれは又、中島敦自身の心にあった、葛藤でもあるのではないでしょうか?
自分の文才に自信があるも、それを否定されるのは恐ろしい。しかし、それを世に問いたいという欲求も強く持っている、という様な……。
そうして見ると『弟子』なども、「師である孔子が認められない事に歯噛みする、子路の物語」と読めない事もありません。
一方『三国志演義』ですが、こちらは長大な物語であり、長大であるが故に(無論別の理由もありますが)多くのテーマを含んでいます。しかしこの物語でも、諸葛亮登場部分迄の主要テーマは『李陵』と同じく、「才気溢れる人が、充分な活躍の場を与えられぬ世の厳しさ」では無いかと思います。
無位無官の劉備とそれに従う関羽や張飛は、官職に無いが為に小物と嘲られ、活躍をしても全く認められる事は有りません。彼等の事を唯一認めるのが、後に最大の敵となる曹操なのですが、この曹操にしてからが、あまり大人物という扱いを受けていません。名家に生まれた人が、その生まれのみで尊いとされ、その尊い人物に使える人が、関羽や張飛に劣るというのに、豪傑の扱いを受けています。
優れた人が全く評価されぬ事に義憤し、そしてそんな彼らが活躍する様を、人々は愛し、楽しんだのではないでしょうか。
現代日本ではピンと来る人が少ないかも知れませんが、職業選択の自由が無かった時代の庶民は、生まれのみを理由に驕る人を、真に優れたヒーローが打倒する話を好んだのではないでしょうか。
僕には、そう思えます。
****本題以上*******
偖、町は待誕節に入ってからというもの、イルミネーションでギラギラしています。日本人独特の宗教観で、切支丹の祭がそれほど宗教臭くありません(中島敦の『弟子』に出てくる儒家も、宗教団体というよりは、まるで思想集団の様です)。
教会には、「ナザレで建築業を営むヨセフさんの坊やが、厩で生まれた場面」を再現する模型があったのですが……思わず言って了いました。
「イスラエルでこんなに雪が降るものか!!!!!!」
そこにはキリスト者の人達が沢山いたのですが、僕は何故か凄く睨まれて了いました(調べてみると、稀に降る年がある様です)。
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2010年02月27日
国語教科書の「山月記」に違和感
以前複数の資料に当たるという事という記事で、教科書の間違いを指摘しましたが、今回も似た様な内容かもしれません。
ご存知の様に中島敦の作品は、旧字体旧仮名遣いで書かれており、今我々が読む作品の多くは、新字新仮名で書かれています。
その過程で、今日使わぬような「其の」を「その」と開いたり、各出版社工夫している訳です。
「山月記」を少し引用してみましょう。
この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。
この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。
この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。
この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、かつて進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。
(微妙な違いなので判りづらいかも知れませんが)一番上の「青空文庫 旧字旧仮名」に対して、「端正・格調高い文章を味わう 中島敦 (別冊宝島1625)」は最も忠実に漢字を残していますが、あとの二つはそれぞれ少しづつ開いています。
偖、先日高校生用の国語教科書に納められた「山月記」を読む機会を得ました。ISBNなどが書いてないので、どう表現したら良いのか分かりませんが、明治書院の「精選国語Ⅱ 二訂版」という本です。
僕はこの本の「山月記」を見て、すぐに違和感を覚えました。
簡単に言うと、「膝を俗悪な~」を「ひざを俗悪な~」の様に、漢字を開き過ぎていて、ひらがなだらけなのですが、それだけではなく、漢字が変更されているのです。
先ほどと同じ文を引用してみましょう。
このころからその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみいたずらに炯々として、かつて進士に登第した頃の豊頬の美少年の面影は、どこに求めようもない。
おわかり戴けたでしょうか?
漢字の開き方が甚だしいというのもありますが、それよりも「俤」が「面影」に改められています。
この直前でも
しかし、文名は容易に揚がらず、生活は日を追うて苦しくなる。
と改変しています。ここは本来
しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。
という部分で、「揚らず」を「揚がらず」に、「逐う」を「追う」に改変しています。
改変の酷い一文を前半からもう一つ抜き出すと、
或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。
が、
ある夜半、急に顏色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下に飛び下りて、闇の中へ駆け出した。
になっています。
起上る→起き上がる
とび下り→飛び下り
駈出した→駆け出した
と、送り仮名を変更したり、勝手に漢字に直したり、漢字を変更したりと、無茶苦茶なのです。
作品は現代人が読む物ですから、仮名遣いを改めたり、漢字を開くのは、当然の行為だと思うのですが、こういう改悪は、如何なものでしょう?
これで作品の質が著しく下がるというものではありませんが、何故こんな事をするのか、解かりません。
漢字が難しいから改めた……というのなら、冒頭の
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
という一文の中に、何度見慣れない字が出てくる事でしょう。
慥かに「逐う」や「俤」、「駈出す」は一般的ではないかも知れませんが、ならば字を改めず、開けば良いだけの話だと、僕は思います。
送り仮名も、「起上る」は間違いで「起き上がる」が正しいとしたいのでしょうね。僕自身の好みを言えば、「起き上がる」の様に、送り仮名は一字多い方が字面が美しいとは思いますが……しかしそうだからと言って、筆者が選んで用いた送りを改変するのは、どうかと思います。
文部省(当時)の方針なのか、教科書会社の方針かは知りませんが、作品を改変し過ぎている様に思えてなりません。
送り仮名に関しては、文科省のサイトを見ると、
許容 読み間違えるおそれのない場合は,次の( )の中に示すように,送り仮名を省くことができる。とは有るのですが……〔例〕 書き抜く(書抜く) 申し込む(申込む) 打ち合わせる(打ち合せる・打合せる) 向かい合わせる(向い合せる) 聞き苦しい(聞苦しい) 待ち遠しい(待遠しい)
田植え(田植) 封切り(封切) 落書き(落書) 雨上がり(雨上り) 日当たり(日当り) 夜明かし(夜明し)
入り江(入江) 飛び火(飛火) 合わせ鏡(合せ鏡) 預かり金(預り金)
抜け駆け(抜駆け) 暮らし向き(暮し向き) 売り上げ(売上げ・売上) 取り扱い(取扱い・取扱) 乗り換え(乗換え・乗換) 引き換え(引換え・引換) 申し込み(申込み・申込) 移り変わり(移り変り)
有り難み(有難み) 待ち遠しさ(待遠しさ)
立ち居振る舞い(立ち居振舞い・立ち居振舞・立居振舞) 呼び出し電話(呼出し電話・呼出電話)
以前孫康映雪 車胤聚蛍というエントリーで、教科書が原文を改変していると書きましたが、教科書とはそういうものなのかも知れませんね。「学生が分かり易い様に、簡単に直しとこう」みたいな気持ちで、改変をするのかも知れません。
************
却説、改めて別にエントリーを設けようと思っていましたが、面倒なのでここで紹介します。

以前僕は、中島敦 弟子(1)というエントリーで、子路とシモン・ペトロの類似性を指摘しましたが、この本でも指摘されています。この指摘はキリスト教圏の人には皆思い当たる考えなのかも知れません(シモン・ペトロの頭文字と尻文字が「し」と「ろ」である事も、面白い一致ですね)。
この本が最もユニークなのは、「The Moon Above the Mountains」というタイトルの、「山月記」の英訳が付けられている事です。
「山月記」の素晴らしさの一つは、その日本語の美しさにある訳で、英訳で読んでもなあ~と考えては了いますが、まあ中々面白くは読めますよ。別物の、英語の勉強だと思って読むと良いと思います。
「The Moon Above the Mountains」を直訳すると、「その山々の直上のその月」ですが……これで良いんですかね? 自分のイメージとは、少し違う気がします。
2010年03月05日
山月記を音読する - 「東京」を何と発音するかについて
最近の僕の日課は、中島敦作品の内の一遍を、音読する事です。
しかし音読をしている心算が、思わず力が入り、しばしば朗読になって了います。そうなる度に「いかんいかん」と思うのですが、それだけ中島敦の力量が優れているという事の証左でもあるでしょう。
却説、音読する作品はその日の気分によって変えるのですが、中でも山月記は好んで音読する一遍です。しかしこの山月記、なかなかに難しい。
先ず出だしの「隴西」からして、なんと読むべきか、良く解かりません(青空文庫や山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)では「ロウサイ」説、江守徹の朗読
や、最近一押しの端正・格調高い文章を味わう 中島敦 (別冊宝島1625)
では、「ロウセイ」説を採っています)。
現在の隴西県は「ロウセイ」と読まれる事が一般的な為、「ロウセイ」の読みの方が有力な様ですが、それと中島敦が何と読ませたがったかは、本来全く関係のない事です。
偖、「東京」という地名があります。無論ご承知の通り、我が国の首都です(東京という地名は実は多く、三国志では洛陽の別名でもあります。ベトナムのハノイなども、昔は東京と呼ばれており、その名残がトンキン湾です。ですが今回は、我が国の東京都を指す語だとご理解下さい)。
一体この地名は、何と読むべきなのでしょうか?
「トーキョー」と読むべきと、考える方が殆んどではあるでしょうが、場合によっては「トウケイ」と読みます。
これに関しては、東京都公文書館というサイトに詳しく書かれています。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0715tokei.htm
僕の好きな山田美妙(今年、没後100年目です)の代表作である「武蔵野」も例に引かれ、「トウケイ」という読みが紹介されています。 (参考→ 青空文庫;武蔵野)
鳥渡引用してみましょう。
慶応四年(一八六八)七月十七日、「万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス」と天皇親政を掲げた詔書が出され、そのなかで江戸は「東国第一ノ大鎮、四方輻輳ノ地」であるとして、「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」と、江戸は東京と改称された。そして、それまで京都を御座所とした天皇は東京へ行幸し、そのまま居続けた結果、事実上の遷都が行われた。こうして「京=みやこ」は東へ移ったのである。
このとき、江戸は東京と称することとなったが、そこに振りがながあるわけでもなく、読み方について「トウキョウ」「トウケイ」のどちらを採用すべきかについては、根拠となるような法令が出たわけでもなかった。
ここで、明治初年の小説に「東京」が登場する場合、そこに付された振り仮名に注目すると、「トウキョウ」読み「トウケイ」読みとも、それぞれ次の諸例をあげることができる。
(後略)
これは一体何故なのか?
前述した東京都公文書館から(遡って)もう一度引用してみます。
「京」には「キョウ」のほかに、「京師(ケイシ)」のように「ケイ」と読む場合がある。より専門的にいえば、「キョウ」は呉音、「ケイ」は漢音での読み方である。
呉音とは、古代中国の呉の地方(揚子江下流)から伝来した音で、多く僧侶により用いられた。「行=ギョウ」とする読み方である。また漢音とは、唐代長安(今の西安)地方で用いられた発音で、遣唐使、留学生などによって奈良時代・平安初期に輸入された。「行=コウ」とする読み方である。こちらは、主に官府や学者に用いられた。
(中略)
同じ漢字を同じ意味で用いる場合であっても、呉音で読むか、漢音で読むかは、学問の系統により、それぞれに読みならわし方があったことがうかがえる。『浮世床』の儒者孔糞は、壁にはりつけてある寄席のちらしを見て、「今昔物語(いまむかしものがたり)」を「コンセキブツゴ」、「朝寝坊夢羅久(あさねぼうむらく)」を「チョウシンボウボウラキュウ」と漢音で読み、勘違いしたうえで小難しく講釈してみせる、その滑稽さのなかに、儒者は漢音を用いるという慣例が見てとれる。
たしかに、江戸時代の漢学者太宰春台は、『和読要領』のなかで「長安ヲ西京(セイケイ)西都ト称シ、洛陽ヲ東京(トウケイ)東都ト称ス」と、京の字を漢音で読んでいる。また一方で、『日葡辞書』では、東方の都の意味で「Tôqio」の語が収録されている。
このように、日本で「東京」が地名となる以前から、「東方の都」という意味での「東京」という語彙は存在した。そして、「京」には漢音「ケイ」、呉音「キョウ」と二通りの読み方があり、学問の系統によって、漢音呉音をそれぞれ使い分ける慣例があった。こうした背景から「東方の都=東京」の読み方は一定せず、「トウケイ」とも「トウキョウ」とも読みならわされていたであろうと考えられるのである。
つまり、「トウケイ」は漢音であり、漢学者達はこちらを好んだ、という訳ですね(註:「日葡辞書」とは、日本語をポルトガル語にした辞書の事です)。
却説、実際中島敦が「隴西」を何と読ませたかったのかは解かりません。
現在出ている書籍では、前述したように「ロウセイ」と「ロウサイ」の二種類の振り仮名が用いらています。
そして西の発音は、「セイ」が漢音、「サイ」が呉音です。
僕自身は「ロウサイ」と読む音が好みなのですが、中島敦が漢学の素養を持っていた事を鑑みるなら、「ロウセイ」の方が、どうやらより正しそうではありますね。
と、山月記は出だしからして、読むのが難しいのです。
中島敦「古譚」講義という本があり、僕はこの本の内容がイマイチピンと来なかったのですが、この本で著者は、中島敦の作品は音読すべきではないと主張しています。
僕自身、その意見自体は暴論なんじゃないかと思うのですが、確かに何と読むべきか解からない(迷う)箇所は多く、然う言いたくなる気持ちも解からぬではありません(この著者は、「白露」の語を問題としています。「しらつゆ」と読むか「ハクロ」と読むか、という事ですね。この著者自身は「しらつゆ」と読む方が美しいと考えている様ですが、僕は「ハクロ」の方が気持ちいいと思います)。
わざわざ冒頭から「虎榜」と、虎の字を用いた事からも分明る様に、字形によるイマジネーションの喚起をも意識した作品ではあるからです。
一理あるかも知れません。
「弟」という字は「弟妹」をはじめ、「師弟」、「門弟」、「実弟」、「舎弟」、「子弟」、「高弟」、「姉弟」、「賢弟」などと使う様に、「テイ」と読む場合があります。
この「テイ」という音も、漢音です。
なので、牛人 (と「弟子」)というエントリーで「弟子」という作品名を何と読むかという事に軽く触れましたが、やはり「テイシ」と読むべきなのでしょうね。
**********
漢字の読み方についての蛇足
このサイトは三国志に関するものですので、ちょいと又例を出しますと、曹操の息子「曹植」を何と読むか、という問題もあります。
文学では慣例的に「ソウチ」と読み、三国志の登場人物としては「ソウショク」と呼ばれる事が多いようですが…… 南飛烏鵲楼さんが詳しいようですので、リンクを設けておきます。
http://taketaturu.blog68.fc2.com/blog-entry-124.html
「和尚」を何と読むか? など、この手の問題は実に難しいです。
**********
今度は全くの蛇足。
以前、三国志と囲碁(3)というエントリーで軽く紹介した、「精魂の譜 棋士加藤正夫と同時代の人々」が本になっていました。

今一度紹介しておきます。
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2010年06月26日
山月記と虎狩
六月の末と云えば、どうしても朝鮮動乱(俗に云うアコーディオン戦争。韓国では開戦日にちなみ、6・25(ユギオ)と呼称する)を思い出して了いますが、今回は朝鮮を舞台にした虎狩という中島敦作品の話。
五月の中頃の深夜、福岡市天神で、韓国人学生(二十代半ば)の旅行者二人に道を訊かれました。
中州で呑んでいたらしいのですが、愉しくて終電を逃して了ったのだそうです(ハイヤーを使う余裕はなかった様だ)。(不況の影響も考えられるが)GW開けという事で、歓楽街はこの時期特に良いサービスを提供しなければやっていけないのかも知れませんね。然ういう意味では、彼等は良い時期に来日したのかも知れません。
彼等のホテルは、四つ先の西新駅付近という話でした。赤坂駅から道なりに、歩けば良い事は知っていたらしく、赤坂駅の位置を訊かれます。天神から赤坂までは、一駅です。
赤坂駅への行き方を教えてあげれば良いだけの話でしたが、しかし僕も道には自信がなかったので、一緒に一駅分だけ歩いてあげました。これで嘘を教えて、「日本人は嘘つきだ」なんて印象を持たれて了ったら厭ですからね。そういう訳で、半時間ほど彼等と一緒にいました。
その間一方と色々と話したのですが(いま一人はシャイなのと、英語と日本語が不得意だった様である)、外国人と話すのは違う文化に触れられて、本当に愉しいものです。彼は我が国に良い印象を持って呉れているみたいで、僕も凄く嬉しく思いました。
良く良く考えてみれば、我が国は朝鮮半島の民衆を大韓帝国から開放しましたし、(朝鮮半島を対中、対露の拠点とする目的もあったが)朝鮮人を外国人扱いせず同国人として仲良くやっていこうと考えた時期もありました(今回紹介する中島敦の虎狩では、雑誌「中央公論」掲載時に「朝鮮人」「日本人」と表記していたものを、筑摩書房から刊行された「光と風と夢」に収める際、「半島人」「内地人」と改めた経緯がある。内鮮一体化政策では、仲間意識から、「朝鮮人」という外国人扱いの表記が問題視されたのだろう)。なので今後も仲良くやっていく努力は出来るのではないかと、然う感じました。
中島敦は戦前当時の一般の日本人としては珍しく、何度も転居を繰り返した人です。死の前年、教科書編纂掛としてパラオ南洋庁へ赴任した事実は、南島譚や環礁 ——ミクロネシヤ巡島記抄——で生かされています。
中島敦は東京市四谷区に生まれてから、埼玉、奈良と転居し、浜松の尋常小学校に入学します。そして10歳(満9歳)から中学校卒業までを、京城市(現在のソウル特別市。現在の京釜高速道路や京仁地域という呼称は、その呼び名の名残)で過しました。
虎狩という作品はその京城市で学ぶ(内地から転校してきた)中学生と、半島人趙大煥との交友を描いた作品です。中島は”日本ではない異空間”を書く事を好んだ様に僕は考えているのですが、これもそんな作品群の一つに数える事ができるでしょう。
中島作品で朝鮮が舞台になる場合、朝鮮で特別一般的ではないらしい趙という姓が度々出てきますが、同級生の話によると、当時の中島の級友に趙という人(又、金大煥という人)がいた様です。彼等がモデル(少なくとも名前上のモチーフ)なのでしょう。内地から引っ越してきたきた中島は学生当時、文化の違いに途惑った様です。そしてそんな風であったから、同級生に数人しかいないというマイノリティである半島人達にシンパシーを覚えたのかも知れません。
偖、この作品は「中島が朝鮮人を如何思っていたか」とか「中島は国民性の実在を実感していた」とか、将又「中島はゴールデンバットを吸っていたのではないか」という考察も出来るのですが、その辺りは他の方にお任せするとして、僕は別の指摘をしてみたいと思います。
この虎狩はタイトル通り虎狩りがクライマックスではあるのですが、しかし虎狩り自体は呆気ないものです。
しかしそれでも、野生の虎が登場は了す。
当時の京城市は比較的開けた地域であったにも拘わらず、虎が出没する地域だった様です。(朝鮮出兵の際、加藤清正は三国志で知られる関羽の霊と戦う事で知られていますが、実は虎狩りをしたという逸話も残っています)。先に「中島は”日本ではない異空間”を書く事を好んだ」と書きましたが、虎は本邦に生息していない生き物ですから、それが中島には面白く感じたのでしょう。
物語自体はフィクションである訳ですが、僕はその虎狩りの様子が詳細で臨場感に溢れたものである為、中島自身、虎狩りに参加した事があるのではないかと考えています。少なくとも、虎狩り経験者に、詳しく取材をしていると思います。
と、ここで思い出されたのが、同じく作中に虎が出る山月記です。
山月記という莫迦莫迦しいファンタジーに、ある種のリアリティが感じられる理由の一つは、最後に姿を現す虎の存在感です。
一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二声三声咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。
この虎の美しい咆哮で物語を終えるところに、劈く様な余韻が残ります。この虎の迫力を無しに、山月記は成り立たないと思うのです。
僕自身は、中島敦は野生の虎を見た事があったのではないかと思います。
見た事がなくとも、それを見たという人に、詳しく聴いたのではないでしょうか。
中島自身は少年時代の多感な時期に、往こうと思えば野生の虎を見に往ける地域に住んでいました。
仮令見た事無くとも、虎の恐怖を大いに想像する事が出来たのではないでしょうか?
それが山月記という作品に活かされたのではないかと、僕は考えています。
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2011年03月17日
中島敦の諸作品は、文章芸術です
先日風呂に入ろうと浴室に入ったら、濃霧の様に真っ白で、慌てて(手探りで)蛇口を探し、湯の方を閉じました。
しかし入ってみると……、意外に温い(汗)。
実はその前にお八つとしてレバーを焼いて食したのですが、その際にまるでフランべの様に油に引火了して、濛々と煙ぶっていたのです(僕の部屋は1kで、キッチンは玄関や浴室の入り口を兼ねているのです)。どうやらその煙が、浴室迄流れ込んでいた様でした(汗)
扨、下らん日常はおいといて、中島敦に関するエントリーを先日から書いていますが、巧く纏まらずに(と言うか、気が乗らずに)苦労しています。今回はその中で、取り上げる事を断念した話題(というよりも、独立させた方が相応しいと判断した話題)を、独自にエントリーを設けて書いてみます。
先日とある掲示板に、「中島敦の李陵が映画化したら良いなあ」抔という書き込みが為されていました。その掲示板の利用者達には概ね好評の意見で、支持されておりました。
しかし僕は、その様な意見には、大反対の立場です。その様な意見は、決して許す事が出来ません! 斯ういう事を平気で言える人達は、中島敦が(死ぬ迄)一字一句に迄気を配り続けたということが、理解出来ない人々なのでしょうか?
(事実「李陵」は本来、題名さえ決められておらぬ未完成の状態で、原稿の中には推敲する為に二種類の語句が書かれている部分が多々あります。現存する浄書原稿は20字×20行の「南洋群島文化協会原稿用紙」五枚のみで、現在読めるものは、コクヨの20字×20行とフジ20字×20行に書かれた草稿を、編集者が勝手に取捨したものです。冒頭は、当初「天漢二年秋九月漢の辺将騎都尉・李陵は五千の歩兵に将として、辺塞……」と書いており、直後に「漢の武帝の」と付けた様です。そして後日、「漢の辺将」の扱いと「歩卒」の追加や句点の位置で悩み、そして「の歩兵に将として→を率ゐ」と変更した事が、インクの色で推測出来ます。又これ以後は、草稿と浄書原稿では、大きな違いが見られます)
僕は「どうせ失敗するよ」とか、「改悪やキャスティング、演出等で中島敦の雰囲気を損なう可能性もあるし、映画化しなくて良い」の様な事を言っている訳ではありません。「映像化希望」と、中島敦のファンを名乗る人達が斯う言う事に、強く違和感を覚えるのです。
と言うのも、小説と言うのは(中島敦作品に限らず)、文章芸術であるからです。
文章の芸術と言えば……
古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉という句は、最も知られた俳句であると思います。僕は詩歌や俳句などの鑑賞は良く解りませんが、この句の美しさは遉に理解できます。多くの日本人は、然うでしょう。
扨、では、この俳句を視覚化(写真やイラスト、動画等)してみた時に、この俳句の美しさを再現できるものでしょうか?
僕は(粗)できないと考えています。仮に素晴らしい画像や映像ができたとしても、それは文章芸術である俳句とはまた別の美しさであって、ただ単に、俳句が描いた現象と同じものをモチーフにしたに過ぎないのではないでしょうか? (又実際にその光景を見たとしても、この俳句が齎す印象以上の美しさはないかも知れません。俳句とは、俳人の目で見たフィルターを通していて、又不純なものを取り除いているからです)。
視覚効果と音響に頼る『総合芸術』であるところの映画は、表現力に優れている事は間違いありません。特に、動きのあるもの(アクション)などは、文章の敵うところではないでしょう。
小説という表現方法は、それらの長所を持ち合わせてはいませんが、しかしそこを、読む人の想像力に託させる技術で書かれているのです。又、即物的な現象を描く映像よりも、内面的な描写(心理描写)を得意ともしていますし、動きの殆どない会話劇も得意です。
僕は斯ういった理由で、「李陵の映画化」なんて話題を嫌う訳です。中島敦の文学は(無論李陵は未完の作品ですし、完成されているとはいえませんが)文学としての完成を目指したものですから、他の媒体で表現すべきものではないと思います。
追記;最近三国志の話題してないなあ。次回も多分、(書きかけの記事があるので)中島敦です。
こんなかっこいいおもちゃが出ていました。
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2011年04月04日
中島敦の入籍時期は?
前回のエントリー中島敦の諸作品は、文章芸術ですにも書きましたが、現在中島敦に関する記事を書いている最中だったのですが、巧く纏まらないので、中島敦の入籍時期を推測する記事を、以下に抜き出しておきます。
先日(と言っても、先年十月の話ですが)ukiぺであの中島敦の項目から、
1932年 3月 橋本たかと結婚。
という項目を、削除しました。なぜならば、これは完全な間違いで、この頃は未だ橋本たかとその許婚である和田氏との問題が解決していない時期であるからです。1931年の書簡(内容は他者による写し)を見ますと、9月13日の日付で和田氏に手紙を送って結婚の許しを求めていますから、1931年の結婚は、疑問が残ります。又、11月14日のタカ宛の書簡でも、「近頃、父の意見をよく聞いて見ると、在学中の息子に嫁を持たせて置くのは、親類の手前、一寸都合が悪いと言ふんだよ」と始まりますし(卒業は1933年の3月)、1932年の4月にも、まだ前述の和田氏との問題が解決していない様です。とはいえ、何時頃の結婚なのかは不明の様です。
それできっちりと調べてみると、次の様になります。
父である田人から敦への書簡を見ますと、
昭和8年(1933)5月16日「其上にて結婚届、出生届ニ記名調印したいとおもふ」
とあり、結婚は確実にこれより後だと言えると思います。又たか側の書簡では、
橋本を名乗る最後の手紙は昭和8年(1933)7月2日(本文中は6月2日とあるが、7月の消印と長男桓の誕生から65日と書かれている為、7月2日の誤り)。中島姓を初めて名乗るのは、昭和10年(1935)8月6日
である為、この期間に結婚したと見て良いようです。敦側からタカ宛の書簡では、
昭和8年(1933)8月19日に法師温泉から出した絵葉書の宛先は「橋本たか」。
翌昭和9年(1934)4月4日の手紙では、宛先は「中島たか」。
なので、やはりこの期間だという事は、確かだと言えそうです。8月29日の書簡には
「婚姻とゞけは(そちらに判をおしていたゞくために)二三日中に送る。」
とあるので、結婚は少なくともこれより少し後と見るべきだと思います。同様に、昭和8年の9月下旬と思われる書簡には、橋本家の戸籍謄本を求める内容がありますから、恐らく昭和8年の10月頃結婚したのではないでしょうか?
裏付ける様に、内容から昭和8年の10月に投函したと思われる手紙「橋本たか宛(封筒なし)」の追伸部分には、
「お前も桓も籍ははひつてゐるよ。大丈夫だ。もつとも桓の生まれた日は実際より遅れてゐるがて、とゞけてあるが。」
とあり、この頃籍を入れたのではないかと考えられます(しかし不思議な事に、久喜の謄本では、長男桓の出生は12月18日らしいとの事ですので、この書簡の内容も怪しくなります)。
とりあえず、正確な時期は不明ですので、誤りを正したという内容を書いておきますね。
扨。講談社の子会社である星海社のブログに、“星海社朗読館シリーズ”今夏刊行!という記事がある。些しだけ、引用しておく。
昨年9月より4ヶ月にわたり『最前線』にてお送りした『坂本真綾の満月朗読館』が、4月創刊の新レーベル・星海社FICTIONSより書籍化決定!
満月の夜を彩った日本文学の過去・未来の名作4篇が、フルカラーブック+朗読CDの強力タッグで再誕します。
“星海社朗読館シリーズ”は本年初夏より4ヶ月連続刊行予定。
刊行ラインナップは以下の通り。描き下ろしイラストが入るものもあるかも!?でございます。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜 「第9章 ジョバンニの切符」より』Illustration/竹 朗読/坂本真綾
中島敦『山月記』Illustration/ミギー 朗読/坂本真綾
乙一『ベッドタイム・ストーリー』Illustration/釣巻和 朗読/坂本真綾
奈須きのこ『月の珊瑚』 Illustration/武内崇・逢倉千尋 朗読/坂本真綾
中島敦の『山月記』が含まれているし、楽しみである。



