三国志小説論
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2005年05月05日

大作家の誕生日

本日五月五日は、中島敦の誕生日です。

明治四十二年、教師中島田人の長男として、東京都の四谷に生をうけました。


お祝いしましょう。

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2005年05月13日

中島敦 弟子(1)

中島敦の「弟子」は、

「由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり」
だとか、
「由や勇を好む事我に過ぎたり。材を取る所なからん」
と言われた愛すべきキャラクター、仲由(子路、又は季路。五男か?)を主人公とした作品です。
彼は論語の中で最も多く現れる弟子であり、「墨子」の「非儒下第三十九」にも名が出る人物で、孔子門弟の中では、我々に最もなじみは深いですね。
政治に長けた弟子たちのリーダー格であり、又勇ましい人物でもある。「弟子」でも
「片言以て獄を析むべきものは、それ由か」
と引用されています。又、孔子に最も叱られるのも彼でしょう。
リーダー格、勇ましい、剣客、労働者階級の出身、政治に長ける、一番弟子、最も叱られる、共感できる人物。
これらのキーワードを並べた時、僕は一人の人物を又連想します。
新約聖書ヨハネ福音書第十八章を引用します。
「シモン・ペテロ剣をもちたるが、之を抜き大祭司の僕を撃ちて、その右の耳を切り落とす。僕の名はマルコスと云ふ」
シモンは弱さを持った一番弟子として登場し、イエスの死後強力なリーダーシップを発揮する人物となる訳ですが、二人は似ていると思いませんか?
シモンは、
「我に従い来たれ。さらば汝らを人を漁る者となさん」
などと言われ、弟アンデレと共に即座に弟子になる訳ですが、こんな所も似てますよね。

非攻(2)に少し書きましたが、墨子の門弟を指揮する禽滑釐なども、

リーダー格、勇ましい、剣客、労働者階級の出身、政治に長ける、一番弟子、最も叱られる、共感できる人物
という条件に当てはまる人物だと思います。

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2005年05月25日

弟子(2)

弟子(1))参照

世間的には中島敦の代表作といえば、
「光と風と夢」
「李陵」
「狼疾記」
の三作ですが、僕的には、
「山月記」
「悟浄出世」
そしてこの
「弟子」
です。確かに二作は素晴らしい作品ですが、中島の短編作家としての上手がこの三篇には良く出ていると感じるからです。三篇とも短いですし、人にも薦めやすいですしね。

携帯端末版のサイトに以前作品短く解説を書いていましたので、ここに採録します。

『弟子』は中島敦晩年の作品であり、死後に発見された遺稿である。
中島敦はその漢学の素養の為、支那の古典を題材として作品を書く事を得意とした。この作品では、孔子の弟子、子路を主役とし、儒者達を生き生きと描いている。初出は『中央公論』昭和十八年二月号。

中島敦は子路という良く知られたキャラクターを生かしつつ、それを自身の「懐疑する人」という、自身が多くの作品でテーマとしたキャラクターの一人とした(この代表は沙悟浄、隴西の李徴、ナブ・アヘ・エリバ博士、三造など)。疑似漢文調と哲学的要素。『弟子』は、中島敦の二つの魅力を備えた、真骨頂ともいうべき名著であろう。

今読んで実にそのとおりと納得してしまいました。

投稿者 strap : 23:16 | コメント (0)

2005年06月28日

プライド 中島敦作品の登場人物

彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。
のっけから部分引用で恐縮であるが、上記は「狼疾記」の一説である。この後に、
自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖が
と、主人公である三造の性格を語る。

作品「李陵」において主人公である李陵は、

確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己のために身命を惜しまぬ部下五千と共に危なきを冒す方を選びたかったのである。
と、兵站輸送を軽視し、
臣願わくば少を以て衆を撃たん
などと謂ってしまう。「悟浄出世」での観世音菩薩摩訶薩の言葉を借りれば、
これを至極の増上慢といわずして何といおうぞ。
という事になるだろう。結局李陵がどうなるかは、作品の(史書の、歴史の)示すとおりである。
中島作品の登場人物の多くは、人よりも優れるが故にプライドを持ち、自信があるが為に何らかの失敗を犯してしまう。
自信があるが故に、その弱気の為(一見二律背反するが、彼らは自信はあるが、それが絶対的では無いが故に弱気になってしまうのだ)能力を活かす事ができなかったり、己の能力に頼る事が大きすぎて、過剰な負荷に潰れてしまったり。

この、「プライドのある人」という中島作品の一連の登場人物の中でも特に僕が注目したいのが、「山月記」の李徴である。「狼疾記」の三造とは違い、己の才能に絶大な自信を持つが故に、平穏を捨てチャレンジし、夢破れた男の物語である。双葉の頃より芳しと、幼い頃からその神童振りを謳われた中島は、李徴の様なチャレンジを何度も考えた事だと思う。しかし同時に、三造のようにひっそりと生活する事で、李徴の様な結末を回避しようとも考え迷ったのでは無いだろうか。僕が考える中島作品全体のテーマは、、

才能ある人が世に認められない悲劇
と、
少しの才能を元手に賭けをした為に失敗する人の憐れ
では無いかと思える。そして中島自身としては、自信のある自身の文才が、
真に優れたもの
であるのか、
世間の人と較べれば上という程度で、プロとしては通用しないもの
であったのかは、判断つかなかったであろうから、結局は対の問題であったに違いない。己の能力を真の意味で客観視する事など、誰にも出来ないからだ。例え真に客観視を出来たとしても、白か黒かを判定するならば、その結果が疑心暗鬼を生み、己の客観性を疑うだろう。

中島作品を読んだ時思う事は、中島が真に優れた作家であるという事だ。
漢文調の格調を作りながら、それは下し読みのような平坦なものでは無い。「擬似」漢文調とでも言うべき作風である。リズムを整え崩し、ハードボイルドの手法で人物の心理描写をする手法は見事である。作品「李陵」は、「漢書 卷五十四 李広蘇建伝第二十四」等を下敷きとし、筋も内容も多くは変わらぬが、それが一流の作品となっている。

東京帝国大学国文科、同大学院と、文学論を研究していた中島敦にとって、自身の文章が衆に優れたものである事が、理解できなかった筈は無い。しかしそれでも尚、彼は自身の作品に絶対の自信を持っていなかった節がある(雑誌社に伝手のある人に原稿を預けますが、大切な原稿だからと直ぐに取り返しにいったり)。

山月記を読んでいると、そこに書かれた李徴は、中島敦自身が恐れた、もう一人の中島敦自身の姿なのでは無いかと思う。
己の才を信じ、安定した生活を捨てて夢を追ったものの、名を得るには指一本届かず、空しく散り敗れる男の哀れ。なまじプライドがある為に、賭けに負けた己に情けなくなり発狂してしまうその思い。
「もしもこの道で立つ事が出来ぬなら」
と思う、作家を志す人の不安が書かせたような作品だという気がしてならぬ。

誰もが指摘するように、三造自身は中島敦本人がモデルなのだと僕も考える。
そして、三造の言葉は全てが中島敦の気持ちと合致するわけでは無いかも知れぬが、間違いなく

「臆病な自尊心」
のくだりは、中島敦自身の考えであったのでは無いかと推測する。

我々は、中島敦の残した作品の少なさを残念に思い、それを悲しむ。
それは無論、中島敦という才能を認める事が出来なかった文壇や出版社の責任だとは思うが、中島敦のその性格にも起因するのでは無いかとも考える。
中島敦カテゴリーへ

投稿者 strap : 00:39

2005年10月16日

中島敦の文体模写と文体。中島作品の文章の巧妙

誤解を恐れずに書くならば、中島敦の文体模写は比較的簡単です。
擬似漢文、漢語調のリズムを掴めば良い。
加えるならば、要点は以下の3つでしょう。

1 云々、炯々、区々といった畳語の多用。(例:「まさに昏々昧々粉々若々として帰する所を知らぬ」)
2 「朔風は戎衣を吹いて寒く」や、「時に、残月、光冷ややかに」の様に、光と風を印象的に用いる。
3 哲学用語の使用、哲学的な内容。

作品冒頭を、

魯の叔孫豹がまだ若かった頃、
や、
趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、
と、人物名を含み時代と出身地を表す文章で始める事も、重要な雰囲気作りかも知れません。これは、紀伝体で書かれた文章の冒頭で、
呂布字奉先、五原九原人也 。以弓馬驍武給并州。  (後漢書)
呂布字奉先、五原郡九原人也 。以驍武給并州。   (三国志)
と、姓、諱、字、籍貫を記す決まり事に通じる部分ですね。

又、

映画館を出ると、三造は、早めの晩食を認めるために、近所の洋食屋に入った。

三造は、すっかり食慾をなくして、半分ほど残したまま、立ち上がった。

ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!

の様に、ところどころ、句点間は、短めにすると、それっぽいでしょう。

この手の上辺だけのテクニックは、少し研究すれば、ある程度の形にはなります。

後漢、献帝の建安元年。豫州は沛国、沛県。県城から一里の西南。
日は朗々とし秋風揺蕩う中、驪に跨がる二百の驍騎と一千の勁卒を引き連れ、そこに呂布が営した。
小沛の軍、歩士五千は既に、城外にて陣を構えている。対する淮南軍は紀霊を大将とし、雷薄、陳蘭を副将とする、歩騎併せて三万の大軍であった。淮南軍は約定ある呂布の接近を聞き、加勢と喜び一時兵卒を休ませた。

この様な感じでしょうか。

しかし、中島敦の文体の凄さを知るのは、ここからという事になります。
先ず「弟子」を引用してみましょう。

ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑み込めないのである。第一、何処かヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。
又、「盈虚」という作品では、
孔氏の邸に潜入、姉の伯姫や渾良夫と共に、孔家の当主衛の上卿たる・甥の孔悝(伯姫からいえば息子)を脅し、之を一味に入れてクウ・デ・タアを断行した。
と書いています。
どうでしょう?僕は恐ろしくてこの手の文章でカタカナを使う事など出来ません。しかし、ここに「ヴァイタルな力」や「クウ・デ・タア」という現代人に理解しやすい語句を用いても、微塵も違和感を持たせないのが、中島敦の凄いところです。
又、
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
と「山月記」で書かれた一行などは如何でしょう?「時に残月、」では無く、「時に、残月、」と、音を区切ってリズムを崩し、寂しさを強調しているところなど、我々には真似が出来ません。僕も何度か挑戦しましたが、全くこのリズムは巧くいきませんね。

あの域に達する為には、どれ程の努力が必要なのでしょうか?

昭和十七年の上半期。中島敦の「光と風と夢」は、芥川賞候補に選ばれながら、落選します。
つまり、中島に対する世間の評価は、「芥川賞を取れなかった人」です。
しかし僕は思います。
芥川賞受賞者に、何人中島敦より優れた文学者がいるというのでしょうか?
僕は逆に、中島敦を落選にした事実こそ、芥川賞の権威を疑うべき材料ではないかと、ね。

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2005年12月21日

南洋の中島敦

さて、「謀臣の資質」連載の最中ですが、一旦お休みをして、お勧めの本の紹介です。
中島敦はこのブログでも何度も中島敦作品カテゴリー等で語ってきましたが、今回は作品ではありません。

中島敦―父から子への南洋だより
中島敦―父から子への南洋だより

これは表題どおり、パラオ南洋庁の国語編修書記時代の、家族への書簡を集めたものです。殆どは長男向けに書かれた葉書ですね。私人としての中島敦の優しさや人間的苦悩(こっちは作品でお馴染みか)に触れる事が出来る本です。
中島敦には「環礁 ミクロネシア巡島記抄」という作品がありますが、これの元ネタになったと思われる事件が書かれていたりと、興味深く読む事が出来ます。

中島敦のファンの方には是非の一読をお勧めしたい一冊です。

すっかりと失念していたが、今月四日は中島敦の命日である。十四日の討ち入りも忘れていたし、最近は記念日に疎くていかん。

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2006年01月18日

山月記の初出

アクセス解析によると、「山月記 初出」というキーワードで検索されていた様ですので、今後の為に記しておきます。

昭和十七年二月「文学界」

尚、同年七月、筑摩書房からでた中島敦の第一作品集「光と風と夢」に収められました。

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2006年05月04日

本邦を代表する大作家について

ちょうど一年前、大作家の誕生日に書いたが、本日五月五日は、中島敦の誕生日である。

渡辺 一民著、中島敦論は、「北方行」を中島敦のライフワークとして捕らえ、「北方行」絶筆の理由を、中学時代の友人である湯淺克衛氏の著作、「カンナニ」が検閲された事と推測している。
そして「北方行」に続く各作品を、それが書かれなかったが為の代用品、そしてそれらからの脱却の過程、として論じている。なかなかに面白い。
この本では、

「北方行」の特徴として最後にあげなければならないのは、アクチュアリティーというか、作者中島敦の現代史への関心の深さである。(中略)今日の中国現代史の書物と比較してもじつに完結かつ正確なものであって、同時代の一人の日本の文学者が五年と経たぬうちにその生きた時代をこのように広い視野を持って歴史としてとらええたことに、わたしは瞠目せざるをえない
と指摘する。

この指摘に因り気付いたが、この作品に限らず、確かに現代を舞台にした中島作品には現代史への感心が見られる。この事が、後のスティーブンスの伝記的作品や、歴史的資料を題材(若しくは設定を借りた)数々の代表作の下地とも言えるかも知れないと思う。

もう一冊紹介しておく。
中島敦―注釈・鑑賞・研究は、一部の作品本文(抄録)と注釈も同時に収めた研究書である。旧字旧仮名で中島作品が安く読めるのは嬉しいし、「山月記」と比較する為に李景亮の「人虎伝」が全文(邦訳で)収録されているのも嬉しい。「第四章 『悟浄出世』中の「鮐魚の精」を巡る諸問題」は、「五 菊池寛との引用箇所との関連性」など、興味深く読んだ。
又、著作目録と年譜はありがたい。

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2006年06月15日

「山月記」感想

僕は先日、周倉木強人也と題したエントリーで中島敦の「五月五日自哂戯作」という五言律詩を紹介したが、今「山月記」を読みかえすと、「狷介」という言葉が気にかかった(中島自身の事を指す「木強嗤世事 狷介不交人」を下し読みするならば、「木強にして世事を嗤い、狷介にして人と交わらず」)。
「山月記」では

性、狷介、自ら恃む所すこぶる厚く
と、李徴を説明している。今、この「狷介」という言葉に注目して見ると、物語の前半部分に、獣編の漢字が意外に多い事に気づく。穿った見方をすれば、
若くして名を虎榜に連ね
鈍物として歯牙にもかけなかった
といった一文の「虎」や「牙」でさえも、変身予告に感じてきてしまう。第一、「虢略」という李徴の故郷の名には「虎」の字が含まれているのだ。知らぬうちに暗示をかける効果でも狙ったものであろうか。
参考→「山月記」と「人虎伝」

僕は弟子(2)で「山月記」を中島敦の代表作三作の内に入れたが、これには多くの名文がある。

ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。
という、倒置法を用いた文章は、その悲痛が叫びとして感じられる勢いある名文であるし、中島敦の文体模写と文体。中島作品の文章の巧妙で紹介した
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
は、暗記したい程に美しい。

しかし、中島作品は、こういう細部ばかりを見ていると、その文章の巧妙のもっと大きな部分を見落としかねない。
「山月記」は李景亮の「人虎伝」という怪異譚をモチーフとしている。つまり、非現実的な物語と言えるだろう。僕は科学の信奉者であり、怪異や奇跡、魔術といったオカルトは正直ある訳が無いと認識しているし、そういう話を軽蔑もしている。今日のtvを見ると、卜占や前世の事といった、胡散臭い事を語る人達が出演している番組が多数あるし、超能力捜査などが大手を振っている。それを本気で信じている人達をみると、噴飯の至りだとすら思う。
しかしそんな僕が、この怪異譚に対して「そんな莫迦な話がある訳無い」とは、全く思わなかったのだ。作品が物語である為とはいえ、これは自分でも不思議で仕様がない。それ位に自然に、事の奇異を感じなかった。作中

後で考えれば不思議であったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪しもうとはしなかった。
とあるが、まさにその様な感じなのである。中島敦の手腕には唸るほかない。
ブログを回っていて見つけたのであるが、蒼い月の観察日記。さんの
とにかく、ありえない話なのに凄い現実味があるような感じが好きです。(何)
という一文には大いに頷いた。

尚、「山月記」に対してはこう思ったが、同じ中島敦作品でも、「名人伝」は僕にはやりすぎの様に感じてしまう。
「牛人」や「悟浄出世」などは最初からそういうスタンスで書かれているので、割り切って読む分、最初から気にならぬのではあるが。山月記の初出に関してはこちら

参考→プライド 中島敦作品の登場人物

投稿者 strap : 01:57

2006年09月09日

「山月記」と「人虎伝」

中島敦の「山月記」は、李景亮の志怪小説である「人虎伝」をもとに、独自のアレンジを加えられた文芸小説である。二作は非常に良く似ているが、違いも多くある。
中島敦は、芸術に捕らわれた己の姿を映す為に、その筋書きを借用したと見るべきであろう。

僕は、中島敦―注釈・鑑賞・研究に収められた「人虎伝」の和訳を参考に、二作を読み比べるが、二作はほぼ同じものであるだけに、その違いの生ずるところに中島敦の主張や、技のキレを見つけて大変に面白い。

先日僕は、「山月記」感想に、「物語の前半部分に、獣編の漢字が意外に多い事に気づく」と書いたが、「人虎伝」と比べると、矢張りそれは思う。「人虎伝」の前半部に虎を連想させる言葉は「発狂」一つしか無い。

隴西の李徴は皇族の子にして、虢略に家す。
と、故山こそ虢略であるが、そこには「虎榜」の字も見られず、ただ
進士に登台す。
と書かれるのみである。「狷介」の字も無ければ、「容貌」、「狂悖」の字も無い。
意識したのでは無かろうかと思う。

又時代設定を、原書の南北朝時代から唐の時代に変更しているのも興味深い(すいません、勘違いでした。原文「天宝十載」)。
「山月記」は李白や王維、杜甫の活躍した時代と同時代である。この意味を考える時、この作品のテーマにより深く触れる様な気がする。

投稿者 strap : 02:50

2007年07月09日

解説修正:「山月記」と「人虎伝」

最近、「山月記」というキーワードでこのページを多くの人に見て戴いているが、エントリー;「山月記」と「人虎伝」に重大な誤りがあったので、改めた。
科挙の制度が隋から始まった事に疑問を持ち、調べていたら解決した。
「天」を「大」と読んでいたらしい。「大宝十五年」は西遊記の「貞観二十七年」みたいな、架空の年かな、と(これは例えるなら「昭和六十五年」みたいな、実在しないもの。貞観年間は二十三年までしか存在しない)。

しかしこの物語が、李白や王維、杜甫の時代である事は、やはり大きな意味があると思う。
 

 

 
話は変わるが、ここで僕の記事が紹介されていた。 →紹介されていた記事
この記事は自分の記事の中でもベスト10に入る良質な記事であると思っていたので、他人に認められたのは素直に嬉しい。

投稿者 strap : 09:16

2007年07月17日

中島敦の文体

文体模写とは抑々モノマネの一ジャンルであって、文章修練の為の勉強方という意味は非常に薄いと僕は考える。
実力派の歌手の歌マネがどんなに巧くても、歌唱力があるとは必ずしも言い切れないし、無い場合が殆どであろう。
それは文体模写も同じことで、上辺だけを真似は出来ても、その本質をコピーする事は、大変に難しい。


中島敦の文体はなどは正にそれで、文体は現代に生きる我々にとって特徴的過ぎる為、似せる事は簡単であるが、その美しさをまねる事は大変に難しい。
その難しさはどこから生まれるのか、という事を考えた時思い当たる事があったので、自身の為に記しておく。

中島敦の文体は、過ぎる位に美しい文体であるにも拘らず、美文では無い。
当然技術が無い訳では無いし、高度な技巧が施されている訳であるが、麗句を並べた華美な言葉ではないし、美しく飾り立てようとした言葉では無い。その美しさは、音のリズムと、字面(漢字の形の並び方)の美しさだけでは無く、そこに「表現しようとする力」が存在している事も重要なファクタァであろうと思う(無論それを裏打ちする、確かな教養も、大事な因子だ)。
喩えるならそれは、衣服や装身具、化粧、整形で飾り立てた美しさではなく、飾らない質素な、身だしなみを整えた程度の人の美しさである。本質的に美しいならば、後者の方が断然美しい。

美しい言葉、美しい韻。又は、美しい情景、美しい「人物の心情」。これらが文章を美しくする訳では無い。それで美しい文章になったとしても、それは上辺の美しさであり、中島敦が持つ様な、中から零れる美しさとは異質である、という気がする。

投稿者 strap : 16:28

2007年09月12日

「悟浄歎異 沙門悟浄の手記」にある矛盾

奕旨と囲棋賦の違いについて書こうと考えていたが、後日にする。

「悟浄歎異 沙門悟浄の手記」を再読していて、おや? と思う事があったので、記しておく。
中島敦という人は、人間の内面描写には力を入れた様だが、こういう事には頓着しない性格だったのかもしれない。

先ず中島敦は悟浄に、

俺は、悟空の文盲なことを知っている。かつて天上で弼馬温なる馬方の役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧と判断の高さとを何ものにも優して高く買う。
と、孫行者の事を語らせています。
元の「西遊記」に、孫行者が文盲であるという記述は無かったと思いますので、これは中島敦の作品中で付加されたものだと僕は考えています。しかしこの設定(「知識は無いが智慧は有る」という性質)が有る為、頭でっかちの悟浄が孫行者と己とを対比する構造が生まれています。これは知識(文字)が人の思考を阻害するという「文字禍」等で何度も語られた内容であり、「悟浄出世」のメインテーマからの引継ぎでありますから、中島敦の中で非常にウエイトの高い問題であると考えられます。元々悟浄という哲学者は、この様な事を語る為に借用されたキャラクターですから、行動的な孫行者を文盲とする設定は、必然的誇張であった様に思えます。

しかし、西遊記には孫行者が五行山に囚われる切欠となる、有名なシーンがあります。「悟浄歎異 沙門悟浄の手記」自体から引用してみましょう。

そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲の履を穿き鎖子黄金の甲を着け、東海竜王から奪った一万三千五百斤の如意金箍棒を揮って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙の集まる蟠桃会を擾がし、その罰として閉じ込められた八卦炉をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙ぎ倒し、三十六員の雷将を率いた討手の大将祐聖真君を相手に、霊霄殿の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉・阿難の二尊者を連れた釈迦牟尼如来がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞がって闘いを停めたもうた。悟空が怫然として喰ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修しえたというのか?」悟空曰く「東勝神州傲来国華果山に石卵より生まれたるこの俺の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生の法を修し畢り、雲に乗り風に御し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来曰く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空は、いきなり如来の掌の上に跳り上がった。「俺は通力によって八十万里を飛行するのに、なんじの掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらずきん斗雲に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々として言った。

書いた文字を「せいてんたいせいここにいちゆうす」と下し読みするか、「せいてんたいせいとうしいちゆう」と読むかは好みですが……こんな事書いたら文盲って事にはなりませんよね。

投稿者 strap : 15:23

2008年02月22日

牛人 (と「弟子」)

牛人というのは、昭和十七年七月に政界往来にて発表された、中島敦の短編小説で、彼には珍しいホラー小説である。無論、ホラー小説と位置付けているのは僕だけかも知れないし、事実(小説としてでは無く)ホラー小説として評価するならば、未熟な作品ではある。
しかしこれはやはり、豎牛という怪人の恐ろしさをその父である叔孫豹が体験する一種の復讐劇であると理解するべきであると思うし、恐怖体験が書かれた小説であると考えるべきであろう。


この作品は、春秋左氏伝の昭公四年(紀元前538年)の記事(「十二月癸丑、叔孫不食、乙卯、卒」のあたり)をもとに書かれているが、最近これに気付き、あっ! と気付いてしまった。

というのもこれは、中島敦の代表作である「弟子」と同時代・同地域を扱った小説であるからだ。

叔孫豹の子である仲壬が斉に亡命のは、昭公に与えられた玉環を身に付けたからであるが、「弟子」でもこの昭公については少し触れられる。「弟子」では昭公が亡命先で死亡した事が書かれ、孔丘が昭公の次の王である定公に仕官する事が書かれているのだ。

「牛人」で書かれた物語はこう考えてみると、中島敦の得意とする儒教の記述から取材された事がわかる。春秋左氏伝が元ネタで、しかも(故に)「弟子」に極めて近い時代であった事に驚きを覚えた。

却説、今久しぶりに「弟子」を読んでいるのだが、どうやら中島敦には、儒教が宗教であるという認識が欠けていたか、(当時の日本では思想と考えられていたので)それを匂わせなかった。
この物語がもし宗教人の物語として描かれていたなら、印象は随分と違ったものになったと思う。

尚、「弟子」を何と読むか、という問題であるが、

子路が他の所ではあくまで人の下風に立つを潔しとしない独立不羈の男であり、一諾千金の快男児であるだけに、碌々たる凡弟子然(ぼんていしぜん)として孔子の前に侍っている姿は人々に確かに奇異な感じを与えた

と、作中にルビがあるので、「デシ」ではなく、「テイシ」と発音すべきだと僕は考えている。

投稿者 strap : 22:20 | コメント (0)

2008年06月26日

今年も山月記の講義の時期です

知人の国語科教師が初めて山月記を講義するという事で、連絡をくれました。

話をしていてわかりましたが、僕がブログに書いている内容は、指導書に書いてある事ばかりの様です。

投稿者 strap : 23:36 | コメント (0)

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