2005年04月07日
後漢時代の文化、風俗(囲碁編)
昨今の韓流ブームで、趙治勲の人気は鰻昇り。
という訳で、今回は囲碁について。
関羽が馬良と碁を打ちながら、肘の矢傷を手当てさせる話は、良く知られています。
王粲が碁石を並べ直す話(現代プロではあたりまえですが)や、山子道、王九真、郭凱が曹操に匹敵したという話もある様です。参考。
しかし当時の囲碁のルールは、我々の知るものとは違った様です。
三国志の時代の碁盤が、発掘された碁盤としては最も古かったと記憶していますが、それは現代の十九路盤では無く、十七条十七路の碁盤でした。
又、現代の様な碁は、日本、しかも江戸時代に始まったもので、それまでは置き碁が一般的だったのです。
うっかり現行のルールで碁を打つシーンを書きたくなりますが、現代とは全く異なる定石がそんざいしたのでしょうね。
囲碁の打ち筋というのは、直接的ではありませんが、人物描写のシーンとしては生きてきますので、リアリティを持たせたいものです。
記述者 strap : 23:40
2005年06月12日
三国志と囲碁(1)
劉備の師、盧植の師である馬融は、囲碁に精通していた様で、「囲棋賦」という手引書を残しています。
又、現存する最古の碁盤は河北の古墳から出土し、この古墳が副葬品から光和五年のものと判明しました。安徽省の曹氏墓地からも、百十七の松緑石の方形の碁石が発掘されています(透明に近い石が白、濃い色が黒)。
そういう訳で後漢から三国時代にかけて囲碁は大流行した様です。
「武帝紀」に引く「博物志」では、曹操は山子道、王九真、郭凱という高名なプロ棋士達と同レベルの腕前であったと書かれていますし、魏の文帝曹丕が、弟曹彰を毒殺するのも対局中です(これについては、三国志と囲碁(3)を参照の事)。
傍目で見ていた王粲が、大局者が不注意で盤の石を崩した際、それを元通りに直したともあります。
建安七子では他に、孔融が碁に長じていた様ですし、応ヨウは「弈勢」という囲碁の理論書を書いています(弈は囲碁の意味。碁の字は隋代以外では一般的には用いられなかった)。応ヨウの「弈勢」は三論と呼ばれる書ですから、この時代には高度な勝つ為のテクニックが磨かれていたのでしょう。この時代は、囲碁の歴史の中興期にあたる様です。
当時の囲碁のルールは現在とは違い、先ず置き碁でした(これは清代の末までそうでした)。盤は十七条十七路で、、白番から先に打った様です。又、中国の囲碁は、上げ石を全く計算しないようで、その代わりに盤上に残った石を全て数える様です。無論コミのルールはありませんでした。
当時の囲碁のルールに関しては三国志と囲碁(4)参照。
2005年06月15日
三国志と囲碁(2)
三国志と囲碁(1)であげた以外では、どんな故事があるでしょうか?
最も有名なのは通俗演義の、関羽が華陀に肘の治療をさせながら、馬良と一局打つシーンでしょう。本邦でも書画のモチーフとして好まれた様です。
曹操が孔融を殺した際、孔融の息子(数えで9歳)と娘(数えで7歳)は碁を打っていたとあります。周りの人は逃げる様に薦めたようですが、兄妹は子供の足で逃げるのは無駄と知っていたので、そのまま対局を続けました。これを知った曹操は、二人の聡明さを危険と感じ、殺害しました。幼い子供の利発さを危険視する辺りが、曹操の魅力であり、嫌われるところなのでしょうね。
さて、時はずっと下って西晋の黎明期。
鎮南将軍の杜預が、「呉攻めはドヨ?」と詰まらない洒落を言いますが、司馬炎は碁を理由にそれを無視。彼は内政安定を重視する政策を採っていました。
しかしそれを知った対局者である中書令張華が、碁盤を退け、進言します。
こうして二十万の大軍で建業へと侵攻する事が決定しました。
こうして、ついに三国時代は終わります。
しかし直言した張華は内政重視を説く賈充の為に左遷される事となりました。
記述者 strap : 00:40
2005年06月18日
呉と碁
三国志と囲碁(2)では、呉滅亡に関するエピソードを書きましたが、呉では囲碁はどの様なものだったのでしょうか?
呉で囲碁は大流行していたようです。厳子卿(呉の八絶の一人)、馬綏明など、民間にも名を知られた棋士がおり、非常に盛んだった様子が残っています。孫和は人々が囲碁に夢中になり、仕事が疎かになることを憂い、部下の韋昭に、「博弈論」という書物を書かせ、囲碁ブームに水を注そうとした様です。が、これは失敗したようですね。
三国志での囲碁を語る時忘れてはならないのは矢張り、「忘憂清楽集」に収められた、「孫策詔呂範弈棋局図」でしょう。「忘憂清楽集」は南宋の文人、李逸民は記した書物で、「孫策詔呂範弈棋局図」は四十三子で終わっています。私も写しを見ましたが、先手である白(地位的な事を考えれば、呂範)が有利なようではありますが、飽くまで形勢有利というだけで、ここで黒番投了とは考え辛い中途半端な棋譜です。
しかしこの「孫策詔呂範弈棋局図」にはもっと不思議な事があります。それは、盤が十九路盤なのです。
李逸民自身は疑っていなかったのかも知れませんが、三国時代の碁盤は現在、十七路盤だと思われています。呉ではすでに、十九路盤を使っていたのでしょうか?
僕は偽作の可能性のほうが高いと思います。
2006年01月14日
三国志と囲碁(3)
読売新聞の加藤正夫名誉王座追悼記事、「精魂の譜 棋士加藤正夫と同時代の人々」は面白いなぁと、素直に感じます。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/kato/
昨年12月30日で一周忌だという事です。
三国志小説における囲碁に関しては、囲碁と三国志小説の執筆で簡単に見解を述べました。これからも「謀臣の資質」で入れた様に、積極的に挿入していきます。僕の三国志小説にも、加藤氏の様な「力戦派」の打ち手をいつか登場させたいですね(棗祗などはこういう書き方か)。
三国志関連書籍を当たっていると、まだまだ色々と、碁に関する記事にあたります。
例えば、捜神記の巻三には、管輅が十九歳の若者を助ける話がありますが、これには碁を打つ二人の男が登場します。この碁を打つ二人が北斗星と南斗星で、青年は寿命の記された閻魔帳に返り点を打ってもらい、十九で死ぬところを九十まで生きれる様にしてもらった、という話です。
囲碁の別名は、「手談」だとか「烏鷺の争い」だとかとありますが、矢張り良く知られた別名は「爛柯」でしょう。神仙は矢張り碁を好むのですね。
賭博としての囲碁は、費禕(三国志卷四十四 蜀書十四 蔣琬費禕姜維伝第十四 費禕伝)や阮籍 (晋書卷四十九 列伝第十九阮籍伝)も好きだった様です。
三国志巻六十四呉書十九諸葛恪伝の注にも、「志林」を引用して費禕が囲碁好きだったという事が出てきますね。
かなり人気のゲームだった事がわかります。
先程山本大介見てたら、呉と碁で紹介した、孫策と呂範の対局が記された書物、「忘憂清楽集」が、呉清源の解説であったので紹介しておきます。

忘憂清楽集
いつか孫策詔呂範弈棋局図で一本小説書きたいと思います。
さて、三国志と囲碁(1)に一度書きましたが、偶々曹丕が曹彰を毒殺する話の原文を見る機会を得ましたので、ちょっと紹介してみます。
魏の文帝(曹丕)、弟任城王(曹彰)の驍壮なるを忌む。
因りて卞太后の閤に在りて、共に棊し、共に棗を噉らいしとき、文帝毒を以って諸を棗蔕の中に置く。
自らは食むべきものを選びて進む。
王悟らずして、遂に雑じえて之を進む。
既に毒に中るや、太后水を索めて之を救わんとす。
帝預め左右に勅して缾缶を毀たしむ。
太后徒跣して井に趨くも、以って汲む無し。
須臾にして、遂に卒す。
復た東亜(曹植)を害せんと欲するや、太后曰く
「汝已に我が任城を殺せり。復た我が東阿を殺すを得ず」
と。
[世説新語 尤悔]
ここでいう「棊」とは、棋士の「棋」の字に同じで、やはり囲碁を表します。
しかし棗の蔕に毒を塗っていたというのですが、曹丕はどうやって毒の塗ってあるものとそうでないものを見分けたのでしょう?
しかも水を飲めば解毒出来た様です。
しかも「勅して」桶を壊させていますから、毒殺の犯人、丸解りじゃないですか!
かなり嘘臭い話ですね(笑)
2006年03月09日
晋武帝詔王武子弈棋局 八十三着
呉と碁、三国志と囲碁(3)、孫策詔呂範弈棋局図四十三子からと、度々世界最古の棋譜(という事になっている)孫策詔呂範弈棋局図を紹介してきたが、これと同じ忘憂清楽集には、二番目に古いとされている棋譜も収められている。無論後の創作であるとは思うが紹介しておく。
晋武帝詔王武子弈棋局図は、晋武帝こと司馬炎と、その女婿の王武子、つまり王済との対局の図で、白が大きく優勢の形で「共八十三着分局面停」と、八十三子で止めている。武子は王済の字。三国志と囲碁(1)にも書いた様にこの時代、先手は白であり、目下の者が白を打ったとされるから、白が王済であろう。孫策詔呂範弈棋局図で白を呂範とするのと同様の理由である。
三国志と囲碁(2)にも司馬炎と張華の対局のエピソードを書いたが、この司馬炎という人は、碁が好きだったのだろう。しかし(これが本物であるとするならば)特別に巧くは無かった様だ。
そういえば、孫皓が司馬炎に「卿は何故人の顔の皮を剥いだか」と聞かれ、王済のだらしなさを見て「君主に無礼だったから」と答えたエピソードも、司馬炎と王済の囲碁の対局中であった。
尚、この晋武帝詔王武子弈棋局図は、白17が二カ所あり、黒70が欠落している。
2006年04月02日
晋武帝詔王武子弈棋局 補足
晋武帝詔王武子弈棋局 八十三着を補足しておく。
以下は全文、講談社発行の忘憂清楽集からの引用である。
孫策と呂範の対局に次いで、世界で二番目の棋譜が晋の武帝と王武子の対局である。孫策、呂範と同じように、晋武帝が黒、王武子が白というわけである。晋の武帝は囲碁の熱烈な愛好家であった。呉を討伐する上表が届いたときも、対局の最中であったという。また、王武子は王済の字。王済は才物でその多芸は世に知られていた。
腕前の方は王武子の方がはっきり強い。右上方面43・45・47は手筋である。白83までで打掛けとなっているが、白勝ちの碁形である。白はなかなか強い。
白の打ち回しはなかなか鮮やか、西晋の初代皇帝、武帝が悔しがっている様子が目に浮かぶ。
なお、原本には誤りと欠落がある。白17が二ヵ所ある。白17のところとイであるが、イに打つ必然性は無い。黒70は欠落している。ここに一着必要である。本局は後代の『適情録』(第十巻正兵部一)に再録されている。『適情録』では、白17、黒70、ともに訂正された図と同じ。ただし、黒74までしか示していない。
本ブログでは図示をしないが、解説の雰囲気を損なわない為に略さずに写した。
2006年04月05日
三国志と囲碁(4)
忘憂清楽集にある林裕氏の解説に因ると、古代の碁は、現在のルールとは随分と違った様である。無論、ここに書かれているのは、宋の時代の事であるが、それは原始的なルールであるし、蓋然的仮説を述べるならば、三国志の時代のルールもこれに近い形であっただろうと推測する。現代のルールよりは、ずっとこちらの方が近いであろう。僕が囲碁と三国志小説の執筆で書いた内容は、修正すべきであると思う。
以下、林裕氏の解説を(順番は一部前後するが)部分的に引用する。
中国では十七路盤時代から星の数は五個で、辺の四星はなかった。(中略)日本に現存する最古の碁盤、正倉院宝物の「木画紫檀棊局」も十七星で朝鮮の碁盤である。現在の碁盤は九星である。
中国碁法は古来、右上星から左下星の二点に白、左上・右下の二点に黒(時には逆のこともあった)という事前置碁制が代表的で、これを「鎮子碁」といった。孫策詔呂範弈棋局面と晋武帝詔王武子弈棋局は、右上と左下が黒で対戦されている。
昔は白が先着し、身分の高い人や技量の高い人に黒を譲った。これは中国、日本で近世初期まで共通していた。おそらく朝鮮でも同じだったのであろう。今では習慣と意味が逆になって、文字も「玄人」「素人」と変わってきたけれども、そのように反転した理由は、中国では「玄」は老子の道を指し、また「赤みをおびた黒」を指すのに対して、「素」は「まじりけのない白」を指すからかもしれない。わたしは日本の場合語源的には黒人・白人(ルビ:「くろうと・しろうと」)からきているのではないかと思っている。 『忘憂清楽集』の打碁には、白先、黒先の両者がある。おそらく黒・白(先着)の後退の過渡時代の譜を含んでいるのだろうこれは囲碁(囲棋・弈) カテゴリーで何度も書いてきた事であるので、今更の説明は不要であろう。
以下は中国の碁について。
終局時に盤上に生存する石の多い方を勝ちとする中国ルールは、その点では、いわば原始ルールに近い。おそらく囲碁発症の原点には、石の生存を人間の生存と同じ角度で考える時代があったのに相違ない。中国では死んだ石は計算に無関係で、アゲハマはすぐに対手に返すのが習慣になっている。また「ダメ」というものがない。日本でいう「ダメ」は中国では一子の価値があって、最後までつめ合う。そして最後(終局時)に、盤上に生存している石と、自分の石を打つ権利のある空間を数えて勝敗を決める。(中略)日本の計算方法は、中国のある時代に一部に採用されていた方式を取り入れたふしもある。したがって日本固有のものかどうかは、まだまだ研究の余地がある。上げ浜や、駄目のルールが無いのは、本邦の現代のルールに慣れた我々には驚くべき内容である。駄目が無いという事は(というか最後まで詰め合うのならば)、駄目押しも無いという事だ。
この他にも、劫や、「切り賃」と呼ばれる古代のルール、チベットの碁から推測する当時の碁など、多くの事が書かれているが、碁に関する専門的な知識を要する内容であると判断する為、ここでの紹介は見合わせる。
2006年04月25日
忘憂清楽集での囲碁の用語
現在の中国でどう呼ぶのかは知らないが‥‥‥
講談社から出ている忘憂清楽集には、現在我々が使う囲碁の用語が、別の言葉で書かれている。
以下は宋の時代の劉仲甫の文に出てくる。
置石→勢子
布石→布置
左が我々の言葉であり、右が劉仲甫の言葉である。
又、三国志と囲碁(4)に書いたが、駄目の概念は無い。
三国志の時代でも同様であっただろうと推測する。
小説で囲碁のシーンを書く時は注意したい。
2007年03月13日
廬植の学派:劉備が教授された学問
まず最初に断っておきたいのは、以下は「検証された事実」ではなく、飽くまでも「着想」であるという事。
しかし面白いと思う。
また本エントリーのカテゴリーは、三国志の歴史的事実では無い事も、予めお断りしておく。
さて、廬植と言えば、三国志演義で
伊尹の志有れば則ち可なるも、伊尹の志無くんば則ち纂なり。なんて事をいう劉備、公孫サンの師である。
事実、史実としても両名の学問の師であり、又鄭玄の友人であり、馬融の弟子でもある人物だ。公孫サン以外の名は、社会科や漢文の講義で良く目にする名であろう。
さて、馬融に関しては一度三国志と囲碁(1)で触れたが、「囲棋賦」という囲碁の手引書で知られた人物である。
この馬融以外に後漢時代に囲碁の理論書で知られた人物に、奕旨の班固がいる。
参考→班固の奕旨と馬融の囲棋賦
囲碁の理論書で知られたこの馬融と班固であるが、実は接点が無い訳でも無い。
寧ろ、同じ学派であるとさえいえるのだ。
というのも、「後漢書 列女伝第七十四」の「扶風曹世叔妻者」から始まる部分に、「班彪の娘の昭に、近所の馬融さんは、蔵書閣で文字について習いました」という意味の内容があるのだ。
班固は班彪の息子であり、班昭の兄である(正史の一である「漢書」は、班彪から班固に受け継がれ、班固の死後班昭と馬融の兄続が完成させた)。
この事から、馬融と馬続は、班氏の学派に所属していると見て良いだろう。
また、班固と、馬融が共に囲碁を研究している事から、班氏の学派は囲碁を学問に取り入れていた可能性は高い。
さて、問題の廬植であるが、馬融の熱心な弟子であった事が、「呉延史盧趙列伝第五十四」に記されている。彼も系統としては、班氏の学派に所属する事になるだろう。
ならば、師の仕事の一つである囲碁の理論も受け継いでいる可能性は高い。
さて、こう考えると、当然劉備も系統としては、班氏の学派の一員と見て良いと思う。
ならば、経学や史学、軍学だけではなく、劉備も囲碁の手ほどきを受けたのではあるまいか?
そう夢想する余地は、充分にあると思う。
如何であろうか?
記述者 strap : 03:54
2007年05月21日
玄玄碁経集
玄玄碁経集は、南宋時代に著わされ、元代に再編された棋書で、現存する棋書としては、このブログで何度も紹介した忘憂清楽集
に次いで古いものとされています。
玄玄碁経集の序の部分には、廬植の学派:劉備が教授された学問で紹介しました班固の「奕旨」と馬融の「囲棋賦」が収められています。
それぞれは短い文章ですので、簡単に読めると思います。
2007年12月03日
班固の奕旨と馬融の囲棋賦
固と融という妙も興味深いが、奕旨と囲棋賦について今回は書こうと思う。
「はたしてゲームの攻略本か?」という視点で違いを述べたい。
尚僕は、原文ではなく、訳文を読んだので、若しかしたら微妙なニュアンスで間違っているかもしれない。その時はご容赦願いたい。
班固と馬融については、廬植の学派:劉備が教授された学問を参考にして戴きたい。
前述のエントリーの通り、馬融は班固の一世代後の人物であり、当然の事ながら囲棋賦は奕旨よりもより実践的である。そこには大きな違いがあると言っても良い。
班固の奕旨が、囲碁を「運が関係し無い、実力だけのゲームである」という事を述べるに止まるのに対し、囲棋賦は
先ずは四道を占め、隅を保ち傍らに依る。辺に沿ってさえぎまもり、互いに望みあう。馬の目の如く離ればなれに、雁の列の如く連なり並び、高く低く間をあけて布置して中央に進み出で、[違いつつ重なりつ、翼を振るって左右に飛びはせる。道狭く敵多ければ、遠行するすべもなく、棋子が多くとも策がなければ、群れ集う羊に異ならない]
と、今日の入門書と同じ程度の内容を、簡素に伝えている。([]内は、「玄玄碁経」には無い部分で、「古文苑」によって補われた部分。「玄玄碁経」での「奕旨」「囲棋賦」は「芸文類聚」等の類書とほぼ同等であるが、「古文苑」や「漢魏六朝百三家集」などは約二倍の文量を持つそうだ。)
又、班固が囲碁を天文や政事、治水、謀略、軍事など多くの喩えを用いて解説しているのに対し、馬融は一貫して軍事に喩えている。
奕旨というのは、囲碁を知力のゲームである事を説き、博打とは違う知的興奮の為の遊びであり、修練次第で勝てるようになるゲームである事を説いた文章である。今日の言葉で言えば、確定ゲームである事を述べたもので、言わば先ずの心構えを説いた書と言えるだろう。決してゲームの攻略本では無い。
一方馬融の囲棋賦は、より実践的なテクニックを手ほどきした書である。「中央より辺、辺より隅を重要視する」など、勝つ為の方法を教えた書なのである。こちらは紛れも無く攻略本の類と言えよう。
記述者 strap : 00:13