三国志小説論
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2005年09月22日

戦略・作戦・戦術(1)

さて、呂布ファミリーについてで少し触れたが、三国志の小説、物語には、軍略だとか、戦略作戦戦術といった用語が(必然として)出てくる。三国志小説には、軍事的描写が欠かせないからだ。今回から数回は、これら戦略作戦戦術といった用語について書いていきたいと思う。

三国志の時代(後漢末~西晋)、

「戦略、作戦、戦術という言葉がどう扱われたか」
という事は、戦史研究家でもなければ、歴史学者でも無い僕にとっては然程意味のある事では無い。僕にとって大事な事は、
「現代人がどういう意味でその用語を用いているか」
という事の方にある。それは文章を書く時、読み手と書き手とのギャップを少なくする事は、当然すべき努力であるからだ。学術論文(僕は工学のものしか知らないが)では、用語の定義自体に大きな枚数を割く事すらある。
例えば、「孫子」の第二篇に「作戦」という戦争計画、軍事ドクトリンに関する記述がある。ここで指す「作戦」は、我々が考える「作戦」と似た意味は持っているが、矢張り現代人の用いる「作戦」とは指し示すニュアンスが若干異なる。我々現代人が考える「作戦」とは、連続縦深作戦の提唱で知られた、トリアンダフィーロフの主張を日本語に訳した言葉であるからだ(尤も、「作戦術の父」として歴史教科書に登場するトリアンダフィーロフであるが、「作戦」自体の提唱は、ソビエト連邦の陸軍大学で教鞭をとっていたスヴェーチンのものである)。
この様に、古い言葉であっても、新しい意味で用いられる事は多い。
又、軍事用語として用いる場合、我々大衆が一般に考えている概念とは大きく違う事もある。例えば戦術に、部下を叱咤する雄弁術が含まれるか否か、といった事である(軍事用語の場合、含まない様だ)。言葉とはどれもそうだが、その定義は難しい。学生時代、僕は音響工学を専門としていたが、「騒音」の定義で悩んだ事がある。日常生活で使わない言葉ならばなおさらの事であろう。

以前、他サイトの掲示板に、僕が僕なりの定義を書いていたのでここに紹介する。

戦略……作戦を円滑に進める為の大きな概要。進行ルートや戦場を決定したり、輸送の計画を行う。
作戦……戦場における各戦闘を統合する計画。
戦術……戦闘において、指揮下の兵を効果的に扱う為の技術。

官渡の戦いを例に出せば……袁紹と戦う事を決めたのが政治、官渡と白馬で防衛し延津から攻める事を決めたのが戦略、輕重を囮にしたのが作戦、罠にかかった文醜を効果的に攻撃する方法が戦術、兵個人の攻撃が、武術……といったところか。

以後はこれを基に(僕の)三国志小説に用いる戦略、作戦、戦術について語っていきたい。

投稿者 strap : 09:04

2005年09月25日

戦略・作戦・戦術(2)

今回も、三国志とはあまり関係ないが、三国志小説には密接な関係のある(三国志小説はミリタリー小説の一分野と僕は位置づけているから)、戦略作戦戦術の話。
戦略・作戦・戦術(1)参照。

言葉の新しさとしては、作戦に対する語が最も新しく、戦術に対する語が、最も歴史が古い。古くは、軍事を大きいもの、小さいものと分ける概念が乏しく、兵法を一般的に戦術と呼んでいた。又、古い時代の戦術は、「軍隊の編成及び戦闘隊形の術」という意味で用いられていたようである。その戦術も、十八世紀(1770年代)までは一般的な用語ではなかった。
十八世紀になり欧州各地では、火器の発達と道路網が整備される。これによって軍の活動が拡大していき、戦術という言葉の範囲では、その仕事を表現できなくなってしまった。それで当時のフランス人は、「大戦術」という概念を作り出す。これが後に、「将帥」を語源とする(正確にはそれを語源とした、六世紀のビザンチン帝国の皇帝、マウリキウス帝の「ストラテゴン」を語源とする)戦略という言葉になった(呂布ファミリーについて参照)。
そして、ドイツ人ビューローによって、戦略戦術作戦基地(ただしこれは現代の日本語であって、当時作戦という概念はまだ無い)といった用語の明確な定義が行われる事によって、徐々に展していく。
しかし戦争論で知られたクラウセビッツは、ビューロー戦略の定義、

大砲の射程外又は有視界外の軍事行動
を「現在のテクノロジーを土台とした定義で、過去及び未来には適用できない」と批判した。クラウセビッツ戦略の定義は以下の様なものである。
戦争の目的に個々の戦闘を統合する事の学
戦略は戦闘を決定的な地点において確定し、その成果を大量の戦闘力をもって出来る限り大きなものに確実化し、この方法によって戦闘力の可及的有利な使用を果たそうとする。戦略は、戦術的成果がそれによって戦争の目的に結びつけられるところの目標を選び決定するのである。

しかしビューローの定義として、戦略と政治の区分は無いという意見は、現在でも多くの支持を得ている。それは、「適切に外交を行うには、軍事に無知であってはならず、外交問題を無視しては、将帥としては失格である、又、内政が、戦争への備えを生み出す」という主張である。孫子は、戦争を政治の一部だという考えを示したが、ビューロー以後、その中でも最も政治的な部分を戦略と呼ぶ事になった(ビューローの百年後、ルーデンドルフは「戦争とは他の手段をもってする対外的な政治である」と革めて述べている)。
尚、今日の辞書を引くと戦略は、
陸軍では兵団、海軍では艦隊の運用方策を言う。即ち作戦を計画し、その実地を統裁し、兵団或いは艦隊行動の方向、目的、時機竝に場所等の関係を定めるもの。
と、説明されている。

作戦という概念は、戦略・作戦・戦術(1)に書いた様に、前世紀初頭にソビエト連邦で生まれた。その中で重要な働きをしたのが、スヴェーチンと、「作戦術の父」こと、トリアンダフィーロフである。これは当時より「(包囲)殲滅戦」という戦いが困難になった事で、戦役が長引く様になった為、そして、決戦、一つの戦闘の帰趨が、戦局を大きく動かす事が稀だという事が、やっと理解された為に考え出された概念である。
今日の辞書には、

通常戦略単位以上の兵団又は艦隊の某期間に亙る対敵行動の綜括的名称。兵団又は艦隊の集中、集合、捜索、行軍、航行、戦闘及び是等に必要なる交通及び補給等を総称す。
と、説明されている様だ。

作品を書く時は、この様な用語を踏まえて書きたいものである。

投稿者 strap : 23:59 | コメント (0)

2005年09月26日

戦略・作戦・戦術(3)

又もや、三国志とは殆ど関係ないが、軍事的描写は必須の三国志小説には欠かせない用語、戦略作戦戦術の話。
戦略・作戦・戦術(1)及び、戦略・作戦・戦術(2)参照。

昨夜のF1グランプリ第十七戦ブラジルグランプリでは、ルノーのドライバー、ヘルナンド・アロンソが、三位入賞を果たし、ドライバーズタイトルを獲得した。日本人としては、鈴鹿を待たずに世界チャンプが決まったのは少し残念な気もするが、史上最年少だという新チャンピオンの誕生を祝福したいと思う。
さて、それまでは何気なく見ていたのであるが、今は作戦という言葉に敏感に反応してしまっているので、その事について少し書きたいと思う。

TV番組では、そのグランプリの戦い方を、戦略戦術の語を使わず、作戦と呼んでいる。そのサーキットでの給油(以前はタイヤ交換を含んだ)の回数を何回にするか、ということで、「ワンストップ作戦」「ツーストップ作戦」と呼ぶ訳である。これは実に面白い用語の使い方だと思う。
決戦場である一つのレースを作戦と呼ぶという事は、一年を通してのレースは戦略という事であり、又、そのサーキットでの一周の走り方こそが戦術という事になるだろう。これは、戦役の中で、多くの戦闘を総合して考えるのが戦略、一つの戦闘(決戦)を有利に導くのが作戦、作戦中での戦闘実地の方策が戦術、という考えに見事に合致している。

例えとして解りやすいと思ったので、紹介する事にした。

しかしサトタク、来期はどうするんでしょうねぇ?

投稿者 strap : 12:39 | コメント (0)

2005年09月27日

戦略・作戦・戦術(4)

今回も三国志には全く関係ないけれど、軍事を描かざるを得ない三国志小説には関連深い戦略作戦、そして戦術のお話。
戦略・作戦・戦術カテゴリー参照。

大モルトケも、ベルンハルディも、シュリーフェンも、ルーデンドルフゼークトも。好きなプロイセン系の名前には全く触れていないが、歴史を語っている訳ではないので、今回はすっ飛ばす事とする。

さて、この記事の発端は、呂布ファミリーについてで語ったが、ここでマスターが語った内容は、

戦術的勝利が戦略的勝利と同一では無い
であった事を思い出して戴きたい。
一例を挙げるならば(僕の小説からの引用で申し訳ないが)、
連戦による疲労と、軍需物資の不足に因り呂布軍はその勢いを失い、軈て彭城迄追い詰められる。曹操軍は局地では負けても、相手の継戦能力それ自体をを削る戦いをしたのだ。呂布が窮地に落ち入っていくと、従っていた豪族達は簡単に寝返り、曹操の軍に加わっていった。
こういう状態が考えられる。この場合恋愛に例えるならば、資金不足と言えるだろうか。以前書いた様に、一つの戦闘の帰趨が、戦局を大きく動かす事は稀なのだ。

(削除)


戦略家フルンゼはこう言っている。「戦術レベルでは、迅速な決戦は有効であると認めるものの、戦略レベルでは持久戦を選択すべきである」。軍事においても、恋愛においても、同じ法則が成り立つのかも知れない。

次項:戦略・作戦・戦術(5)

投稿者 strap : 00:29 | コメント (0)

2006年03月25日

本邦での戦術を発展させた書物

参照:戦略・作戦・戦術カテゴリー

さて、我が国の近代戦術の発展であるが、それは講武所砲術師範役高島四郎兵衛秋帆が、出島館長のスチューレルの手ほどきを基に完成させた洋式砲術から、という考え方もあるが、やはり一般的な意味で言えば、それはブラントの「三兵答古知幾」が翻訳された時からであろう(デッケルの「垤氏三兵答古知幾」とは別物)。

これはタイトルが表す様に、三兵、つまり歩兵、騎兵、砲兵の答古知幾を記した本である。答古知幾とは戦術を意味し、TAKTIEKの音訳であり、ブラントの著書Grundzuge der Taktik der drei Waffenの蘭語訳、Taktiek der drie wapensからのものである。

僕自身が未読であるので、この書物自体は紹介できないが、現在仕事で内科医と話す機会が多いので、思い出した今ここに記しておく(「三兵答古知幾」の翻訳者は、内科医吉田長淑の弟子)。
森鴎外がカール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツの著書である「Vom Kriege(現在のタイトルは「戦争論」)」を「戦論」として翻訳した様に、この手の本の翻訳と医者は不思議と縁があるのかも知れない。

投稿者 strap : 19:15 | コメント (0)

2006年05月16日

命令を拒否させぬ事の重要性

現行の火薬類取締法は、第二十三条で十八(今は十六になったのかな?)歳未満の者の(法規が適用される)火薬の取り扱いを認めていない。無論射撃競技の実包は、火薬類取締法で適用される火薬である。この為国内では、海外の優れた少年少女が射撃競技に参加する事は許されていない。つまり、本邦で開かれる射撃の国際大会が五輪の選考を兼ねた時、早熟の競技者達は涕を飲む事となる。
この様な状態の中での五輪開催など、もってのほかだ。競技は違うが、バルセロナで岩崎が金メダルをとった時は、十四だった。こういう若い才能を、整備されていない法規が潰しても良いものだろうか?


先日、「福岡市の五輪招致に反対する署名」というのをやっていたので署名した。
とはいえ僕は、福岡で開催すれば街は潤うと思っているし、日本で開催するならば福岡が望ましいと思う。僕自身は日本で開催する事自体に反対なのであるから、間違った事をしたと思う。

さて、五輪といって、真っ先に思いつく大会は何であろうか?
人によっては華やかだったロス五輪(柔道のラシュワン対山下戦は名勝負中の名勝負)であろうし、古い人には東京五輪(冬季も含めば、札幌五輪もか)やメキシコ五輪(日本が最もサッカーが強かった頃)が思い起こされるかも知れない。印象の薄さからモスクワ五輪を挙げる人もいるかも知れない。
しかしやはりオリンピックと聞けば、、多くの人はミュンヘン五輪を思い起こすであろう。オレンジ色の服を着てワルサーMPLを持った西ドイツ警察軍部隊の隊員の写真は、誰しも一度は見た事あると思う。
又この件を要因として西ドイツ警察は対テロリスト用に拳銃のトライアルを行い、ワルサー・P5、SIG・P6(P225)、H&K・P7(PSP)という傑作拳銃が生まれた事も、周知の事実である。

さて、この時西ドイツ警察は"黒い九月"を名乗るパレスチナのテロリスト(当時は「アラブゲリラ」と呼ばれた様である)に、人質9人(と、イスラエルのレスリングコーチ一名、選手一名、西ドイツ警察軍部隊の隊員一名)を全て殺害された。
これは西ドイツ警察軍部隊に多くの不備があった為に防げなかった事ではあるが、その理由の一つに命令を拒否し、狙撃をしなかった者がいたという事もある。

我が国でも同様の事ではあるが、第二次世界大戦後の連合国の裁判で、「自己の良心に基づいて行動しなかった罪」で多くの上官の命令に忠実であった軍人が裁かれた(イスラエルに拉致され絞首刑にされたアイヒマンなども、命令に忠実な軍人であった可能性がある)。この為当時の西ドイツでは、「良心に因る命令拒否」という考えが浸透していた様である。これを根拠として、「裁判も無しに射殺する事は出来ない」と、一部のスナイパーは引き金を引かなかったらしいのだ。この安っぽい思想が、罪も無い人質を一人も救出できないという大失態を生んだ。
命令を拒否する兵は、有事においては全く信用できない。

孫武はその軍事の才を呉王・闔廬に示す為、女達を軍隊に仕立てるという試験を受けている。闔廬の側室を調練した際、命令をきかせる為に先ず命令に従わなかった闔廬の愛妾二名を斬った。
又墨子は、「号令第七十」で、命令の重要性を説いている。
軍隊というのは先ず、命令を確りときくという事が重要であるという事であろう。

投稿者 strap : 20:04 | コメント (0)

2007年09月04日

後漢時代の兵学思想・兵学書

中国の兵書は、どうやら戦国時代に完成の域に達した様である。
その一つの証左として、宗の時代に纏められ教科書として刊行された「武経七書」は、「李衛公問対」を除き、戦国時代の書物のみである(偽書の疑いや後代の加筆疑惑もあるが、一応そういう事にしておく)。
であるから、後漢時代の兵学というのは、漢書の芸文志第十に書かれたものと同様と思っても好かろうと思う。
又、敦煌で発見された「敦煌残巻占雲気書」という実践的と考えられる唐時代の兵法書は、漢書に書かれた「兵陰陽」タイプの兵書が唐の時代には生きていた証であり、後漢の末や三国時代にも利用されていたという推測が出来るとの事だ。逆に途切れていたと考える方が不自然であろう。

さて、漢書芸文志第十では、兵書を「兵権謀」、「兵形勢」、「兵陰陽」、「兵技巧」の四種に分類している。

「兵権謀」は、孫子や呉子に代表される兵書で、事前の準備に主眼を置いた兵書である。このブランチの書物は、国政に力点を置き、情報を集め、綿密な計画を立て、なるべく戦いを避け、権謀によって勝ちを収めようとする傾向がある。現代の観点から言えば「戦略」を説いた書物と言えよう。
無論孫子には有名な、「軍は高きを好みて下きを憎む」や「高陵には向かうこと勿かれ」の様に、具体的な実地での運用について書かれた部分が無いでも無いが、同じく孫子には「百戦百勝は善の善なるものに非ず」とある様に、戦闘には消極的かつ否定的で、矢張り重要視されている部分は、事前準備や謀略であると言えるだろう。

「兵形成」というのは漢書によれば、「地の利を活かし、離合等、状態を変化させる事で素早く敵を制する術」であるらしい。「尉繚三十一篇」という記述もあるので、尉繚子がこれに分類される様だが、現行本が二十四篇である事や、諸子略雑家類にも「尉繚二十九篇」とあり、「尉繚子みたいな兵書」とは言えぬだろうし、そう言ったところで理解は出来ない。尉繚子には「得帯甲十万、(戦)車千乗」や、ファイブマンセル等、兵編成に関する記述もある訳であるし、現代で言うところの、「作戦や戦術」に関する兵書と理解して良いのでは無いかと、想像する。「兵権謀」に分類される書物が、実際の戦場での兵の(具体的な)運用について殆ど書いていない事からも、それで良かろうと思う。一般的なサラリーマンが兵書といって思い浮かぶのは、この手の書物なのではないだろうか?

「兵陰陽」というのは、日時、天体の方角、五行の原理、お呪い等、呪術的な性格の強い兵法である。雲の形で攻めるべきかを占う「敦煌残巻占雲気書」も、この部類に入る。馬王堆漢墓から出土した、「五星占」、「天文気性雑占」等が代表例らしい。

「兵技巧」というのは、どうやら「戦闘技術」に関する兵書である様だ。実際に上げられているタイトルを見ると、「逢門射法二篇」、「李将軍射法三篇」、「魏氏射法六篇」、「彊弩将軍王圍射法五卷」、「望遠連弩射法具十五篇」、「護軍射師王賀射書五篇」、「蒲苴子弋法四篇」、「剣道三十八篇」といった具合なので、射法等、武技に関する術を書いたものらしい。

さて、この中で特に尊重されたのは、「兵権謀」に属する兵書と、「兵陰陽」に属する兵書である。

「兵陰陽」が重要視されていた事は、現代に残る多くの兵書が、呪術的方法を非難している事でも知れるし、多くの史書でも当然の様に夢判断等が行なわれている事からも、窺い知れる。ただ、現在史料が少なく、「兵形成」、「兵技巧」同様、研究が行き届いていない分野でもある様だ。
兎に角、後漢末の兵法は、我々が考える程合理的なものでは無く、多分に迷信的方法が含まれていた事を気に止めるべきであろう。

今ひとつの「兵権謀」は、孫呉を読めばわかる様に、「兵は国の大事なり(孫子)」だとか、「国に和せずんば以って軍を出すべからず(呉子)」と、政治に関する問題から戦争を論じている。又孫子には、「古の所謂善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。故に善く戦う者の勝つや、智名無く勇功も無し(戦いに強い人は簡単に勝つ準備をしてから戦うので、戦術家だとか勇敢だったとかと言われる事は無い)」とある。
後漢末の兵法は、我々が考えるよりも、事前準備に力を入れていたものに違いないと思う。

後漢書や三国志から、細やかな戦術を知る事は難しいが、元々「兵権謀」、「兵陰陽」の二つの系統の兵書は、その様な事を重視してはいない(「兵権謀」は軽視はしていないが、矢張り重視しているとも言い難い。)。実際は「八門禁鎖陣」の様な、陣形を論じた書物というのは、当時重要視されていた形跡が無い。
三国志演義に書かれているのとは違い、意外にその様な事は稚拙であったのかも知れない。

投稿者 strap : 03:20

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