2005年04月06日

敗軍に及び涕を流して之を斬り、而して其の後をあわれむ

とは蜀書で最も有名な言葉ですが、何故斬られたのかという事には諸説様々。参考
僕自身は、王平伝の記述から、馬謖が逃亡したという説をとりたい。

さて、本題はここからである。

この街亭の戦いに三国志の作者である陳寿の父が参軍として軍事行動に参与していた事は、良く知られた事実である。彼を主役として書けば、違った側面からの三国志が書けるのでは無いかと考えている。
呉書シリーズと、呂布三部作が片付いたら、是非中篇で挑戦したい人物である。

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2005年04月22日

名前の読み方

先日祖母が永眠しました。
院号で九字もある戒名を戴いた。ありがたい心遣いだとは思いましたが、やはり葬儀は生きている人の為のものだと再認識しました。ちゃんとお別れをする為の区切りなのでしょうね。

まぁこの話は陳倉城攻防戦でやるとして、僕が気になったのは、祖父の名前の読み方です。

祖父は名を「十八」といい、充分の「十」に、末広がりの「八」と、いい字なのですが、何分読み方が判らない。叔父や伯母、叔母、父の間では、「とはち」説と「じゅうはち」説とに二分しました。息子や娘が知らぬ名を、僕は何と呼べば良いのでしょうか?

三国志を読む時も、慣例的な読み方のある人物が多くいます。

夏侯惇は「かこうじゅん」、曹植は「そうち」と、本邦では古くから読まれてきました。しかし僕はそう読んではいません。
本来中国人の名前ですので、日本の音を当てはめる事自体が間違いという考えもありますが、我が国の人々の発音しやすい名前で呼ぶのは、古くからの慣例(文化)ですので、現代人でなければ認められるでしょう。我が国を海外では「ジパング」「ヤーパン」「ジャポン」などと呼称するのと同じだと思います。
まぁしかし、日本語読みにも数種ある訳で、本当に難しいですね。

廖立も「リョウリツ」、「リョウリュウ」と呼ぶ人が分かれる名前ですね。

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2005年07月10日

三国志の登場人物:黄権

天草さんの三国志博物館集解の記事陳寿のメッセージを読んで、思い当たった事を書く。


黄権の伝が蜀書(黄李呂馬王張伝第十三)に収められている事は不可解であると思います。
黄権は劉備に八年、魏に十七年仕えました。赤龍さんが同ウェブログで書かれた潘濬と(年数を見れば)同じようなものなのに、何故か魏臣としての扱いではありません。黄権は魏で車騎将軍をおくられ、景侯という諡までもらっています。魏で手厚く遇された事は間違いないにも拘らず、です。
又、黄権は劉璋の配下だった時、

左将軍有驍名、今請到、欲以部曲遇之、則不満其心、欲以賓客体待、則一国不容二君、若客有泰山之安、則主有累卵之危。可但閉境以待河清
と、「劉備は驍名があるから、部曲の待遇は不満を抱くでしょうし、賓客として向かえれば国に君子が二人いる状態になり、客が安泰ならば、劉璋は卵を重ねた状態の様に危険です。ここは国境を閉じ、静かになるのを待ちましょう」と、発言しています。この発言は、劉備の戦略を見抜いていただけでは無く、劉備をを危険人物と見なしていた事をも現すエピソードです。
この様な人物を陳寿は何故、蜀臣として扱ったのでしょうか?

黄権は、猇帝の戦いの最中、退路を断たれ、已む無く呉よりはと魏に下りました。故に、その家族は蜀にあったのです。
黄權が蜀に留めた子、黄崇は、尚書郎として諸葛瞻の軍に随行し、綿竹にて鄧艾の軍と交戦。ここで戦死をしました。これは263年の出来事ですが、この時陳寿は三十代の始めだった様です。
若しかしたら陳寿は、黄崇を良く知っていた為に、その父を蜀臣として扱ったのかも知れませんね。黄崇が蜀に殉じた事を大切にしたかったのかも知れません。

黄権は、僕が是非作品にしたい人物の第一番目ですね。

記述者 strap : 18:24 | コメント (0)

2005年12月10日

三国志小説の資料

今更‥‥‥と思われる三国志ファンは多いと思うが、昨夜気付いたので、紹介しておく。

岩波書店から先月、十冊目の後漢書の和訳本が発売された。吉川忠夫訓注。
後漢書(10)列伝八

今回は、「卷八十五 東夷列伝第七十五」から 「卷九十 烏桓鮮卑列伝第八十」までを纏めている様である。岩波書店の宣伝文句を引用しておく。

東夷,南蛮西南夷,西羌(せいきょう),西域,南匈奴(みなみきょうど),烏桓鮮卑(うがんせんぴ)の外国伝.東夷伝の中には倭国伝が含まれ,南蛮伝の「槃瓠(ばんこ)」の説話について正岡子規は南総里見八犬伝とのつながりを指摘する.西域伝には同時代のローマ帝国の事情も記されて,興味は尽きない.

尚、三国志ファンに最も馴染み深いのは、
後漢書(8)列伝六
の方であろう。
こちらには、盧植を含む「卷六十四 呉延史盧趙列伝第五十四」に始まり、「卷七十 鄭孔荀列伝第六十」、「卷七十二 董卓列伝第六十二」、「卷七十五 劉焉袁術呂布列伝第六十五」と、おなじみの人々が目白押しである。

又、
後漢書(7)列伝五
には矢張り、馬融、荀淑、鍾皓、陳寔、陳紀といった、三国志でお馴染みの名前がズラリである。

金銭に余裕のある時には是非手に入れたい。

記述者 strap : 02:11

2006年03月18日

夏侯惇,夏侯惇が左目を失った事件に関する事

三国志演義第十八回「賈文和料敵決勝 夏侯惇抜失啖睛」では、徐州に攻め込んだ夏侯惇曹性の箭に因って左目を失います。夏侯惇が已む無く退却する時を表した七言詩

啖睛猛将雖能戦 中箭先鋒難久持
は、非常に有名ですね。→<>参考

隻眼の将軍 夏侯惇(Xiahou_Dun,_the_One-Eyed)

現在僕は孫策詔呂範弈棋局図四十三子からに書きました様に、「夏侯惇出征」という作品を執筆中であり、シナリオハンティングの最中で気になったのでこれを取り上げてみました。
夏侯惇出征」のシナリオハンティングに関しては、夏侯惇出征スレッド参照。



先ず、この事件(夏侯惇の左目喪失事件)は魏書「諸夏侯曹伝第九」の夏侯惇伝には、

太祖自徐州還、従征呂布、為流矢所中、傷左目
と書かれており、後漢書「劉焉袁術呂布列伝第六十五」の李賢注においても「魏志曰く」として、
後従征呂布、為流矢傷左目
と書かれるのみです。
後漢書「劉焉袁術呂布列伝第六十五」で
建安三年、(布遂復従為術、遣順攻劉備於沛、破之)。曹操遣夏侯惇救備、為順所敗
の部分で注が付いている為、呂布配下の高順との戦いで失った様な印象を受けますが、そんな証拠は何処にもありません。恐らくこの時期では無いと考えます。と言いますのも、この建安三年の記述は「遣わされた」となっていますから、「従った」を狭義で捉えると、この時期では無いと思われるからです。僕の印象では、それよりももっと以前、呂布が張兄弟や陳宮とともに濮陽を抑えた時期では無いかというところです。
尚この部分、魏書「呂布臧洪伝第七」では、
建安三年、(布復叛為術、遣高順攻劉備於沛、破之)。太祖遣夏侯惇救備、為順所敗
となっています。

さて、三国志演義第十八回では、左目を射抜かれた夏侯惇は、刺さった箭を眼球ごと引き抜き、「父母の精血は棄て難い(原文:父精母血、不可棄也)」とか何とか言って、曹性をそのまま槍で突き殺します。
しかし史書には曹性の没年や死因は記されておらず、夏侯惇に殺されたという事実はありません。
まぁ尤も上記で見ました様に、左目を負傷させた人物すら曹性では無いのですが。

さて、夏侯惇、ついでに言うならホウ統や周瑜をも襲った「流矢」なのですが、「流失」と似ていますが全く別の意味です。似ているのは文字だけで、後は全く似ていません(「漢文って外国語なんだなぁ~」と改めて感じます)。
又、本邦ではフライヤー、逸れ矢の意味で用いますが、ここではそうでは無く、「後漢書 鄭孔荀列伝第六十」に

流矢は雨のごとく集まり、弋矛は内に接するも、融は几に隠りて書を読み、談笑すること自若たり
(流矢雨集、弋矛内接、融隠几読書、談笑自若)
とある様に、「流れる様に飛ぶ矢の一群」を指す言葉です。
つまり激しい猛射にあった訳で、無論これも鋭い一撃であった筈。正面から受けていれば、当然眼球のみならず、脳まで達したでしょう(目に刺さった瞬間に箭を掴み、勢いを殺したという推理は、漫画の読み過ぎです)。
側頭葉程度であれば助かる事もある様ですが、後に夏侯惇が高次脳機能障害に陥った様な記述も無く、脳には達しなかったと考えるのが妥当だと思います。
と、すれば、夏侯惇が左目を失ったシチュエーションは、常識的に考えて、以下の二つの内の何れかだと思います。
・右前方から射撃を受け、顔の中心から外に向かって傷を負った。
・左側面から攻撃を受け、兜を突き抜けてきた箭に左横から箭が刺さり、左眼球を傷付けた位置で止まった。
兜を被っていない状態で(顔を背けた、後方からの攻撃だった等の理由で)左後頭部側から射撃を受け、左後側から斜めに刺さった‥‥‥などはあまり現実味が無いと思います。

参考:wikipedia→Xiahou_Dun

夏侯惇小説 『元讓出征--「わが諸夏侯曹伝」の中--』
夏侯惇小説感想掲示板

記述者 strap : 18:19 | コメント (0)

2006年11月08日

軍政家 棗祗

このサイトをサイドバーの検索器で検索すると、棗祗の語は12回検出できる。
これは陳宮や夏侯惇の30個程度やや50個に近い曹操と比べると少ない数字の様にも思えるが、張飛の11回や孫権の8回と比べれば、「頻繁」と言っても良い事がわかる。なんと、周倉諸葛恪よりも出現回数は多い(周倉は10回、諸葛恪は7回)。その位僕の書く作品では重要なバイプレイヤーなのだ。

棗祗は、「任蘇杜鄭倉伝第十六」の中の任峻の項目に、おまけで出てくる人である。武帝紀と程イク伝にも一回づつ名前出る(と記憶している)。

さて、棗祗についてわかっている事は、実はそう多くは無い。何と言っても字も判らない。
棗祗について判っているのは、以下の通りである。

①曹操の元で農業政策を執行した人物。任峻伝に、「軍事・国事に必要な物資が豊富になったのは、棗祗が発議して任峻が実現した結果である」とある。
②本来の姓は棘であったが、先祖が難を避けた時に改姓した。
③注に引く「魏武故事」に、曹操が義兵を起こした時、共に従い各所の征討に従事したとあるから、190年頃参入したと思われる。
④袁紹は冀州に入った後(191年以後)、棗祗を欲したが、棗祗は曹操に従い東阿の県令を引き受けた。
⑤194年、曹操の留守に陳宮と張バクが謀反すると、兗州で呼応しないのは、ケン城、范、東阿のみであった。呂布がそれらを攻めると聞くと、官吏と人民は恐慌きたしたという。陳宮は自ら東阿に向かうが、程イクの騎兵に倉亭津の私を切られ失敗する。程イクが東阿に到着した時、棗祗は官吏と人民を統率し激励して城の防備を固めていたという。
⑥後に大軍の食糧が欠乏した時、棗祗の東阿から補った様である。
⑦曹操が許を平定すると、棗祗は韓浩と共に屯田制を献策している。この時、飢饉と干バツで軍無いの糧食が不足していた様である。任峻伝には、「羽林監の潁川の棗祗」と記されている。
⑧つまり潁川郡の出身である。
⑨屯田は、人民から募集して許の県下で行わせた。百万石の穀物を取り入れ、郡と国でいずれも田官を置き、数年のうちにいたる所で粟を備蓄した。袁紹の軍がこれの輸送を度々襲った。
⑩棗祗は屯田制の改正案を提出したが、曹操は迷い、荀イクと議論させた。棗祗の案は「分田の術」と表現されている。しかし荀イクは軍祭酒の侯声の言う従来の案(牛の数を基準とした様だ)とどちらが優れているか判断が出来なかった。それでも棗祗は信念を変えず、計算に基づき曹操に意見を述べた。曹操はこれに賛成し、棗祗を屯田都尉にとりたてた。この年は大豊作で、棗祗のその政策によって田地を増大させた。
⑪棗祗は早くに死んだ様である。郡の太守の官を追贈したが、尚その功績に相応しく無いと曹操は悔やむ。「もと陳留の太守」という記述があるが、追贈は陳留の太守か?又曹操は、侯にとりたてるのを当然と思いながら引きのばしている。棗祗の子、棗処中に爵位領地を与えて棗祗を祭らせ、不朽の事業を評価した様である。
⑫忠誠有能な天分をもつと、曹操は評価している。
⑬子は「処中」、その子は「拠」。「拠」の子が「腆」と「嵩」である。


簡単に書くと、

曹操の揺籃期を支えた有能な軍政家で、袁紹が欲する程の事務手腕を持っていた。
屯田制を成功させ、曹操の軍の糧食を確保したが、若くして死んだ。
という事だ。
つまり棗祗は、「有能」な「軍政家」である事はわかっていても、それ以上は殆どわからんという事である。僕が作品で重要視する所以が解かって戴けたと思う。

尚、肝心の屯田制に関しては、三国志博物館集解が詳しいので、こちらを参考にして戴きたい。

記述者 strap : 15:51 | コメント (0)

2006年11月24日

曹操の祖父、曹騰

「三国志」は曹操を中心に、同時代の人の事を書かれているし、又「三国志演義」で曹操は、魅力的な敵役を務めている。
さて、その曹操の祖父、曹騰については、正史では「宦者列傳第六十八」に書かれている。

それによると、

曹騰字季興、沛国譙人也
という事なので、四男であるらしい(事実「三国志 武帝紀」の裴松之注は司馬彪の「続漢書」を引き、父の名を「節」として、三人の兄がいた事を記している)。
この後、
安帝時除黄門従官
と続くし、
順帝在東宮、鄧太后以騰年少謹厚、使侍皇太子書、特見親愛
とある。「使侍皇太子書」とは、皇太子(後の順帝)の読書の相手役であった事を示すそうだ。
順帝は115年産まれ、安帝は125年没であるから、155年産まれの曹操とは40~50位歳が離れていたのであろう。

その後、中常侍となり、桓帝を天子に立てる事を決定した勲功で、「費亭侯」という亭侯に封ぜられる。
その後「遷大長秋、加位特進」と続く。ここは「三国志 武帝紀」本文にも、

桓帝世、曹騰為中常侍大長秋、封費亭侯
と同じ様にある。

さて本文は以後、

騰用事省闥三十余年、奉事四帝、未嘗有過
と続く。四帝というのは、順帝、沖帝、質帝、桓帝の四帝を指している。その後も
其所進達、皆海内名人……
として、具体的な名人の名前が挙げられている。

そして最後に書かれているのが、曹騰の収賄疑惑である。
蜀郡の太守が、計吏(会計報告の為に群から中央に派遣される役人)を使って、曹騰に賄賂を贈ろうとしたらしい。これを益州刺史のチュウ暠が見つけ、曹騰を弾劾して罪を按じる事を請うた。しかし帝は「書自外来、非騰之過」と言い、不問にしたという。曹騰はこの件でチュウ暠を怨む事をしなかったし、能吏であると称えていた。人々はこれに感嘆したと云う。
チュウ暠は後に司空に成った時、「今身為公、乃曹常侍力焉」と賓客に言ったという。

上記に見られる様に、曹騰という人物は比較的高い評価の人物の様である。
袁紹が陳琳に書かせた檄文に見られる様な悪評は無い。

尤も、「桓帝を天子に立てる事を決定した勲功」とは即ち、外戚である梁冀に協力したという意味でもあろうから、真の人格者であったか否かについてはやはり、疑問の余地を大きく残す。

記述者 strap : 01:11

2007年05月07日

崔烈の経歴:孔彪碑

今回は三国志で御馴染みの崔烈について書きます。
「武帝紀」でははじめの方に「続漢書曰」と、注で太尉であった事が紹介されていますし、諸葛亮の友人である崔州平の父としても良く知られた人物です。「虞傅蓋臧列伝第四十八」では辺章韓遂作乱の時の事として、

司徒の崔烈以為宜ろしく、涼州を棄つべしと。詔して公卿百官を会するや、烈は堅く先の義を執る。(傅)燮、言をはげまして曰く「司徒を斬らば、天下乃ち安んぜん」
と、傅燮に殺されかけた人物です。息子の鈞に、「論者はその銅臭(銭の臭い)を嫌うのでしょう」なんて言われるエピソードも、良く知られていると思います。
本紀の記述を引用して経歴を探ると、
(中平二年)三月、廷尉崔烈を司徒と為す
(中平四年)夏四月(中略)太尉張温免じ、司徒崔烈を太尉と為す
(中平四年)十一月、太尉崔烈罷め、大司農曹崇を太尉と為す
(初平三年)六月(中略)城門校尉崔烈(中略)戦没し(後略)
とありますが、あまり詳しくは無いです(見落としあったらすいません)。
列伝(崔駰列伝第四十二)にも歴位郡守九卿という程度でしか書かれていません。
しかし、崔烈の経歴の手掛かりを見つけました。

山東省に『漢故博陵太守孔府君碑』とタイトルの付いた碑が現存しています。
これは霊帝が元服した年である建寧四年の七月に立てられたもので、

君諱彪,字元上,孔子十九世之孫,穎川君之元子也
と書き出されています。

拓本の写真を見たのですが、痛みが激しい為、僕には判読できませんでしたが、解説書をもとに簡単に書きます。

この孔彪ですが、尚事待郎→治書御史→博陵太守を歴任した後下邳相となり、最終官職は河東太守。四十九歳で没。
孔彪は歴史書に名前の出てくる人物ではありませんが、その名は永寿二年造立の碑に

尚事待郎魯孔彪元上 三千
建寧元年刻の碑に
河東太守孔彪元上
と見える様です。

ここで不思議な事があります。
最終官職が河東太守であるのに、何故『漢故博陵太守孔府君碑』と碑は題されているのか?
しかし実は、不思議でもなんでもありません。
それはこの碑が、博陵の故吏によって立てられたからなのです。

この碑の碑陰には、故吏の名が多く刻まれているのですが、その筆頭に「故吏,司徒掾」として、崔烈の名があるそうです。
崔烈という人は、博陵郡の役人と司徒掾を経験している様です。

記述者 strap : 23:03

2007年05月16日

西園八校尉:後漢末のヒーローチーム:下軍校尉鮑鴻

中平五年八月に組織された政府公認のヒーローチーム、西園八校尉は、メンバーだけは良く知られています。そのメンバーは、楽資(裴松之が良く批難している人物です)の「山陽公載記」等から引かれた部分によって判明しています。
西園八校尉メンバーは以下の八名。

(小黄門)蹇碩 : 上軍校尉(リーダー)
(虎賁中郎将)袁紹 : 中軍校尉
(屯騎校尉or屯騎都尉)鮑鴻 : 下軍校尉
(議郎)曹操 : 典軍校尉
趙融 : 助軍左校尉(助軍校尉)
馮芳 : 助軍右校尉
(諫議大夫)夏牟 : 左校尉
淳于瓊 : 右校尉(佐軍校尉)

注では、「凡そ八校、皆蹇碩に統ぶ」と続くので、八名が同格ではなく、蹇碩がリーダーであった事がわかります。又名前的にいっても上軍校尉、中軍校尉、下軍校尉の蹇碩、袁紹、鮑鴻が主力であり、曹操などは、アベンジャーズに喩えるなら、クリント・バートン的ポジションに過ぎない事がわかると思います。
このメンバーの配下で今僕が把握しているのは、張楊と趙瑾の二人です。
張楊は「二公孫陶四張伝第八」に立伝された人物で、それによると、并州刺史丁原によって兵を率いて遣わされ、蹇碩に詣でたところ、司馬に任命された、という事の様です(この人物は、後の呂布とのエピソードや謀反人を許すエピソードで有名)。
趙瑾は、「孝霊帝紀第八」に上将軍別部司馬とある人物で、蹇碩率いる上軍の別部司馬であった様です。中平五年十一月に巴郡の板楯蛮が叛いた際の事として、「遣上軍別部司馬趙瑾討平之」と書かれています。
とはいえ、このヒーローチームなんですが、結成の翌年四月、霊帝の崩御、上軍校尉蹇碩の獄死によって解散したと考えられます。僅か9ヶ月のチームでした(閏月ないですよね?)。

さて、アベンジャーズに喩えるなら、ドナルド・ブレイク医師かスターク社長の立場にある下軍校尉鮑鴻ですが、この人は地味です。「董卓列伝第六十二」によると、辺章韓遂作乱の際に兵を率いた様ですが、そこ以外に殆ど名前が出てきません。趙融、馮芳、夏牟の三名も地味ですが、この人は主力メンバーなんですから、地味すぎると思います。第一元の官職も、屯騎校尉なのか屯騎都尉(竇何列伝第五十九)なのかわからない位に好い加減です。
尤もこの人は、霊帝崩御の前月、実は獄死しています。なのでその後の人生が無いので、記録が残らなかったんですね。しかしその獄死も、「獄に下って死す」とあるだけで理由がわからず、注に「謀りて渤海王協(献帝の事)を立てんと欲せしも発覚す」とある蹇碩とは差があります。

そんな彼の見せ場が実は趙瑾が活躍した中平五年十一月にあります。「孝霊帝紀第八」によると、

遣下軍校尉鮑鴻討葛陂黄巾
という事で、葛陂の黄巾賊討伐に遣わされ、これを討った様です。
さすがヒーローチームの主力メンバー。「二公孫陶四張伝第八」に「天下の豪傑を徴し、以って偏じ裨に為さしむ」と書かれているのは嘘ではなさそうです。
地味なおっさんも、ちゃんと活躍はしてたんですね。

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2008年02月19日

孫乾

さて、前回僕は劉備主従は嵐のパンテオン?の中で、

麋竺・孫乾の二名は、交易の神であるイサリーズと知識神ランカーマイを足して割った感じ。

と書きましたが、今回は孫乾(三国志平話では孫虔)についてメモ的に書いておきます(孫乾伝の全文掲載の方が短い気もしますが)。

麋竺、孫乾、簡雍の三人と言えば、劉備の参謀格として三国志演義ファンには御馴染みの人物ですが、史書では蜀書の内「許麋孫簡伊秦伝」内(と、「先主伝」に二回名が出る)にしか孫乾の名は無く、しかもそこで語られているのもほんの僅か、という人物です。上奏文などにも全く名が出ないという事で、早死にをした人物だと考えられています。「先主定益州(中略)頃之卒」とも書かれていますので、劉備が益州を奪ってからすぐに死んだのでしょう。
孫乾伝は三国志中最も短く、僅か126文字しか書かれていません。これは度々短いと話題になる黄忠伝の半分位の文字数なんです。

「孫乾字公祐、北海人也」と、初めに青州は北海の出身である事が語られ、続く「先主領徐州、辟為従事」の注に「鄭玄伝云」として、鄭玄に推挙されて徐州にいた頃の劉備配下になった事が語られています。従事になった、という訳ですね。
孫乾を語る上で最も大事なポイントは、「北海人」である事だと僕は考えています。

孫乾を推した鄭玄は、劉備の師である廬植の友人であり、北海郡の出身で、この時劉備のいる徐州にいました(当時の北海相の孔融は、劉備と交流があり、又鄭玄とも交流があったので、北海の名士達が劉備を支援していた説もある。この辺りの事情は、赤龍さんの記事「外交官 孫乾」に詳しい)。
鄭玄伝に、「会黄巾寇青部、乃避地徐州、徐州牧陶謙接以師友之礼(黄巾賊が青州にくると徐州に逃れ、陶謙に師友の礼で接された)」と書かれていますが、これに従ったのかも知れません。

ここから拡大解釈をして推測をすると、鄭玄の弟子筋であり、儒官であったのかも知れません。

この後孫乾は、袁紹への使者に立ったり、劉表談話したりし、劉備の益州平定後は秉忠将軍に任じられた様です。これが最終官職ですね。

却説、孫乾は三国志演義の名場面の一つ、関羽の1000マイルマーチでも登場し、重要な役を演じます。そこまでの流れをざっと見ても

二十四回→孫乾、使者として河北に往くが、袁紹が兵を動かそうとし無い為、それを劉備にしらせる。
二十五回→(関羽が曹操に降る)
二十六回→(関羽、黄巾残党の征伐に往く)黄巾残党に身を寄せていた孫乾、劉備の噂を関羽に伝える。(関羽その後劉備の居所を知る)
二十七回→(関羽六将を斬る)孫乾、劉備が袁紹の元を離れた事を関羽に伝える。
二十八回→孫乾、以後関羽に同行し、汝南を目指す。

と、同行までにも色々と活動をしている事がわかります。

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2009年07月18日

荊州八郡の内訳 (劉表時代)

前回のエントリーで講談社の本を紹介しましたが、その本がTVで紹介されたようです。
http://www.youtube.com/watch?v=GlcInAh2Lpk

で、その前回に慣れぬ予告なんぞをしてしまった為、更新が遅れてしまいました。
色々書きたい事は「実は」あったのですが、日誌の方に簡単に書いたり、他人の掲示板に書いてきたりしています。
「メークインとプチトマトがそっくりだ」とか、「刑事をデカと呼ぶ理由」とか紹介しようと思っていたのですが、次回は三国志の話をすると書いたので、仕方ないです。多分誰も気にしてなかったと思いますが、自分では一度言った事なので、こうせざるを得ませんでした(というか、もともとこのブログの趣旨から外れていますね)。

却説、今回の内容はタイトル通りなのですが、「袁紹劉表列伝第六十四下」によると、「‥‥‥北守襄陽、荊州八郡可伝檄而定‥‥‥」という風に、劉表時代の荊州は、八郡だった様です。
後漢時代の荊州といえば、郡国志によると「江夏、南陽、南郡、零陵、桂陽、長沙、武陵」の七郡という事になっていますので、奇異に感じますが、注を読むと、章陵という謎の郡が存在しています。
実際に引用してみましょう。

漢官儀曰、荊州管長沙、零陵、桂陽、南陽、江(陵)[夏]、武陵、南郡、章陵等是也。

この章陵というのが何時出来たのかは不明ですが、後漢書や三国志の他の記事から推察するに、後漢末に集中している様です。

後漢書地理志に「章陵故舂陵、世祖更名、有上唐郷」とあるので、もとは舂陵という県が、光武帝の時代に名を変えた県だった様です。どうやらその章陵県が、一時的に郡に昇格したものだと思います。

尚三国志演義では、荊州は九郡ある様です。
内訳は調べていません。

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2010年05月12日

三国志は最後どうなるのか?

「三国志物語のお尻は何所か?」という議論もあるでしょうが、某所でエントリータイトルの質問を見かけたので、私見を挟まずに、歴史的事実を簡潔に書いてみます。
色々な考え方があると思いますので、終わりと思われる部分をいくつか書いてみますね(本来はそれを云々と、自身の意見を強弁というか、牽強付会したいところですけど、殆んどの人は手っ取り早く知りたいと思うので、止めておきます)。
年号は二つも三つも書くのが面倒ですから、西暦で書きます。
抑々こういうエントリーは、三国志初心者向けですので、一部括弧書きで説明を付けておきます。

**************
219~223年 劉備、関羽、張飛、黄忠、馬超、曹操、夏侯惇、曹仁、張遼等といった主役級の人々が、この時期に次々と死にます。魏と蜀が出来るのも、諸葛亮が丞相になるのもこの期間です)

234年  8月 諸葛亮の死。

263年 11月 劉禅(劉備の子、幼名を阿斗)が、魏に降伏し、蜀が滅亡。

265年 12月 司馬炎(司馬懿の孫、司馬昭の長男)が曹奐(曹操の孫、魏の第5代皇帝)に禅譲を迫り、魏が滅ぶ。晋(西晋)の始まり。三国時代の終わり。

280年  3月 晋に降伏して呉滅亡。

304年  8月 劉淵が晋から独立。漢王を名乗る。
308年 10月 劉淵が皇帝を称す。
(五胡十六国時代の始まり)

316年 11月 長安(現在の西安。西晋の本拠地)が漢によって攻め滅ぼされ、西晋の滅亡。王族の一部は現在の南京に逃れ、東晋を建国。東晋は420年まで続く……。

**************

こんな感じでしょうか。
劉淵は姓が「劉」である事と、国号が「漢」である事から、三国志平話では劉備の子孫という事になってはいますし、実際蜀の後継と称した様ですが、実際は南匈奴の単于の末裔らしいです。
なので、「漢が再興して晋を打倒した」という展開ではありません。物語としては、其方の方が面白いとは思うのですが……。


GW中は、沢山のDVDを見たのですが、特にオススメはサマーウォーズです。二度も見て了いました。
桜庭ななみちゃんは事務所が甘力という事もあり、以前から注目していたのですが、なかなかに破壊力ありました。NHK ドラマ8 ふたつのスピカ同様、桜庭ななみちゃんファンにはオススメです。
無理に三国志の話をすると、「策士・諸葛亮孔明」の中村正さんが良い声していました。
貞本義行の絵って、今ではもう時代遅れなんじゃないかなあ~」なんて、考えていたのですが、全然そんな事ありませんでした。「18R」と書いて「ヘアピン」でした(「18Rの鷹」という伝説的作品は、今ではもう有名なのかなあ)。「待ってられない 未来があ」りました。

後は、築城せよ!という作品が、(後半まで退屈ですが)気になりました。
しかし愛知工業大学の構造だか力学だかの講義、レベル低いなあ><

「サマーウォーズ」と「築城せよ!」、どちらもヒロインの名前が「ナツキ」です。

予告編置いておきます。

記述者 strap : 04:43 | コメント (0)

2010年06月25日

牛輔牛輔牛歩、夏帆! ("うしのぶ"もいるよ)

夏休みはまだまだ先ですが、この季節になると小出早織も所属していたSnappeasのあー夏休みが聴きたくなります。

却説。
「午前零時の鐘の声、諸行無常の響きあり。如何に悪事を足せりとも、零を掛ければゼロなりき」……というのはSnappeasに所属していた夏帆の決め科白ですが、今回は「うしほ」こと、牛輔の紹介("うしすけ"と読むのは誤り)。

牛輔というのは誰なのか?
先ずはそこから疑問のある人もあると思います。

三国志平話

董卓問李儒「今四大寇離了西涼府、誰可把西涼府」
李儒言「有太師女婿牛信可去」
太師叫牛信将十万軍往西涼府鎮守去訖。

とワンシーンだけ名前を言われる"うしのぶ"のモデルが、牛輔です。

孝献帝紀第九によると、

(中平六年)(冬十月)白波賊寇河東、董卓遣其将牛輔撃之

とあるので、董卓の配下であった事がわかります(河東は地名)。白波賊が河東で暴れている時に、これを制圧する為に遣わされた将官だった様です。この事(と思われる事実)は、董卓列伝第六十二にもっと詳しく書いてあって、牛輔は中朗将であり、白波賊の討伐は失敗した様です。
初霊帝末、黄巾余党郭太等復起西河白波谷、転寇大原、遂破河東、百姓流転三輔。号為白波賊、衆十余万。卓遣中朗将牛輔撃之、不能却

(「霊帝末」と書いてあるので、若しかしたら中平六年已前の事件かも知れませんが、少なくとも中平六年には中朗将であったとみて良さそうです)
何故牛輔が中朗将であったのかと言うと、恐らくは董卓の娘婿であったからでしょう。矢張り董卓列伝第六十二に、
初董卓以牛輔子壻、素所親信、使以兵屯陝

とあり、大変信頼されていた事が伺えます(陝は地名)。
後に曹操に匿われている献帝に尽くし、劉備を使ってクーデターを起こそうとして失敗する董承という人がいるのですが、この人は三国志が注に引く献帝起居注で董卓の弟と甥に挟まれ列記してある為、董卓の親族である可能性があります。この董承は後に安集将軍になる際、

又以故牛輔部曲董承為安集将軍

と書かれており、牛輔麾下だった事がわかります。董卓の親族の可能性が高い董承(甥より前に書かれているので、傍系3親等已内と考えられる)がその部曲にいたというだけでも、大変な信頼のされ方です。

と、中平年間には既に中朗将であった牛輔ですが、その後も少焉くは中朗将のままであった事が、同じ董卓列伝第六十二の記述で解かります。
というのも、呂布と胡軫が孫堅に敗れたという記事の直後に、

中朗将牛輔屯安邑

とあるからです(安邑は地名)。
遉の牛輔といえど、一年や二年でポンポンと出世できる様に世の中出来てはいないのですね。

偖、董承だけではなく、後に天下を乱す李カクや郭汜も、牛輔の部下でした。皇甫嵩朱儁列伝第六十一には

董卓聞之、使其将李カク郭汜等数万人屯河南拒儁。儁逆撃、為カク汜所破

としか書かれていませんが、董卓列伝第六十二には、
輔分遣其将李カク郭汜張済、歩騎数万撃破河南尹朱儁於中牟

とあり、李カクや郭汜、張済等が牛輔の指揮下にあり、董卓が直接指示した訳ではない事がわかります(中牟は地名)。

そんな牛輔ですが、本人自身も戦上手であった事が伺えます。
三国志演義では呂布と並ぶ豪傑として設定される白袍の李粛も、史実では牛輔に敗れているのです。
(尚、三国志演義の李粛については南飛烏鵲楼さんが詳しい(そして素晴らしい)ので、下にアンカーを設けて、該当記事を紹介しておきます)
南飛烏鵲楼 李粛について

権勢を誇った董卓ですが、その傍若無人が災いし、初平三年四月、呂布と王允によって誅殺されて了います。そしてリーダーを失った董卓の軍閥は、急速に力を失っていきます(しかし後に、前述した李カクや郭汜、張済、そして樊稠の四人が権力を取り戻します。紹介した三国志平話の董卓の発言中、牛信の前に西涼府を守っていた「四大寇」というのが出てきますが、それがこの四人を指します)。
こうして官軍から一夜にして逆賊の身となった牛輔には、新官軍から李粛が差し向けられるのです。

呂布之使李粛以詔命至陝討輔等。輔等逆与粛戦、粛敗走弘農
(弘農は地名)

しかし李粛が敗走しましたので、今度は呂布が直々に牛輔が駐屯している陝に攻め入ってきます。
遉の豪傑牛輔も、呂布には敵わないとみた様で、怖気づいて了います。そして黄白等を腰に結び逃げ出そうとした様ですが、配下の者に斬られて了いました。

輔懼、乃齎金宝踰城走、左右利其貨、斬輔送首長安

ここでは左右は幕僚を指し、具体的には注で攴胡赤児(三国志演義での胡赤児)の名が書かれています。長安は現在の西安の事で、献帝(というよりも、呂布や王允)がいた地名です。

三国志が引く魏書によると、気弱で用心深い性格だった様で、軍用の割符を常に所持していた様です。又刑罰用の斧と斬首台を側に置くことで、自分を励ましていたとあります。

そして迷信深く、占いの結果を気にする乙女心も持っていました。中朗将の董越を匿った際、火沢睽の卦が出ました(兌下離上。「睽小事吉」から始まるが、卦象としてはあまり良くない)。

牛輔懼失守。不能自安、見客先使相者相之、知有反気与否。又筮知吉凶、然後乃見之。中郎将董越来就輔。輔使筮之、得兌下離上。筮者曰「火勝金、外謀内之卦也」即時殺越

「即時殺越」の四文字から、如何に占いを信じていたかがわかりますね。そして即決を出来るある種の決断力を持つ性質や、情に流されない英断の人であった事がわかります(無論現代の観点から鑑みれば、迷信を真に受ける愚か者であるが、信憑性があると信じられていた当時の時代背景を考慮する必要はある)。
献帝紀に仍ると、占い師は董越に嫌がらせを受けており、それでこの機会に復讐をしたのだそうです。
筮人常為越所鞭、故因此報之

あまり人に意地悪をしてはいけませんね。


長々と牛輔について書いてきましたが、上記を一行で纏めると、謂いたかった事は

牛輔と夏帆は、「ほ」で終わる二文字の名前なので似ている。

という事に他なりません。
畢竟するに、美保美穂(CV:夏樹リオ)だとかサリー・セイント・フォード(CV:岩男潤子)とかには、全然似ていません。
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記述者 strap : 04:29 | コメント (0) | トラックバック