三国志小説論
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2007年11月12日

司馬八達-司馬朗・司馬懿の弟達

司馬朗を筆頭とした司馬防の男子八名司馬八達は、言わずと知れた三国志物語の物語全体を通しての悪役であり、カタキ役である。

にも係わらず、今までクローズアップされているのは次男司馬懿のみであり、一般的には長男司馬朗、三男司馬孚が僅かに知られているに止まる。正史に立伝もされていない他の五名の名を知るのは、一部のマニアだけであろう。
僕も司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通という人達については、これまで名しか知らなかった。

さて、僕は作品の為のシナリオハンティングとして、司馬八達について調べる事になった。
以下の内容は、多くのマニアの方には常識的であるかも知れないが、今少しだけその姿が見えてきたのでここに記しておく。
この四名は魏に仕え、西晋には仕えなかった様である。八男司馬敏に関しては未だ調査中。
司馬家の先祖については又いづれ。
「(彭城穆王権伝より)」とあるのが出典である。

長男 司馬朗-伯達
 立伝部分:魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五 司馬朗伝

次男 司馬懿-仲達

三男 司馬孚-叔達
 立伝部分:列伝第七 宗室 安平獻王孚伝

四男 司馬馗-季達
 司馬権(彭城穆王)、司馬泰(高密文獻王)、司馬綏(范陽康王)の父
 魏の魯国の相、東武城侯(彭城穆王権伝より)

五男 司馬恂-顕達
 司馬遂(済南恵王)の父
 魏の鴻臚丞(済南恵王遂伝より)

六男 司馬進-恵達
 司馬遜(譙剛王)、司馬睦(高陽王)の父
 魏の中郎(譙剛王遜伝より)

七男 司馬通-雅達
 司馬陵(任城景王)の父
 魏の司隷従事、安城亭侯(任城景王陵伝より)

八男 司馬敏-幼達
 (現在調査中)

投稿者 strap : 22:24 | コメント (0)

2007年11月23日

司馬八達の先祖達

以前司馬八達-司馬朗・司馬懿の弟達という記事を書いたが、今回は司馬八達の先祖の概要である。
どこで重なるかは定かでは無いが、「魏書 和常楊杜趙裴伝第二十三」によると、「……司馬朗早有声名其族兄芝……」と、司馬芝は司馬朗の族兄であるというので、司馬芝の先祖も古くなれば同じであろうと思う。

さて、「帝紀第一(宜帝紀)」によれば、司馬卬がその先祖である様だ。この人物は、「楚漢間、司馬卬為趙将、与諸侯伐秦」とある様に、項羽の時代の人物である。元々は趙の将だったのだが、項羽に働きを認められ殷王に封じられている。その後は風見鶏の様に劉邦に付いたり項羽についたりと、その時強い者に尻尾を振って生き延びた様だ(「高祖本紀」、「陳丞相世家」)。

その司馬卬から八代下ったのが、征西将軍の司馬鈞。字叔平。この人は命令違反の部下を見殺しにして、この罪で監獄に入るが、獄中自殺でこの世を去ったという事だ。この下りは「孝安帝紀第五」ではただ「右扶風仲光、安定太守杜恢、京兆虎牙都尉耿溥与先零羌戦於丁奚城。光等大敗並沒。左馮翊司馬鈞下獄自殺」と簡単に書かれるのみだが、詳細は「西羌伝第七十七」にある。
「(元初二年)左馮翊の司馬鈞を遣わして征西将軍を行なわしめ、 右扶風仲光(等を)督さしめた(中略)。合して八千余人。(中略)釣等独進し、攻めて丁奚城を抜き、大いに克獲す。(中略)光等は鈞の節度に違い、兵を散じて深く入り、羌乃、伏を設けて要えて之を撃つ。鈞、城中に在って怒りて救わず。光等並びに没し、死者三千余人。鈞乃ち遁れて還り坐して徴されて自殺す」
又、従事中郎だった当時の負け戦が「鄧寇列伝第六」に一行だけ書かれている。
それらによると司馬鈞は、どうも羌という異民族と戦い続けた人物であるらしい。

その征西将軍の司馬鈞の子が豫章太守司馬量、字公度。司馬量の子が、潁川太守の司馬儁、字元異。司馬儁の子が、京兆尹司馬防、字建公である。そしてその司馬防の八人の子が、司馬八達となる。

さて、その司馬防であるが、実は相当に長生きである。「司馬彪序伝曰」として「魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五 司馬朗伝」の注に書かれた部分によると、建安二十四年に七十一で死んだとあるが、本当に建安二十四年に死んでいるとしたら、七十一で死んでいる筈が無いのである。それについては又後日改めて書く事にしたい。

投稿者 strap : 00:12 | コメント (0)

2007年12月11日

司馬防-後漢時代に現れたサンジェルマン伯爵

このエントリーは司馬八達の先祖達の続編であり、司馬八達-司馬朗・司馬懿の弟達で語った司馬八達の父である司馬防、字建公を紹介する。
三国志の敵役八名の父だけあって、その人物は奇怪である。

この人物は先に記述した様に、「魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五 司馬朗伝」の註によると、建安二十四年に七十一歳で死んだそうだ。建安二十五年の十月に禅譲が行なわれているから、後漢の本当に末に死んだ事とになる。建安二十四年は、西暦で言えば、219年である。
しかしこの七十一歳というのは明らかにおかしい。建安二十四年に七十一歳で死ぬ為には、149年生まれの筈だからである。

先日115年の司馬鈞の死亡を書く「西羌伝第七十七」を紹介したが、同じこの部分に、司馬防は登場している。

章和元年、復た諸種の歩騎七千人と与に金城の塞に入る。従事の司馬防を遣わして千余騎及び金城の兵を将いて木乗谷に会戦せしむ。

この記事は、司馬鈞の死亡を書く記事よりもずっと前に書かれている記事である。つまり、115年より前の記事なのだ。
では実際に章和元年が何年なのかというと、87年の事であり、章帝治世の頃である。司馬防が死んだとされる建安二十四年の132年前であり、この人物は150年近くは生きていたという計算になる。
信じられない話であるが、司馬防という男はとんでもなく長命であった様だ。

司馬防という人間は、悪役達の父に相応しく、常人では無いのかもしれない。

投稿者 strap : 22:02 | コメント (0)

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