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2008年02月19日

孫乾

さて、前回僕は劉備主従は嵐のパンテオン?の中で、

麋竺・孫乾の二名は、交易の神であるイサリーズと知識神ランカーマイを足して割った感じ。

と書きましたが、今回は孫乾についてメモ的に書いておきます(孫乾伝の全文掲載の方が短い気もしますが)。

麋竺、孫乾、簡雍の三人と言えば、劉備の参謀格として三国志演義ファンには御馴染みの人物ですが、史書では蜀書の内「許麋孫簡伊秦伝」内(と、「先主伝」に二回名が出る)にしか孫乾の名は無く、しかもそこで語られているのもほんの僅か、という人物です。上奏文などにも全く名が出ないという事で、早死にをした人物だと考えられています。「先主定益州(中略)頃之卒」とも書かれていますので、劉備が益州を奪ってからすぐに死んだのでしょう。
孫乾伝は三国志中最も短く、僅か126文字しか書かれていません。これは度々短いと話題になる黄忠伝の半分位の文字数なんです。

「孫乾字公祐、北海人也」と、初めに青州は北海の出身である事が語られ、続く「先主領徐州、辟為従事」の注に「鄭玄伝云」として、鄭玄に推挙されて徐州にいた頃の劉備配下になった事が語られています。従事になった、という訳ですね。
孫乾を語る上で最も大事なポイントは、「北海人」である事だと僕は考えています。

孫乾を推した鄭玄は、劉備の師である廬植の友人であり、北海郡の出身で、この時劉備のいる徐州にいました(当時の北海相の孔融は、劉備と交流があり、又鄭玄とも交流があったので、北海の名士達が劉備を支援していた説もある。この辺りの事情は、赤龍さんの記事「外交官 孫乾」に詳しい)。
鄭玄伝に、「会黄巾寇青部、乃避地徐州、徐州牧陶謙接以師友之礼(黄巾賊が青州にくると徐州に逃れ、陶謙に師友の礼で接された)」と書かれていますが、これに従ったのかも知れません。

ここから拡大解釈をして推測をすると、鄭玄の弟子筋であり、儒官であったのかも知れません。

この後孫乾は、袁紹への使者に立ったり、劉表談話したりし、劉備の益州平定後は秉忠将軍に任じられた様です。これが最終官職ですね。

却説、孫乾は三国志演義の名場面の一つ、関羽の1000マイルマーチでも登場し、重要な役を演じます。そこまでの流れをざっと見ても

二十四回→孫乾、使者として河北に往くが、袁紹が兵を動かそうとし無い為、それを劉備にしらせる。
二十五回→(関羽が曹操に降る)
二十六回→(関羽、黄巾残党の征伐に往く)黄巾残党に身を寄せていた孫乾、劉備の噂を関羽に伝える。(関羽その後劉備の居所を知る)
二十七回→(関羽六将を斬る)孫乾、劉備が袁紹の元を離れた事を関羽に伝える。
二十八回→孫乾、以後関羽に同行し、汝南を目指す。

と、同行までにも色々と活動をしている事がわかります。

投稿者 strap : 2008年02月19日 03:01

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