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2007年09月04日
後漢時代の兵学思想・兵学書
中国の兵書は、どうやら戦国時代に完成の域に達した様である。
その一つの証左として、宗の時代に纏められ教科書として刊行された「武経七書」は、「李衛公問対」を除き、戦国時代の書物のみである(偽書の疑いや後代の加筆疑惑もあるが、一応そういう事にしておく)。
であるから、後漢時代の兵学というのは、漢書の芸文志第十に書かれたものと同様と思っても好かろうと思う。
又、敦煌で発見された「敦煌残巻占雲気書」という実践的と考えられる唐時代の兵法書は、漢書に書かれた「兵陰陽」タイプの兵書が唐の時代には生きていた証であり、後漢の末や三国時代にも利用されていたという推測が出来るとの事だ。逆に途切れていたと考える方が不自然であろう。
さて、漢書芸文志第十では、兵書を「兵権謀」、「兵形勢」、「兵陰陽」、「兵技巧」の四種に分類している。
「兵権謀」は、孫子や呉子に代表される兵書で、事前の準備に主眼を置いた兵書である。このブランチの書物は、国政に力点を置き、情報を集め、綿密な計画を立て、なるべく戦いを避け、権謀によって勝ちを収めようとする傾向がある。現代の観点から言えば「戦略」を説いた書物と言えよう。
無論孫子には有名な、「軍は高きを好みて下きを憎む」や「高陵には向かうこと勿かれ」の様に、具体的な実地での運用について書かれた部分が無いでも無いが、同じく孫子には「百戦百勝は善の善なるものに非ず」とある様に、戦闘には消極的かつ否定的で、矢張り重要視されている部分は、事前準備や謀略であると言えるだろう。
「兵形成」というのは漢書によれば、「地の利を活かし、離合等、状態を変化させる事で素早く敵を制する術」であるらしい。「尉繚三十一篇」という記述もあるので、尉繚子がこれに分類される様だが、現行本が二十四篇である事や、諸子略雑家類にも「尉繚二十九篇」とあり、「尉繚子みたいな兵書」とは言えぬだろうし、そう言ったところで理解は出来ない。尉繚子には「得帯甲十万、(戦)車千乗」や、ファイブマンセル等、兵編成に関する記述もある訳であるし、現代で言うところの、「作戦や戦術」に関する兵書と理解して良いのでは無いかと、想像する。「兵権謀」に分類される書物が、実際の戦場での兵の(具体的な)運用について殆ど書いていない事からも、それで良かろうと思う。一般的なサラリーマンが兵書といって思い浮かぶのは、この手の書物なのではないだろうか?
「兵陰陽」というのは、日時、天体の方角、五行の原理、お呪い等、呪術的な性格の強い兵法である。雲の形で攻めるべきかを占う「敦煌残巻占雲気書」も、この部類に入る。馬王堆漢墓から出土した、「五星占」、「天文気性雑占」等が代表例らしい。
「兵技巧」というのは、どうやら「戦闘技術」に関する兵書である様だ。実際に上げられているタイトルを見ると、「逢門射法二篇」、「李将軍射法三篇」、「魏氏射法六篇」、「彊弩将軍王圍射法五卷」、「望遠連弩射法具十五篇」、「護軍射師王賀射書五篇」、「蒲苴子弋法四篇」、「剣道三十八篇」といった具合なので、射法等、武技に関する術を書いたものらしい。
さて、この中で特に尊重されたのは、「兵権謀」に属する兵書と、「兵陰陽」に属する兵書である。
「兵陰陽」が重要視されていた事は、現代に残る多くの兵書が、呪術的方法を非難している事でも知れるし、多くの史書でも当然の様に夢判断等が行なわれている事からも、窺い知れる。ただ、現在史料が少なく、「兵形成」、「兵技巧」同様、研究が行き届いていない分野でもある様だ。
兎に角、後漢末の兵法は、我々が考える程合理的なものでは無く、多分に迷信的方法が含まれていた事を気に止めるべきであろう。
今ひとつの「兵権謀」は、孫呉を読めばわかる様に、「兵は国の大事なり(孫子)」だとか、「国に和せずんば以って軍を出すべからず(呉子)」と、政治に関する問題から戦争を論じている。又孫子には、「古の所謂善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。故に善く戦う者の勝つや、智名無く勇功も無し(戦いに強い人は簡単に勝つ準備をしてから戦うので、戦術家だとか勇敢だったとかと言われる事は無い)」とある。
後漢末の兵法は、我々が考えるよりも、事前準備に力を入れていたものに違いないと思う。
後漢書や三国志から、細やかな戦術を知る事は難しいが、元々「兵権謀」、「兵陰陽」の二つの系統の兵書は、その様な事を重視してはいない(「兵権謀」は軽視はしていないが、矢張り重視しているとも言い難い。)。実際は「八門禁鎖陣」の様な、陣形を論じた書物というのは、当時重要視されていた形跡が無い。
三国志演義に書かれているのとは違い、意外にその様な事は稚拙であったのかも知れない。
投稿者 strap : 2007年09月04日 03:20