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2007年07月22日
廖化は二人いた?
(このエントリーは、「三国志の歴史的事実」では無く、「三国志雑談」のカテゴリーです)
三国志ファンと話をすると、
「呂布は二人いた」
とか、
「王朗は二人いた」
「張休は二人いた」
などといった話を聞く事は多い。
「関羽伝」にある建安24年の記述は、「撃破呂布軍」が衍字であると考えられているし、王朗と張休は同姓同名の別人である。
さて、こういった中で、最も「二人いた」という説を聞くのは廖化である。
しかしこの廖化は、三国志でも三国志演義を見ても、「二人いた」とする様な根拠はどこにも無い。
この「二人いた」は、三国志演義において廖化があまりにも長命である為に言われている訳であるが、同じく長命な赤莵は「赤莵は二頭いた」とは言われぬし、管寧伝には百五歳まで生きた人物の話もあるし、それ程の齟齬がある訳でもない。廖化は長生きだったと素直に解釈すれば良いのだ。
三国志演義とは違い、廖化の三国志での初登場は、関羽死後の事である。
「蜀書十五 鄧張宗楊伝第十五 宗預伝」に因ると、「為前将軍関羽主簿」と、元は関羽の主簿だった事が書かれており、一時は呉に下ったようであるが、「咸熙元年春、化、預倶内徙洛陽、道病卒」と、蜀の滅亡まで以後四十数年仕えていた事になる。年表にすると、以下の様になるだろう。
???年?月 襄陽郡?に産まれる。
219年十二月 関羽の主簿であったが、呉に捕らわれる。
221年夏? 呉を脱出し、シ帰で劉備の東征の軍に保護される。宜都太守になる。
223年二月以降 蒋エン、廖淳(廖化の本名)等数名の名を挙げ、茂才を辞退する。諸葛亮の参軍となる。
? ↑
右車将軍・假節・領并州刺史の位になり、中郷侯に封じられる?
? ↓
261年頃? 友人の宗預を訪ね、諸葛瞻への挨拶を提案するが、宗預の言葉で中止する。
262年十月 姜維の狄道侵攻を批判。
263年十一月 張翼、董ケツ等と剣閣に向かうが、鐘会に降伏。
264年春 洛陽に連行される道中で病没する。
さて、問題は生年である。
三国志演義によると、廖化は黄巾の乱に参加しているという事である。
黄巾の乱は中平元年(184年)に起った。この時10歳の計算だと、廖化は174年の生まれで、91歳で死んだ事になる。当時としてはかなり長生きな方であると謂えると思う。
さて、「蜀書 劉二牧伝第一」に、米賊の首領である張魯の母について、「少容有り」という記述がある。この「少容」というのは、年齢のわりに若く見える事を指す様であるが、これは米賊が限定的な「不老」(アンチエイジング-「遅老」若しくは「抗老」というべきか)の技術を保有していた事を指す貴重な記述であり、張魯の母がこれによって若さを保っていたという事である。
無論、実用化に至るまでには多くの実験がなされた筈であり、多くの実験体がいた筈である。
ここで、黄巾の乱の際、米賊が呼応したという事実を思い出して戴きたい。この時、一方から一方へ、技術の提供がなされたのではなかろうか?
結論を言うと、廖化は黄巾賊の不老化実験の実験体の内の一体であった。彼は黄巾賊に改造された、改造人間だったのである。
多くの実験体がもがき苦しみ死に逝く中、彼は奇跡的に生き延びたのである。この為に彼は長命であったし、季漢の滅亡までをその目にする事が出来た訳である。
黄巾賊は廖化に施した実験の予備実験として、ウェルナー症候群やプロジェリア症候群を人為的に作り出す実験も行なっており、多くの人々が殺された。多くの死の実験結果により、遅老体(抗老化体)である廖化は作られており、彼はその実験で死んでいった多くの人たちの為に、正義の為に戦ったのだ。
そして廖化は、サンジェルマン伯爵の正体でもある。
(このエントリーだけ読んだ人からは、僕は頭おかしいと思われるだろうなぁ)
投稿者 strap : 2007年07月22日 14:07
コメント
随分イッチャッテますな
投稿者 ストラッパー : 2007年09月26日 02:17
ストラッパーさんはじめまして、こんばんは。
投稿者 ストラップ : 2007年09月26日 20:08