« 「三国志小説論」のエントリー ベスト10 | メイン | 周倉のスペック »
2007年07月17日
中島敦の文体
文体模写とは抑々モノマネの一ジャンルであって、文章修練の為の勉強方という意味は非常に薄いと僕は考える。
実力派の歌手の歌マネがどんなに巧くても、歌唱力があるとは必ずしも言い切れないし、無い場合が殆どであろう。
それは文体模写も同じことで、上辺だけを真似は出来ても、その本質をコピーする事は、大変に難しい。
中島敦の文体はなどは正にそれで、文体は現代に生きる我々にとって特徴的過ぎる為、似せる事は簡単であるが、その美しさをまねる事は大変に難しい。
その難しさはどこから生まれるのか、という事を考えた時思い当たる事があったので、自身の為に記しておく。
中島敦の文体は、過ぎる位に美しい文体であるにも拘らず、美文では無い。
当然技術が無い訳では無いし、高度な技巧が施されている訳であるが、麗句を並べた華美な言葉ではないし、美しく飾り立てようとした言葉では無い。その美しさは、音のリズムと、字面(漢字の形の並び方)の美しさだけでは無く、そこに「表現しようとする力」が存在している事も重要なファクタァであろうと思う(無論それを裏打ちする、確かな教養も、大事な因子だ)。
喩えるならそれは、衣服や装身具、化粧、整形で飾り立てた美しさではなく、飾らない質素な、身だしなみを整えた程度の人の美しさである。本質的に美しいならば、後者の方が断然美しい。
美しい言葉、美しい韻。又は、美しい情景、美しい「人物の心情」。これらが文章を美しくする訳では無い。それで美しい文章になったとしても、それは上辺の美しさであり、中島敦が持つ様な、中から零れる美しさとは異質である、という気がする。
投稿者 strap : 2007年07月17日 16:28