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2006年12月23日
「狡猾な」イメージの人
三国志の「狡猾」というイメージの登場人物を挙げてみる。
諸葛亮
司馬懿
孫権
程昱
董卓
劉曄
他にもあるだろうが、ここは趣旨の為にこれだけにしておく。この六名、「狡賢い」というイメージを持つ代表的な六名と言って良いのでは無いだろうか?
実はこの六名には、一つの共通点がある。
それは、「皆次男である(らしい)」という事だ。特別「狡猾」というイメージは無いが、恐らく麋芳(三国志演義では糜芳)等も次男であったと推測される。
次男というのは、「狡く」成り易いものなのだろう。
無論、上は全称命題などではない。次男であっても、許チョや文聘の様にそうでないイメージの者もいるし、曹丕の様に、「狡猾」のイメージがあっても次男と言えない者もある(曹丕は恐らく三男)。比較的次男は狡猾に育ち易いイメージがあるというに過ぎない。
しかしやはり世間のイメージでも次男はズルいイメージの様である。ちびっ子には大人気のだんご三兄弟の歌詞でも、
弟想いの長男 (長男) 兄さん想いの三男 (三男) 自分が一番次男 (次男) だんご三兄弟♪とある位なのだ。この自分勝手だというイメージ、利己的なイメージも、「狡猾」なイメージの前段階的なものであるだろう。
事実か虚構かは一旦置くとして、世間にもこういうイメージがある事は否めない(当然の事ながら「男はつらいよ」の寅次郎の様な例外あり)。
次男というのは、先に失敗する例、又は成功する例を見て育っている為、事実そうなり易いのかも知れない。狡いとまでは言えぬとも、要領の良い人に育ち易いのだろう。これが「兄-弟」では無く、「姉-弟」の関係の場合ではまるで違う。姉が経験する事を弟が経験するというのは、兄の経験を弟が追うのに較べて量の問題で違い過ぎるからである。男女ではその考え方も、経験も異なって当然であろう。
僕は自作、三国志掌編小説「謀臣の資質」の中で、李儒を
俺は身分も低い士官の次男坊で、当然当時の俺も身分低い、半農の士官の一人だった。と書いた。これはこういう次男のイメージに因るものである。僕に李儒は、次男以外に考えられなかったのだ。
尚、フィクションの世界の住人であるが、「シャーロック・ホームズ」と「リチャード・ボライソー」も次男である(あ、三大陸にまたがる女性遍歴を持つ「ジョン・H・ワトスン」もかw)。
投稿者 strap : 2006年12月23日 01:09