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2006年11月08日

軍政家 棗祗

このサイトをサイドバーの検索器で検索すると、棗祗の語は12回検出できる。
これは陳宮や夏侯惇の30個程度やや50個に近い曹操と比べると少ない数字の様にも思えるが、張飛の11回や孫権の8回と比べれば、「頻繁」と言っても良い事がわかる。なんと、周倉諸葛恪よりも出現回数は多い(周倉は10回、諸葛恪は7回)。その位僕の書く作品では重要なバイプレイヤーなのだ。

さて、棗祗についてわかっている事は、実はそう多くは無い。何と言っても字も判らない。
棗祗について判っているのは、以下の通りである。

①曹操の元で農業政策を執行した人物。任峻伝に、「軍事・国事に必要な物資が豊富になったのは、棗祗が発議して任峻が実現した結果である」とある。
②本来の姓は棘であったが、先祖が難を避けた時に改姓した。
③注に引く「魏武故事」に、曹操が義兵を起こした時、共に従い各所の征討に従事したとあるから、190年頃参入したと思われる。
④袁紹は冀州に入った後(191年以後)、棗祗を欲したが、棗祗は曹操に従い東阿の県令を引き受けた。
⑤194年、曹操の留守に陳宮と張バクが謀反すると、兗州で呼応しないのは、ケン城、范、東阿のみであった。呂布がそれらを攻めると聞くと、官吏と人民は恐慌きたしたという。陳宮は自ら東阿に向かうが、程イクの騎兵に倉亭津の私を切られ失敗する。程イクが東阿に到着した時、棗祗は官吏と人民を統率し激励して城の防備を固めていたという。
⑥後に大軍の食糧が欠乏した時、棗祗の東阿から補った様である。
⑦曹操が許を平定すると、棗祗は韓浩と共に屯田制を献策している。この時、飢饉と干バツで軍無いの糧食が不足していた様である。任峻伝には、「羽林監の潁川の棗祗」と記されている。
⑧つまり潁川郡の出身である。
⑨屯田は、人民から募集して許の県下で行わせた。百万石の穀物を取り入れ、郡と国でいずれも田官を置き、数年のうちにいたる所で粟を備蓄した。袁紹の軍がこれの輸送を度々襲った。
⑩棗祗は屯田制の改正案を提出したが、曹操は迷い、荀イクと議論させた。棗祗の案は「分田の術」と表現されている。しかし荀イクは軍祭酒の侯声の言う従来の案(牛の数を基準とした様だ)とどちらが優れているか判断が出来なかった。それでも棗祗は信念を変えず、計算に基づき曹操に意見を述べた。曹操はこれに賛成し、棗祗を屯田都尉にとりたてた。この年は大豊作で、棗祗のその政策によって田地を増大させた。
⑪棗祗は早くに死んだ様である。郡の太守の官を追贈したが、尚その功績に相応しく無いと曹操は悔やむ。「もと陳留の太守」という記述があるが、追贈は陳留の太守か?又曹操は、侯にとりたてるのを当然と思いながら引きのばしている。棗祗の子、棗処中に爵位領地を与えて棗祗を祭らせ、不朽の事業を評価した様である。
⑫忠誠有能な天分をもつと、曹操は評価している。
⑬子は「処中」、その子は「拠」。「拠」の子が「腆」と「嵩」である。


簡単に書くと、

曹操の揺籃期を支えた有能な軍政家で、袁紹が欲する程の事務手腕を持っていた。
屯田制を成功させ、曹操の軍の糧食を確保したが、若くして死んだ。
という事だ。
つまり棗祗は、「有能」な「軍政家」である事はわかっていても、それ以上は殆どわからんという事である。僕が作品で重要視する所以が解かって戴けたと思う。

尚、肝心の屯田制に関しては、三国志博物館集解が詳しいので、こちらを参考にして戴きたい。

投稿者 strap : 2006年11月08日 15:51

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