« 新作執筆開始 | メイン | 「英雄と名将の立つ風景」の執筆 »
2006年06月15日
「山月記」感想
僕は先日、周倉木強人也と題したエントリーで中島敦の「五月五日自哂戯作」という五言律詩を紹介したが、今「山月記」を読みかえすと、「狷介」という言葉が気にかかった(中島自身の事を指す「木強嗤世事 狷介不交人」を下し読みするならば、「木強にして世事を嗤い、狷介にして人と交わらず」)。
「山月記」では
性、狷介、自ら恃む所すこぶる厚くと、李徴を説明している。今、この「狷介」という言葉に注目して見ると、物語の前半部分に、獣編の漢字が意外に多い事に気づく。穿った見方をすれば、
若くして名を虎榜に連ねや
鈍物として歯牙にもかけなかったといった一文の「虎」や「牙」でさえも、変身予告に感じてきてしまう。第一、「虢略」という李徴の故郷の名には「虎」の字が含まれているのだ。知らぬうちに暗示をかける効果でも狙ったものであろうか。
参考→「山月記」と「人虎伝」
僕は弟子(2)で「山月記」を中島敦の代表作三作の内に入れたが、これには多くの名文がある。
ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。という、倒置法を用いた文章は、その悲痛が叫びとして感じられる勢いある名文であるし、中島敦の文体模写と文体。中島作品の文章の巧妙で紹介した
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。は、暗記したい程に美しい。
しかし、中島作品は、こういう細部ばかりを見ていると、その文章の巧妙のもっと大きな部分を見落としかねない。
「山月記」は李景亮の「人虎伝」という怪異譚をモチーフとしている。つまり、非現実的な物語と言えるだろう。僕は科学の信奉者であり、怪異や奇跡、魔術といったオカルトは正直ある訳が無いと認識しているし、そういう話を軽蔑もしている。今日のtvを見ると、卜占や前世の事といった、胡散臭い事を語る人達が出演している番組が多数あるし、超能力捜査などが大手を振っている。それを本気で信じている人達をみると、噴飯の至りだとすら思う。
しかしそんな僕が、この怪異譚に対して「そんな莫迦な話がある訳無い」とは、全く思わなかったのだ。作品が物語である為とはいえ、これは自分でも不思議で仕様がない。それ位に自然に、事の奇異を感じなかった。作中
後で考えれば不思議であったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪しもうとはしなかった。とあるが、まさにその様な感じなのである。中島敦の手腕には唸るほかない。
ブログを回っていて見つけたのであるが、蒼い月の観察日記。さんの
とにかく、ありえない話なのに凄い現実味があるような感じが好きです。(何)という一文には大いに頷いた。
尚、「山月記」に対してはこう思ったが、同じ中島敦作品でも、「名人伝」は僕にはやりすぎの様に感じてしまう。
「牛人」や「悟浄出世」などは最初からそういうスタンスで書かれているので、割り切って読む分、最初から気にならぬのではあるが。山月記の初出に関してはこちら。
投稿者 strap : 2006年06月15日 01:57