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2006年05月23日
周倉木強人也
行年三十一 狂生迎誕辰
木強嗤世事 狷介不交人
種花窮措大 書蠹病痩身
不識天公意 何時免赤貧
というのは、中島敦が昭和十四年の誕生日に詠った「五月五日自哂戯作」というタイトルの五言律詩ですが、僕はこれで初めて「木強」という言葉を知りました。
まあ「木強嗤世事 狷介不交人」と山月記の李徴との関連は今回述べない事にして、今回は「木強」の語源についてメモ的に。
先ずこの言葉の語源は、「漢書卷四十二 張周趙任申屠伝第十二」の
賛曰(中略)周昌木強人也です。同じ漢書の「卷九十 酷吏伝第六十」には
軽斉木彊少文と、「尹斉の木彊にして文の少きを軽んず」とありますが、これはまぁ正確には「木彊」ですから、「木強」は周昌を指し表現した言葉とみて良いと思います。
西遊記と同時代の人物である顔師古の注に因ると「木強」とは、
其の強直(剛直)なること木石の如く然るを言う(言其強直如木石然)との事です。
さて、何故三国志を扱う本サイトでこの様な全く無関係と思える内容を扱うのかというと、「道法会元」という書には周昌の名が関平・関索と並び、「鄷都馘魔関元帥」の従属神としてみられると云うからだ。関元帥というのが関羽の事を指しているのは、もはや説明不要であろう。
三国志平話の注には、面白い事が書かれている。
周倉:(中略)関羽の脇侍としての周倉がどこから出たのかははっきりしない。この説明から察して解る様に、周倉のモデルは周昌であった可能性は高い。
関羽を神として扱ったのは、仏教のほうが早いが、現在の廟などのイメージはむしろ宋代に道教において、元帥神として形成されたものである。有名な道教儀礼書の一つである『道法会元』巻二百五十九には、そのような元帥神としての関羽が見えているが、ここにみえる周倉は「周昌将軍」となっている。これは冥界のことであり、漢初の人物で漢の高祖に仕えた周昌が関羽の部下になっていても実はそれほどの矛盾はない。ただ、単なる書き誤りの可能性もあり、周倉が本来周昌であったかは、とりあえず不明のままとしておく。
では、周倉のイメージも、「木強人」として良いのでは無いかと思う。
僕は自作「漆黒の躯」で、周倉を主人公として短編を書いた。
顔師古の「言其強直如木石然」という言葉を思い出しながら読んで欲しい。
(2006年5月28日の追記)
僕は投稿する際、エントリーを読み直したりする事が少ないのですが‥‥‥読み返してみればこのエントリーは特に酷いですね(汗)どこで一旦中断したかわかってしまいます。
一応、修正はせずに、そのまま残しておきます。
(2006年7月1日の追記)
「漆黒の躯」公開を中止。
投稿者 strap : 2006年05月23日 23:59