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2006年03月18日

夏侯惇,夏侯惇が左目を失った事件に関する事

三国志演義第十八回「賈文和料敵決勝 夏侯惇抜失啖睛」では、徐州に攻め込んだ夏侯惇曹性の箭に因って左目を失います。夏侯惇が已む無く退却する時を表した七言詩

啖睛猛将雖能戦 中箭先鋒難久持
は、非常に有名ですね。→<>参考

隻眼の将軍 夏侯惇(Xiahou_Dun,_the_One-Eyed)

現在僕は孫策詔呂範弈棋局図四十三子からに書きました様に、「夏侯惇出征」という作品を執筆中であり、シナリオハンティングの最中で気になったのでこれを取り上げてみました。
夏侯惇出征」のシナリオハンティングに関しては、夏侯惇出征スレッド参照。



先ず、この事件(夏侯惇の左目喪失事件)は魏書「諸夏侯曹伝第九」の夏侯惇伝には、

太祖自徐州還、従征呂布、為流矢所中、傷左目
と書かれており、後漢書「劉焉袁術呂布列伝第六十五」の李賢注においても「魏志曰く」として、
後従征呂布、為流矢傷左目
と書かれるのみです。
後漢書「劉焉袁術呂布列伝第六十五」で
建安三年、(布遂復従為術、遣順攻劉備於沛、破之)。曹操遣夏侯惇救備、為順所敗
の部分で注が付いている為、呂布配下の高順との戦いで失った様な印象を受けますが、そんな証拠は何処にもありません。恐らくこの時期では無いと考えます。と言いますのも、この建安三年の記述は「遣わされた」となっていますから、「従った」を狭義で捉えると、この時期では無いと思われるからです。僕の印象では、それよりももっと以前、呂布が張兄弟や陳宮とともに濮陽を抑えた時期では無いかというところです。
尚この部分、魏書「呂布臧洪伝第七」では、
建安三年、(布復叛為術、遣高順攻劉備於沛、破之)。太祖遣夏侯惇救備、為順所敗
となっています。

さて、三国志演義第十八回では、左目を射抜かれた夏侯惇は、刺さった箭を眼球ごと引き抜き、「父母の精血は棄て難い(原文:父精母血、不可棄也)」とか何とか言って、曹性をそのまま槍で突き殺します。
しかし史書には曹性の没年や死因は記されておらず、夏侯惇に殺されたという事実はありません。
まぁ尤も上記で見ました様に、左目を負傷させた人物すら曹性では無いのですが。

さて、夏侯惇、ついでに言うならホウ統や周瑜をも襲った「流矢」なのですが、「流失」と似ていますが全く別の意味です。似ているのは文字だけで、後は全く似ていません(「漢文って外国語なんだなぁ~」と改めて感じます)。
又、本邦ではフライヤー、逸れ矢の意味で用いますが、ここではそうでは無く、「後漢書 鄭孔荀列伝第六十」に

流矢は雨のごとく集まり、弋矛は内に接するも、融は几に隠りて書を読み、談笑すること自若たり
(流矢雨集、弋矛内接、融隠几読書、談笑自若)
とある様に、「流れる様に飛ぶ矢の一群」を指す言葉です。
つまり激しい猛射にあった訳で、無論これも鋭い一撃であった筈。正面から受けていれば、当然眼球のみならず、脳まで達したでしょう(目に刺さった瞬間に箭を掴み、勢いを殺したという推理は、漫画の読み過ぎです)。
側頭葉程度であれば助かる事もある様ですが、後に夏侯惇が高次脳機能障害に陥った様な記述も無く、脳には達しなかったと考えるのが妥当だと思います。
と、すれば、夏侯惇が左目を失ったシチュエーションは、常識的に考えて、以下の二つの内の何れかだと思います。
・右前方から射撃を受け、顔の中心から外に向かって傷を負った。
・左側面から攻撃を受け、兜を突き抜けてきた箭に左横から箭が刺さり、左眼球を傷付けた位置で止まった。
兜を被っていない状態で(顔を背けた、後方からの攻撃だった等の理由で)左後頭部側から射撃を受け、左後側から斜めに刺さった‥‥‥などはあまり現実味が無いと思います。

参考:wikipedia→Xiahou_Dun

夏侯惇小説 『元讓出征--「わが諸夏侯曹伝」の中--』
夏侯惇小説感想掲示板

投稿者 strap : 2006年03月18日 18:19

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