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2005年09月23日
三国志小説での自画像
画家を志していた友人に、カソリックの宗教画について聞いてみた。
カソリックの宗教画の内には、画家が背景としての群集の一人を自画像としたり、画の主題では無い聖人を自画像としたりする事があるのだそうだ。
絵画の世界で自画像は、人物をモデルにする時の一般的な題材ではあるが、それとは別に、自己をより深く表現する手段でもあると思う。そうでなければ、背景に自画像を書く事はしないだろう。
小説においても、「自画像」というカテゴリーに含まれる登場人物はいる。
プライド 中島敦作品の登場人物や、魯迅「故郷」を読んで頂ければわかると思う。
ぶっちゃけた話をすれば、
「小説の登場人物は全員、執筆者の性格を反映している」
と、言えるとは思う。作者が考えた事も無い事を登場人物に思わせる事は出来ないからだ。少なくとも、言わせる科白を、何故その人物が吐くのか、という事を理解していなければならないだろう。仮に考えた事も無い事を登場人物に言わせてもリアリティは薄い。
しかしそれは、厳密な意味での自画像では無い。何故そう考えたか、という事を理解出来るというだけで、それは自己では無いからだ。重なる部分があるに過ぎない。
とはいえ、完全な一致などある筈も無いから、ここでは作者が「意識して」己と重なる部分を多く設定した人物を、「自画像」と呼ぶ事にする。
作家が作中に自画像を書く時、多くの場合はカッコの良いものでは無い。無論、結果として部分的にカッコ良くなってしまう事はあるかも知れないが、作者の意図はそこでは無い。他人の共感を得る為の人物は、悩みを持つものだからだ。人は同じ様な悩みを持つ人、それでいてそれに負けるつもりの無い人に共感する。
僕の三国志小説にも、自画像ともいうべき人物が登場する。ぼくの作品での自己の投影をしている人物は、呂布ファミリーの陳宮だ。共感するという事は、呂布ファミリーについてで一度軽く書いている。
僕自身の「負け戦人生」はここでは書かないが、彼自身の生き方を見るに、僕の生き方に似ている気がした。それで小説では、僕に似た性格に設定をし、僕に似た環境を与えた。
僕の作品、「わが三国志(未発表)」の主役は、陳宮、関羽、張遼の三名であり、曹操軍を描く三部構成であるが、その本当の主役はやはり呂布ファミリー全体である。この作品では、呂布ファミリー中の重要人物である陳宮を自画像とする事で、ある程度のリアリティを付加出来たのでは無いかと考えている。
もし読みたい方がありましたら、大伴銃砲火薬店私書箱まで連絡下さい。
投稿者 strap : 2005年09月23日 22:37
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