2006年01月29日
複数の資料に当たるという事
先ずは実教出版のお詫びのページをご紹介する。
http://www.jikkyo.co.jp/profile/apology.html
この間違いの部分と同じグラフが、共通一次試験の問題として出題され、この教科書を盲信した受験生達が間違ったのだという。受験生達から苦情があったらしい。
僕が今回考えたのはこの事件の事だ。
無論、出版社や検定を通した関連機関各所にも問題が無いと言うつもりは無い。しかし真に問題なのは、
大学生になろうという学生が、一つの資料のみを用いるだけに留まり、他の資料に当たる手間を怠ったという事である。大学入学後、勉強する気があるとは到底思えない。研究者としての基本的な姿勢が出来ていない様に思う。
多くの文章は、人の書いたものであるから、当然間違いの可能性はある。学術資料として用いるならば当然の事ながら、複数の資料を見比べるべきで、一つの資料だけを根拠にする事は出来るだけ避けたい。これから大学生になるのであるから、この位の事は当然常識とすべきである。ならば試験用の勉強であっても、同様の手順を踏むべきであろう。無論間違いの可能性は教科書であっても同じ事で、「教科書だから信頼できる」という安易な考えは矢張り、怠慢としか謂えない。
誤りのある教科書の例を今一つ示そう。
僕の手元に今、旺文社の漢文の教科書がある。僕が発見した(この本の注にある)間違いを発表したい。
木牛流馬 - 牛馬の形をした木製の車「木牛流馬」はご存知の通り、謎の物資運搬車である。堂々と「牛馬の形をした木製の車」と言い切っている。
曹植 - 曹操の第三子。文帝の弟。(以下略)
任城王 - 曹彰。曹操の第二子。文帝の弟。(以下略)呆れる位下調べが杜撰である。この文脈では、文帝が「曹操の第一子」という事であろうか?曹操の長男は曹昂であり、又文帝と曹昂の間には恐らく曹シャクがいる。少なくとも文帝は、「曹操の第一子」では無い。
三顧の礼 - (前略)三国時代、蜀の劉備が諸葛孔明を軍師として招く時(以下略)諸葛亮が劉備配下になったのは三国時代では無いし、軍師中郎将になるのは赤壁での戦いの後であって、「軍師として招く時」は適切では無い。又、劉備は「劉備」と姓+名であるのに対し、諸葛亮が「諸葛孔明」と姓+字なのも、間違いでは無いが、教科書としては如何なものかと考える(項羽の様な例もあるし、「諸葛孔明」でも適切なのだろうか?)。
まぁこの様に、教科書であっても全面的に信用する事は危険である。
グロックという短銃に一度書いたが、三国志小説に限らず、小説を書く時にも下調べは必要である。
僕もものぐさで、一つの本で調べて済ます事が多いのであるが、それではやはりいかんなぁと、反省させられる事件であった。
2006年02月02日
「三国志小説論」というこのブログサイトについて
自分でも時々勘違いしてしまうのだが、このサイトは「三国志」のブログではなく、「三国志」の「小説化」を論じるサイトである。無論、「三国志小説」は歴史小説の一分野であるから、「歴史」を語る、つまり「三国志」を語る事には当然なるが、それは飽くまでシナリオハンティングの為であって、歴史研究や三国志研究の為ではない。
参考:
三国志の歴史的事実と、三国志小説
グロックという短銃
孫策詔呂範弈棋局図四十三子から
今日改めてそれを思ったのは、つばめ飛ぶ 餌を取りては 子のもとへというブログの歴史家と歴史小説作家の違い‐松浦玲氏の見解‐という記事を見たからだ。このサイトは、「歴史」と「歴史小説」について度々言及されるサイトである。僕とは反対の立場(歴史好きの立場)からこれを述べられるが、実に参考になる意見は多い。
やはり三国志について今後も書いていく事は多いと思うが、このブログは飽くまでも小説の執筆について論じるサイトである事を忘れない様にしたい。
2006年03月10日
本の紹介「戦術と指揮 命令の与え方・集団の動かし方」
松村劭氏の名著、「戦術と指揮―命令の与え方・集団の動かし方 バトル・シミュレーション」が文庫化された様です。尚、表紙は三国志のゲームで有名な、システムソフトの(三国志とは別な)ゲームの画面らしいです。
戦略・作戦・戦術で何度も述べる様に、三国志小説に戦闘は切っても切り離せません。三国志小説を書かれている方は、この機会に購入されてみては如何でしょうか?
我々ズブシロにもわかり易く解説してあって面白いですよ。
演習問題を解くのも、一問一問が楽しくて仕様がなくなると思います。
2006年03月13日
マフィのプロフィール
マフィ。
といっても、エディ・マーフィーの事では無い。石村萬盛堂のキャラクターである「マフィ」の事である。マフィはとっても可愛く、今大人気だ。電車の中に吊り下げられた可愛らしい広告を見た事のある人もいるだろう。
公式ホームページ:http://www.maffy.jp
マフィのプロフィールは以下のものだ。
生まれ:ゼラチン星・ソフト市、3月14日生まれ
現住所:HAKATAマシュマロの国
性別:ぼうや
年齢:ぼうや
血液型:コラーゲン
好きなもの:ソフトマシュマロ(特にチョコ味)
仕事:マシュマロ大使(やわらくておいしいソフトマシュマロを作って、マシュマロ大好き人口を増やすこと。でもつまみぐいはやめないとね)
尊敬する人:HAKATAマシュマロ社長
友達:マフィーズ
好きな言葉:やわらか。マシュマロ岩をも砕く
どうやら明日が誕生日の様である。吉良家討ち入りの発端となった、浅野内匠頭の命日と同じ日である。
さて、何故この様な事を書いたのかと言うと、ここは三国志の小説化を中心とした、小説を論じるサイトだからである。
小説を書く際もこの様に大まかなプロフィールを作る作業が必要だなと、改めて思ったからである。初心に返って執筆をしたい。
2006年03月22日
日本語の難しさを改めて考えた事について
今日考え事をしながら歩いていると、今が西暦何年で平成何年なのか思い出せない自分に気付きました。考え事に深く関わる事でしたので、直ぐに知りたく、道行く人に尋ねてみようか、なんて考えもしましたが、良い歳した大人が「タイムトリッパー」ごっこをやていると思われるのは恥ずかしかったので、これは辞めました。
さて、ここで「思い出せない」という言葉を使いましたが、普段同じ様な意味で使う「覚えてない」、「忘れた」、「思い出せない」は全て、全く別の言葉です。
「覚えてない」というのは、記憶がされなかった状態の事で、言わば書き込み不良。入力に問題がある訳ですね。
「忘れた」というのは、記憶はされたが、その記憶が壊れた、紛失した、という状況。記憶の保持に問題がある訳です。コンピュータに譬えれば、ハードディスクやフロッピーなどの記憶装置の破損だという事がいえるでしょう。
一方、「思い出せない」は記憶はあっても、それを引き出せない状態。つまり読み込み不良ですね。これは出力に問題がある訳です。
何気なく使っている言葉ですが、状態は似ていても全く違う意味なのだなぁと、今日はその考え事のついでに考えました。
アマチュアとはいえ、僕は小説を書く者です。言葉の使い方には気をつけようと改めて思いましたね。
ちなみに今年が何年なのかは、今年が冬季五輪の開催された年である事を思い出し、思い出す事無く計算によって求めました(汗)
冬季五輪はアメリカ大統領選の二年後
↓
アメリカ大統領選は4で割り切れる年
↓
2004年の二年後で、2008年の二年前
↓
現在は2006年
↓
平成元年は西暦1989年
↓
現在は平成18年
流石僕!賢い!
(というか、思い出せない時点で‥‥‥)
という訳で、改めて覚えなおしました(笑)
2006年04月06日
情報を与えるタイミング
夏侯惇が左目を失った事件に関する事等、色々なカテゴリーで書いたが、現在天草さんのサイトの三周年記念用に、「夏侯惇出征」という作品を執筆中である。
ネット上に作品を公開するのはこれを最後とするつもりで、力を入れて書きたいと思う。
先日、勢いだけで随分と書いたが、文章が支離滅裂の為、これは削除した。
しかしこれはそれだけが原因なのでは無く、読者に早い時期に情報を与えすぎていると感じたからでもある。
情報が少な過ぎる作品は、漠然としすぎていて面白くない。書き手の方が意図的であろうとなかろうと、あまりにも情報を隠している作品というのは、中弛みして面白みが少ないのだ。想像で補う部分が多すぎると、つまらない作品に感じてしまう事は多い。
その為、我々は早い段階で読み手に多くの情報を「与えてやりたい」という気持ちが働くが、これが曲者なのだ。これも又失敗をする。作者が意図的に隠している事柄へのヒントは、あまり書きすぎるべきではない。
料理は食べる直前に調理されたものが最も美味しい。
小説の中の情報も同じで、必要な時になって初めて(明確に)提示される方が良いのである。
今回僕は、読み手の知能のレベルが「低い」という前提で、初期に明確ではないにしろ、多くの情報を書いてしまっていた。しかし読者の中にはやはり「低く」は無い人も多いだろうと思う。読者の知的レベルは、「低い」とはやはり思わない方が良い。どちらかといえば、「高い」と設定すべきであろうと思う。
ここはヒントを減らし、その隠していた事柄を明らかにする際に、言葉を多くして解説すべきであろうと思った。
この「ヒント」、「解説」での情報量というものの匙加減も難しい。
何度が書き直して、バランスの良い点を探ってみようと思う。
2006年05月31日
擬似漢文調
僕の文章を「詰屈聱牙」と評する人があるが、この評価文それ自体が「詰屈聱牙(若しくは「佶屈聱牙」)」である(笑)
僕の文がその様であるという事は無い。
(環境に因っては、「詰屈ゴウ牙」の「ゴウ」の字が表示されぬか?)
「日本語を勘違いしている」という感想も、日本語を勘違いしている人のものであろう。
現在の最新作は→こちら
この様な感想・評価の元は、僕の作品がやまと言葉を用いず、三国志の重厚な雰囲気を作り出す為に、あえて漢語を使っている部分があるからだろう。
格調のポイントとなるのは、擬似漢文調である。漢文の読み下しの様な平坦な表現では物語として綴り難いし、格調を求めても文語体では現代文としての読み易さを損なう事もある。飽くまで贋の漢文読み下しでなければならない。
僕の作品、「わが三国志 第三部 張遼離憂(ネット未公開作品)」の中の次の一文は、原文となる漢籍があるので最もわかりやすいだろう(この部分は一度孫策詔呂範弈棋局図四十三子からというエントリーでも使いましたね)。
(前略)再び孫権が叛いた。(中略)この頃、太医の診療で、前将軍張遼の疾も小康を得る。この為張遼も、征東大将軍曹休と共に艦隊を率い、長江沿岸の海陵に出撃した。合肥での大敗北を想い、孫権は甚だこれを怖れて諸将に命じる。これは「魏書 張樂于張徐伝第十七」にある、
「張遼病むと雖、慎んでこれと当るべからざるなり」
と。
傷弓の鳥、古瘡未だ癒えずして、驚心未だ去らざるなり。弦音を聞いて飛ばんとし、古瘡が為に羽ばたく事適わず、徒地に隕ちるのみ。
張遼の来襲を知った海陵の水軍は全軍総崩れとなった。張遼、洞浦において呂範を破る。(中略)さすれど張遼の病篤く、竟に江都に薨去する。情の薄きで知られた魏文帝も、この為涕泫した。諡して剛侯と云う。家督は子の張虎が嗣いだ。
孫權復叛、帝遣遼乗舟、与曹休至海陵、臨江。権甚憚焉、敕諸将が元である。
「張遼雖病、不可當也、慎之」
是歳、遼与諸将破権呂範。遼病篤、遂薨于江都。帝為流涕、諡曰剛侯。子虎嗣。
又、独自のルールに書いたが、「わが三国志 第一部 陳宮離落(ネット未公開作品)」には、次ぎの様な科白がある。
「玄徳は布の弟なり。弟、諸君に困しめられる為、故に来たりてこれを救う。布、性として、争うを喜ばず。唯、闘いを解くを喜ぶのみ」これは「魏書 呂布臧洪伝第七」や「後漢書 卷七十五 劉焉袁術呂布列伝第六十五」に見られるものであるが、無論単純な読み下しでは無い。
と。
併し淮南の将は無論、納得をしない。そこで呂布は軍候に命じ、轅門から百五十歩離れた位置に一隻の戟を挙げさせ、一つ提案をした。
「諸君。布が戟の胡を射るを観よ。一発にして当らば、双方陣を解きて去られよ。当らずば両家の軍、留まりて闘いを決すべし」
白沢図の、
「藍田生玉と云うのは、真、虚偽に非ざるなり」と、彼の父に謂い讃された。も、本来は
謂瑾曰「藍田生玉、真不虚也」である。
見ていただいてわかる様に、そのままではあるが、当然、漢文の読み下しでは無い。
飽くまでも、それらしさがだいじなのであって、実際の読み下し文では作品として物足りないであろう。
擬似漢文調(漢文脈)にするのには、もう一つの利点がある。
それは文章がすっきりとするという事だ。音読した時のリズムも軽やかになる。
投稿者 strap : 16:03
2006年07月04日
風呂敷
世間では、
風呂敷はたたみ方よりも広げ方の方が重要という考えが多数派の様である。無論ここで言う「風呂敷」は、「物を包む事に用いる方形の布」という意味では無い。「風呂敷を広げる」の「大言壮語を吐く」という意味から派生した、「物語をどんどん発展させる。話を大きくする」という意味の使い方である。
つまり「広げ方」というのは物語の発展を指し、「畳み方」というのは物語の収拾を付ける作業である。謎が謎を呼ぶ展開から、謎が謎の儘終わる。そんな物語を持て囃す人は多い。
話を盛り上げる為には多少の矛盾にも目を瞑る。「行き当たりばったり」でも娯楽性が高ければok。そんな作品や作家が現代では支持されている。現代は、「娯楽性」にこそ作品の価値があるのだ。これは小説に限った事では無い。
僕自身の感想から言うと、こういう考え方はどうも好みでは無い。
確かに物語はダイナミックな展開をするし、スリリングにはなると思う。
しかし僕は、整合性を忘れてはならぬと思うし、最後には収拾すべきだと考える。
「娯楽性至上主義」を悪いとは思わぬし、むしろ娯楽性は追うべきだと思う。
しかし僕はそういった「(それに因る効果を狙った訳では無い)半端な終わり方」というのは好きになれ無いし、あまり面白いとも思わない。整合性の無い物語など、理屈っぽい僕には耐えられ無い。
人間が真面目過ぎるのだろうか。
投稿者 strap : 00:25
2006年07月13日
掌編の発表,失敗作の公表
先日、謀臣の資質の特別編として、実験的に短く書いた。舞台は建安二年の南陽宛城。
読み返して愕然とする。
恥ずかしい位に下手だ(汗)
久しぶりの屈辱的失態だった。
野球に喩えるなら、コールドゲームである。
惨敗だった。
何といっても、作品に修辞を施す余裕も無ければ、科白を言わせる余裕も無い。
得意の体言止も無いし、漢語を用いた表現も無い。
明らかな失敗作だ。
作り手自身に自信も無いし、この手の作品を巧く書く技術もノウハウも無い。
反省点は多いが、しかし故に実験作としては大いに実りがあったとも言える。
一応公表だけはしている。実に恥ずかしい。
慣れぬ作風は難しい。慣れぬジャンルも難しい。
己の技術を過信していたが、まだまだ未熟の域を出てはいないらしい。以後大きな事は言えぬと反省。
僕には多くの弱点がある事を知る。
この失敗を受け、更なるレベルアップを図りたい。
僕の作品を本当に読みたい方は、夏侯惇小説を読んで欲しい。これ一作読めば、僕の作風の75%程度は理解して戴けると思う。
感想掲示板はこちら。
尚今回の失敗作は、http://www.mojika.com/flog/archives/2006/04/post_102.htmlにひっそりと置く。
張繍と、その族父の妻の恋愛小説。謀臣の資質を補う事を目的としているが、官能的表現にも挑戦してみた。官能的表現で全くの失敗をする。
投稿者 strap : 02:33
2007年01月05日
フィクションとノンフィクションの区別のつかない人々
いるんですよね、ここで何回も書いていますが。
一年前の今頃、つばめ飛ぶ 餌を取りては 子のもとへさんでも取り上げて戴きました。
これに関連する様な内容が、三国志博物館 常設交換日記さんに書かれていました。
興味深い記事だったので、ここに紹介しておきます。
また、その著作が論争されている様ですが、別宮暖朗の著作も紹介しておきます。
(面倒なので、手抜きリンクです。携帯端末では見れません)
この様な著作が書かれなければならなかったという事こそが、小説と歴史の区別のつかない人の多さを表していると思います。
(2007/01/24追記)
元防衛研究所戦史部主任研究官であった菊田慎典氏の著作もここにあげておく。
投稿者 strap : 01:42
2007年08月15日
子供の頃、アトムや写楽が好きで、BJは苦手だった
今は全くの逆で、手塚作品の中ではブラックジャックやアドルフに告ぐの様な、現実により近い物語を好むようになった。自分なりに理由を考えてみた。
(以下、性差に関する記述をします。女権拡張論者には不快な内容かも知れませんが、女性蔑視、或いは女性尊重といった主旨で書かれた文章ではありません。ただ僕は、後天的な事のみで性差が生じると考える事をナンセンスであると考えてはいます。生物には本能があり、雌雄には体の構造としての差異が存在します)
本が好きだといういう女性の内には、ファンタジー(幻想小説)が好きだという女性も多いと思う。しかし男でファンタジーが好きだと言うものは少数派であろう。無論僕も好きではない。
しかし僕は本来、コナンやゾンガーといったファンタジー小説を夢中で読んだ子供であったし、友人達とはトールキンやフリッツ・ライバーの諸作品を論じる様な子供だった(今考えると邦訳の少ない作家ですね)。
そんな僕が、今では一切ファンタジーを題材にした作品(小説、映画、漫画等)に馴染めないのである。
それは、成長の過程で、「ファンタジー」という荒唐無稽な物語を受容れられなくなったのであろうと思う。
(尚、以下「ファンタジー」という用語を「明らかに現実離れしている作品」という意味で用います。この「明らかに」の部分を説明するのは難しいですが、とりあえずフィーリングで追いて来て下さい。僕の中では、スペースオペラはここで言うところのファンタジーの内であり、操縦系巨大ロボットなどは一応外としておきます。線引き曖昧ですが、よろしく御願いします)
経験的に考えて、多くの男性にも同じ事が言えるであろうから、「ファンタジー」を好むのは、基本的に女性と子供であると言っても良いだろう。
こう書くと、「女性は子供が好む様な幼稚な話が好きだ」という意味に取られるかもしれないが、僕はそうは思っていない。どちらかといえば男性の脳は、エンターテイメントを愉しむという機能で大きく劣っているかも知れない、という事を主張している。
又、子供とは違い、それを女性は「荒唐無稽」と確乎りと認識して鑑賞しているいる訳で、それは子供の楽しみ方とは別であると思う(子供だってわかっているんでしょうが、子供よりも確乎りと、という意味で)。
先程ファンタジーを「荒唐無稽」と書いたが、別に「荒唐無稽」なのはファンタジーに限らぬし、多くの物語は現実離れしている。現実を舞台にしている筈の推理小説も多くは荒唐無稽であり、冷静に考えればありえない話ばかりが描かれている。先にあげた手塚治虫氏の漫画ブラックジャックも、良く考えれば現実離れした物語である。
では何故、ファンタジーだけがダメなのか?
それは、ファンタジーの構造にあるのだと思う。
ファンタジー小説は、その「荒唐無稽」な部分の登場に比較的理屈を書かない。寧ろ書かない方が、すっきりとして、くどくなくて良いとさえ言える。しかし、現実と物語を別物として楽しめない脳には、それがいかにも子供っぽく感じてしまうのだ。
男性が好む作品は、奇異なものを描く時、その理屈を(嘘でも良いから)並べ、これから起る、或いは起った事柄の不思議を、読者に納得させようとする。男性は「物語と現実の間を架け渡す超自然的なもっともらしい理論」が入る事によって、やっと物語を愉しむ準備が出来るのであろう。これが無いと、「こんな話、ありえる訳が無い」などと、アホな事を思ってしまうのである。
そういう意味では、「物語」と「現実」を分けて考えられる多くの女性の脳の方が優れていると言えるのでは無いかな、と考えてしまう。男は基本的に、「物語」と「現実」をごっちゃに考えてしまい、物語に現実性が無いと判断すると、途端に覚めてしまうという、貧しい脳で生きている気がする。
女性と違い「現実的な考え方」を苦手とする男性は、成長の過程で理屈っぽくなり、論理的に感じられないものを軽視する脳の構造になる(真に論理的である必要は無く、そう感じられるもの、という意味です)。そうしなければ、「現実的な考え方」が身に付かないのであるから、仕様が無いのだと思う。しかし理屈っぽい思考への変化は、大人としての成長であると同時に、物語を愉しむ能力の退化であるのでは無いだろうか。勿体無い事でもある。
尚、「ごっちゃに考えてしまった上に、荒唐無稽だと判断できない脳が貧しく無いか?」という問題に関しては、角が立つので答え無い事にしておく(男女かかわらず、そういう人も少なからずいると思いますよね)。
2007年08月23日
事実は小説よりも奇なり
広く使われるタイトルの言葉は、イギリスの詩人、ジョージ・ゴードン・バイロンの言葉なのだそうだ。
実際三国志を読んでいると、「(連戦で手勢が少ない筈の)エン州牧曹操が、100万の青州黄巾賊を破った」等、記述を疑いたくなる様な事柄は多い。
これは本来、「現実では時として凄いドラマが起る」という意味の言葉であろうが、「小説ではドラマチックな演出をやり過ぎると、逆に陳腐になってしまう」という意味にも取れる。
そんな事を、2007年夏の甲子園決勝を見て思った。
試合のあまりにもドラマチックな、鳥肌を立たせる、土壇場での、大大大逆転についてはここでは書かぬが、しかしこの試合の八回は凄かった。絶望的な点差の中、走者が出て以降会場全体が、否、日本全体が、佐賀北を応援したその「ドラマを求め」た気持ちは矢張り良くわかる。大会史上初の決勝での逆転満塁本塁打(決勝戦での満塁本塁打は佐賀商以来、13年ぶり2度目なのだそうだ)を、古豪から普通の公立高校の学生が放つと言うのも物語性があるし、絶望的とも謂える点差を諦める事無くひっくり返したという事も劇的である。「ドラマを求め」られた事に対し、平成生まれの球児達はプレーで応えてくれたのだ。
しかしもしこれが、事実ではなく、フィクション、物語として見せられたのならば、我々は果たしてこんなにも感動したであろうか?
それが書籍ならば恐らく、壁か床に叩きつけたであろう。
あまりにも都合が良く、あまりにも劇的過ぎて、逆に陳腐ですらあると感じただろう。リアリティが無い。
まぁ、だからこそ、現実で見せられると、心高ぶらせられる訳であるが。
この試合を見て、フィクションというのは、「いきなりの大逆転」という、現実には起こりえる事でも書けない分野である事を再認識した。
大逆転を決めたいのならば、事前の伏線が重要なのであろう。
投稿者 strap : 16:39
2007年12月07日
捨てる部分
捨てるか残すか迷っている。
迷いを棄て、捨て去る為にここに書く。
プロローグ部分での廖化と左慈。八王の乱。
永遠の命を持つ男と、爛柯の故事の世界から帰ってきた神仙。
「折角隻脚の俺が刺客に……」
という言葉遊びから生まれた、シーン(「セッカク」「セッキャク」の俺が「セッカク」に……)。
しかしそれはもうこの時点でもカット。
「接客」、「石槨」という単語も考えたが、組み合わせが難しかった。
「仙客」はその名残だが、左慈が仙客を用いて中空を飛ぶ記述自体は三国志演義にも見れる。
言葉遊びは、「巣立つ・卯建(スダつ・ウダツ)」という様な尻文字でやるよりも、「迂闊・卯建(ウカツ・ウダツ)」の様なあたまの文字でやる方が、小気味いい気がする。
「真逆、俺をこんなに迄待たせる女がいたとはねぇ」
酷い曲毛の男は微笑し、青い単の美しい少女を見る。少女は右肩に仙客を乗せ、木靴を履き、藤の冠を被っている。
男の口調は親しみが込められて居り、久方の対面を懐かしむ気持ちが込められていたが、しかし少女は冷淡だった。
「元倹、懐旧は後だ。お主には急ぎ仕事を頼みたい」
元倹と呼ばれた男も、比類も見ない美男子である。一見すると軟派で軽薄な男に見えるが、しかし引き締まった肉体が、この男が戦士である事実を静かに主張していた。
「実に連れない態度だね。今日まで生き延びていた事を喜んで呉れるものだと考えていたんだが、寂しい事だ」
「無論喜んで居るし、百年を待たせたお主には悪いと思って居る。しかし今は時間が無いのだ。奴等の専横をこれ以上許す訳にはいかん。こちらも手勢は数名なれば、手を一刻も早く打たねば成らぬ。吾等が一日を遅れる毎に、敵の勢力は益々と堅固な物に成る」
少女は男を随分と待たせていたにも拘らず、時間が無い事を主張した。しかしそれは男とて、最初から解っていた事であった。
「皆まで言うな。俺も同じさ。俺だって、これ以上罪の無い人々が殺されるのは見たく無い。もう人が死ぬのは、真っ平だ! この世がもっとましに変わるなら、平和な世の中が訪れるなら、俺は何だってやるさ! 汚れ仕事でも、何でもな!」
静かに語り始めたにも拘らず、男は喋りながら抑えていた気持ちを溢れ出させる。
「司馬氏の支配を終わらせてやる! 打っ潰してやる!」
そう発した後に男は己の感情に気付いて了い、場都の悪そうな顔をした。そして照れ隠しに笑いながら少女に訊く。
「で? 俺は何をすれば良い?」
男の心の内などは気付かなかったかの様な表情で、それに少女は澄まして答えた。
「先ずはお主が武曲を率い、尚書の楊駿を急襲、殺害する。その後に儂が流説を広め、敵の混乱を招く」
男はただ頷く。
男は無意識の内に佩刀に手を置き、その柄を強く握り締めていた。
投稿者 strap : 22:04
2007年12月26日
擬音の漢字表記は難しいです
難しい。
豚の鳴き声「ぶーぶー」は「哼々」。
格闘中の「フンっ」と息を溜める音は「哼」
同じ字じゃん(汗)
2007年12月31日
僕が便利な言葉を使わない理由
そろそろ帰省ラッシュも落ち着いて来た頃だろう。
今日大きな荷物を持つ人々を見て、感じた事であるが、
「故郷に帰る」
と、
「実家に帰る」
は、同義である場合が少なくない事は、容易に予想できる。だがしかし、そう発した言葉を聞いた側には、大きなイメージの違いが生じる事になる。
これは、三軒先にあっても「実家に帰る」は使えるが、その場合「故郷に帰る」が使えないからであろう。又指し示す空間が広い為、「故郷に帰る」には何か特別な感情が篭もっている様でもある。そういう理由で、発した人の気持ちとは別に、受け取った方は「実家に帰る」の方を軽々しく受け取る傾向にある様に思う。
勿論「実家」と言うのを「生まれ育った家」と言う意味では無く、「両親(若しくは親、又は財産の主な相続者)が住んでいる家」と間違った意味で使う人も多い昨今であるから、その人の中での「実家」がその人の「故郷」に無い事もあるという事実が、僕の(又は多くの人の)感じるニュアンスに微妙に作用しているのかも知れない。
同じ事を指し示している筈が、そのニュアンスにおいて全く違う印象を(少なくとも僕に、恐らくは多くの人に)与える事は多々ある様に思う。
唐突ではあるが、日本語には「人間界」という言葉がある。大辞林には、「天上界などに対して、人間の住むこの世界。人界。」という意味の言葉であると書かれている。他の辞書を用いても同じ様な意味が書かれている事だろう。
これはある種の小説にとっては大変に便利な言葉で、この語一つを使う事に因って「人間界」以外の世界がある事を簡単に暗示する事が出来るし、又現世を現世側以外から指す時(天界側から下界を指す場合など)に重宝する。人間が使う言葉は当然の事ながら、人間が生きている空間で使用される事を前提にしているので、「現世」だとか「此岸」だとか、人間の生活空間の事は「こちら側」という呼称で本来済んでしまうのである。であるから、「こちら側」を「こちら側」以外から指し示す言葉の発明は、(ある種の)小説にとっては素晴らしい発明であるとも言える訳である。
この語を用いる事によって、その場でくどくどしく世界観を説明する手間が大きく省ける(後回しに出来る)というのが、大きな利点ではあるまいか。
さて、三国志小説であるが、この中にも多く「異界」にも属す人物が登場する。
少し例を挙げると、烏角、于吉、南華老仙(荘子)、夢梅居士、抱朴子等が主だったところであろう。
僕も作中、烏角を重要な役どころで用いているのであるが、ここで「人間界」に相当する言葉を言わせる必要があった。そこで神仙の世界が存在する事を説明するつもりも無かったし、僕にとってもこの言葉は非常に魅力的であった。是非に使いたいと思った訳である。
しかし僕は、「人間界」と書こうとした時酷い違和感があったので、結局別の語を用いる事とした。
「人間界」は本来仏教に由来する言葉で、仏教の世界観を背負った言葉であった筈だが、現在は便利な言葉であるが故に、気軽に用いられ過ぎているというのが現状である。作品の創り込みが甘い国内の商業小説 -トールキンの世界観(中つ国)を劣化した様な粗悪な模倣小説- で多用される事が決定的で、僕には安易な、重厚さを伴なわない用語に感じられて仕方なかったのだ。又こう書けば、後々「人間界」以外の世界の事をきちんと書かねば成らないようなきがしたので止めた。ドラマは飽くまでも人の世で動いている訳であって、人の世以外の事を説明するつもりは毛頭無かったのだ(ビックバンについては書いたけど)。
結局僕は「人間界」に変わる言葉として、「人間(じんかんorにんげん)」(若しくは「人の世」)の語を用いた(尤も、現在用いられている「人間界」はヒューマニズム的観点から現世を捉えた言葉 -「人間を中心としたこの世界」という程度の意味- であるのに対し、「人間」は人間社会の事を指す言葉なので、全く同じ意味だとは考えてはいないが、ほぼ同じものを指すものと考えている。結局人間社会が成立しない場所は、異界であるという考え方があるからだ)。
「人間」と「人間界」の二つは、僕の中でもほぼ同じものを指す言葉であるが、僕の中では全く印象が異なる。一方は神仙の言葉として相応しい重みを持ち、一方は世界観自体を軽々しくしてしまう様な、作品の根幹を腐らせる様な、作品にそぐわない言葉である。少なくない人々の中でもそうなのではないだろうか? どちらも日常で使う言葉では無いが、「人間」の方に普段使わない読み方が使われているという事が、僕には神仙の語として相応しく感じられたのかも知れない。
(先に述べた様に、本来「人間界」という言葉自体は軽い言葉では無いし、インスタントな使い方さえしなければ、そういうイメージを伴なわぬ事は充分承知してはいる)
こういった理由で「人間界」の語を避けたのである。
本来「自然界」という言葉は「人間界」と対に成る言葉であるが、これを代用品にしても良い気はする。
ここからは完全な余談であるが(今までも余談みたいなものでしたが)、三国志小説で使いにくい言葉に又「武将」という言葉がある。
勿論「武将」という言葉自体はおかしくないのであるが、世の中には(史実を題材にしたゲームの影響らしいが)「歴史上の人物(もしくは、歴史物の登場人物)」という意味で用いる人が思ったより多い為、「武将」を指す言葉は、「武将」以外の言葉を捜して当てる方がよりニュアンスが伝わり易いと思う。世間では「武将」という言葉の指す範囲が広くなっている為、「武将」と書いた時「武将」をイメージできない人が多くいる現実がこの語を使いづらくさせている様に思う。
(追記)
こう書いていると、「支那」という言葉を差別語にしようと躍起になってる人々の気持ちが何と無く理解できた気がした。無論「支那」というのは場所を指す語であって、本来そこに住まう人々への侮蔑の意味を含んではおらぬし、逆に尊敬の念をこめて書かれていた時代もある言葉である。
2008年01月12日
畳語
畳語と出会う度に、ノートに書きとめて数年になる。最近は殆ど増えないが、それでも結構な量になってきている。
順は見つけた順番であるし、整理されてはいないのだが、偶に眺めると面白い。
畳語は「多々」の様な音読みのものが殆どであるが、「人々」、「度々」、「益々」、「事々」、「色々」、「抑々」、「愈々」、「共々」、「山々」、「諸々」、「偶々」、「仄々」、「唯々」、「細々」、「所々」、「家々」、「道々」、「等々」の様な訓読みのもの(訓読みできるもの)もある。今思いついたが、「泣く泣く」や「生々しい」などもそうだろう。日常使う頻度で云えば、半々位かも知れない。尚「半々」は音読み。
ただ、「喧々諤々」や「唯々諾々」、「三々五々」の様な言葉は、訓読みには無い様に思う。
三国志小説を書いていると「曹操」という人物名を書く事が多いが、「早々」、「草々」、「蒼々」、「層々」と、「ソウソウ」という言葉で変換できる畳語は多い。僕のPCで標準的に変換できるだけで、「錚々」、「怱々」、「匆々」とこの位ある。
擬音の漢字表記は難しいですに「哼々」と書いたが、擬音は口の付く字に多い。
「叩々」や「嗚々」等が代表的な例であろうか。
投稿者 strap : 23:36
2008年01月25日
小説というジャンルが得意なシーン
映画やTVドラマ、漫画など、視覚に直接訴えるタイプの媒体で制作された一流の作品を見ていると、かっこいい画に感嘆を上げる事がしばしばあります。火花飛び散る剣劇やワイヤーで吊った様な跳躍、目標を追いかけるミサイルの軌跡、町を疾走するGTカー、巨大な物体の存在感。アクションシーンに限らず、魚雷の発射管を開くだけでも、そこには視覚に直接的であるが故のかっこよさを感じずにはいられません。
これ等の媒体と比較すると、小説と言うのは実にアクションシーンを苦手とする媒体である事を認識させられる。僕は以前、剣戟のリズムというエントリーで、得意なものを「剣戟、銃撃、逃走劇」と述べたし、それらを小説として巧く表現する自信はあるが、それとて映像作品と較べれば、アクションとしての爽快感や躍動感に大きく欠ける。誰が書いても、一流の映像作品を越えるアクションシーンは書けないであろう。
こう考えた時、小説が何を得意としているのか見えた気がした。
動を得意とする媒体は、静を不得手とするものらしい。
作品においてアクションシーンを生かすのは、下準備である。これは基本的にどの媒体でも同じ事であるが、アクションシーンを物語中で意味のあるシーンにする為には、理由付けが必要となり、理由を視聴者(若しくは読者)に説明せねばならない。派手なシーンでは無いが、アクションの必然性の為に描かざるをえないシーンである。物語はアクションシーンだけでは成り立たないのだ。
さて、動くものを表現する媒体では、こういうシーンを退屈に撮らない(若しくは描かない)事は大変に難しい。変化に富まないのだ。
例えば漫画で、二人の人物が居て、一方が一方に悪の組織について説明するシーンが有ったと、そう考えていただきたい。もしここで何の工夫をこらさなければ、ただの単調な会話のコマが進むだけの、実に単調な作品になってしまわないだろうか? 実際の漫画等を見ると、こういうシーンを単調に描かない為に、何らかの工夫がなされている事に気付く筈である。
一方小説を見ていると、こういう動きの無いシーンは実に多い。そしてそれが退屈どころか、逆に面白い作品さえあるのだ。
小説とはいえ、ただ長々と書いてしまっては流石に退屈になってしまうが、小説は実にこういうシーンを得意としている様に思う。
アクション小説を面白く書くコツの一つは、こういうシーンを利用して、後々の為の仕掛け(伏線)を用意しておく事では無いかと、そう気付いた。
追記;
無論人の心情だとか、そういう事は各媒体なりの表現方法がある。
映像作品では、同時に複数の人の思考を表現する事が(やろうと思えば)可能だが、先に述べた理由で冗長なやり方は好ましくない。小説では逆に、複数の人の心理を同時に表現する事には不得手であるが、その深度を好きなだけ掘り下げる事が可能である。
これは視聴者(若しくは読者)と、主人公との近さであろうと思う。小説は画が無い分、主人公に感情移入をしやすい媒体であるので、この様な得手不得手が出来るのだと思う。
何にせよ、一長一短と言うところであろう。
2008年02月05日
ホラー小説のリレーに参加しています
官能小説とホラー小説は似ている気がする。
「その豊満な胸を揉みしだき~」という行為を書いたり、局部の名をつらつらと書いただけでは全く官能小説としては機能しないし、いやらしくも何とも無い。
同じ様に、ホラー小説も事象だけを書いただけでは、ホラー小説足りえない。例えば「沼に人魂が立った」と書いても、それは「怪異」を書いたのみであって、恐怖感を読者に与える事は出来ない。直接的に出来事を書くだけではそれを表現する事は難しいのである。
却説、現在ブログ村の掲示板で又リレー小説に参加した訳であるが、はっきりと苦手分野だと認識した。しかも、他の二人が手馴れている分、僕の技術不足は弥が上にも際立つ。
これは本当に難しい。
「(文章の)流れである種の雰囲気を感じさせる」という事を、この機会に習得したいものである。
今は三人だけなので、参加してくださる方がいると、嬉しい。
2008年02月13日
ホラーの書ける男は特殊だ!
表題どおり。
自分が巧く書けないから言う訳ではないが、これには特殊な才能が要る様に思う。
ホラー小説のリレーに参加していますにも書いたが、怪奇現象を書けば怖い訳ではなく、どちらかといえば演出方法に力点があり、その演出が実に(僕から見れば)特殊なのだ。
子供の頃、アトムや写楽が好きで、BJは苦手だったの中で、男と女の脳の構造が違うから、好む作品に差異が出るのではないかと書いたが、これも同じ事に端を発するのではないかと思う。
僕の見たところ、我々男は怪奇現象や非科学的な事を(比較的)信じないし、心霊現象の話で怖いと思う気持ちも、女性に較べれば少ない。個人差はあると思うが、概ねそういう傾向にあると思う。
そんな怪奇現象を怖いと思わない生き物に、
ホラー小説が巧く書ける筈がない!のである。
努力の放棄はしない心算だが、然程怖いと思った事の無い僕が、人を怖がらせるツボを発見するのにはまだまだ時間が掛かりそうである。
さて、リレーのホラー小説であるが、ウソツキさんが綺麗にまとめて下さっている。
通しで読みたい方は是非こちらを読んで戴きたい。
2008年02月15日
作品を書こう!
最近はなるべく作品を書く(というか、公開する)様にしています。
リレー小説に参加しているのもそういう意味があるから、という訳です。
却説、何故この様な事を急に始める様になったかというと、あるサイトに触発(?)されたからです。
その有るサイトなのですが、音楽サイトなんです、実は。
動画サイトでその運営者の音楽を聴き、興味を持って見に行きました。
ある一人の若者(?)が運営しているのですが、そこで彼は凄く自画自賛してるんですね。
で、実際の曲はというと、笑っちゃう位に素人意見でも「下手」なんです。動画サイトでも可哀想に晒し者になってたんですね(汗) 屹度それなりに良い物は持ってるんでしょうけど、‥‥‥う~む。
まぁ、そういうサイトを見て、小説系のサイトを見ても、同じ様な(実力の伴なわない自己主張をした)ところは少なからずあるな~なんて事を思ったのですが、しかし良く良く考えてみれば、僕自身、あまり作品を公開してはいないんですよね。
こういうブログを書く以上、僕も作品を公開すべきだろうと、こう思った訳です。
そういう訳で、しばらくはリレー小説の一参加者として、作品を発表して行きたいと思います。
投稿者 strap : 00:00 | コメント (0) | トラックバック
2008年03月08日
厨房
僕の作品をいくつか読んでいる人はお気づきかもしれないが、僕は「建築環境工学」という学問を専攻した。
これは建築系の学問では花形の「計画系(設計)」や「構造系(強度の計算等)」と較べると地味だし、あまり需要は無いが、それでも一つの分野を形成している。
さてこう書くと、僕が計画系や構造系又は材料系などに弱い様な印象を受けるかも知れないが、僕は計画系には頗る強い。本当は都市計画に興味があったし、建築史にも興味があった。ただ単に、図面を引くのが嫌いで、それを主としないものを専攻したに過ぎない(計画系の教授達のガウディ賛美を嫌ったから、そちらに行かなかったというのも理由の一つではあるが)。
こういう経歴をもつ僕の目から見ると、作中で建築物の構造を理解しないままに書いている小説はプロアマ問わず多い様に思う。これは特に、建物を主な舞台として扱う推理小説に多い様に感じている。
無論、作中のトリックの関係でやむを得ず、というのは解かるし、そういう事であれば仕方が無いと思うのだが、しかし意味無く奇妙な構造をしている建築物が多いのはどうも下調べが杜撰な様に思えてしまう。建築基準法を遵守していなければならないとは全く思わないが、せめて文章化している建築物がどんな構造をしているかは想像して戴きたいものである。
一例として、厨房に関する間違いを列挙してみよう。
とりあえず、おかしな人が設計すれば実在もありえるので、断言は避けるが、本来断言してもいい程の常識である(消防法を良く理解していないが、もしかしたらそれによって定められているかも知れない)。
・外に面していない
上下水道管やガス管、換気管の配管長の都合上、厨房は外壁に面していた方が良い。ただ、それだけではなく、材料の搬入や生ゴミを捨てる為にも、外への扉の無い厨房は、機能的では無い。火を扱う箇所であるだけに、脱出し易く、又建築物の中央に位置し無い事が望ましい。
二階以上の高さにある場合は、上記の理由の為に、EVや階段の近所に作る事。
・食堂から遠すぎる
厨房はなるべく食堂に隣接していた方が良い。隣接できない場合も、なるべく近くに設ける事。当然同じ階にある事が望ましい。又、厨房-食堂間を結ぶ最短距離の導線に、トイレへの入り口を儲けない事。
・厨房の構造を右利き用にする
特別の理由が無い限り、厨房の構造は右利き用にする。例えば、コンロが左ならば、洗い場は右(フライパンを左手で持ち、箸やフラ返しを右手に持つ為)。
今まで気付いたところではこんなものだろうか。
当たり前の事ばかりを書いているが、小説を読むとこの程度のルールが意外に守られてはいない。
「建築物」の専門家を自称する推理小説の作家(僕の知るだけで二名)ですら、お粗末な知識でそう名乗っている。
お手元に見取り図(建物の略平面図)のついた推理小説が何冊かある方は、確認して欲しい。良く解かると思う。
投稿者 strap : 00:48 | コメント (0) | トラックバック
2008年06月16日
経験からの類推と描写力
幸いにして僕には大怪我をした経験がないのですが、作中はアクションシーンを書く関係上、登場人物には大怪我を負ってもらいます。
さて、その事について考えていたのですが、人間経験の無い事を描写するのは苦手だなぁという事です。描写というよりも想像、でしょうか。
例えば自分の生爪を一つ剥がれる所を創造してみましょう。これはそれの痛みを類推できるので、想像しただけで、顔を苦痛に歪めてしまいます。考えただけで、本当に痛いです。
では、片腕が切り落とされる所はどうでしょう?
これがさっぱり痛くないんですね。
腕を落されて痛いと感じれるかどうか、という事はさて措いて、意識がはっきりしている状態で腕が斬られた場合、相当に痛い事は理解できます。大量の失血の為に寒くなるかも知れません。それはわかります。しかし、その痛みや苦しみが、全く現実味が無いんですよね。
これは、腕を落される事に類推できる様な怪我を負っていない事が原因だと思います。
想像にこれ程の差があるのならば、僕は腕を落される痛みよりも屹度、生爪を剥がれる痛みの方を巧く描写できるのでしょうね(事実やってみて、そうだったと自己判断した)。
この様に、経験というのは描写力の為の材料としても、大事な事なんだと理解しました。
かといって、大怪我の痛さを巧く描写する為に怪我を経験したいとは思いませんが。

