2006年07月25日

直喩多用で「桃園結義」、触りだけ書いてみました(汗)

ネット上で評価の高い小説には一つの傾向がある様に思う。
それは、直喩(と活喩)に因る形容を多用した文章であるという事である。
この様な作品は、驚く程評価が高い。

しかし僕はその様な評価には懐疑的である。
僕のセンスが狂っているのであろうか?
「様な」や「まるで~かの様に」、「~の如き」、「~に似た」という文字ばかりが並ぶのは、僕には読みづらく、はっきり言って辛い。
僕にはくどく感じてしまう。

本論は、文体研究の一参考として記す。
彼らの文体を模写し、表題どおり「桃園結義」をイメージして少し書いてみた。
如何であろう?良く見かけるタイプの誉められている文章であると思う。

勘違いされぬ様に書いておくが、僕は以下の文、全く良いとは思っていない。悪文とまでは言わぬが、上記の理由でくどく感じている。やり過ぎ注意、というところであろう。

 春のそよ風は、赤子を抱く母親の様な暖かみで、ふわりと三人を包む。その風は、その渡る蒼穹の突き抜ける様な色と同じく、大空を翔る開放感があり、爽やかさが心地好い。
 暖かな風は同時に桃の木々から花を散らせ、それらを幻想的なまでに美しく舞わせる。
 数え切れない程の多くの花弁は、それぞれが乙女の様な、しかし母の慈愛を思わせる様な、複雑なるも矢張り女性的である高貴な香りを微かに放ち、そして全体として空間を包み込み、人の鼻孔をやんわりと擽る。その匂い立つ、甘く穏やかな香りは、胎児であった時を思い起こさせる程に心地好く、母の温もりの様な安心感を与えてくれていた。
 地は、その本来の色を隠蔽する様に、薄く淡い桃の色で染められていく。徐々に、徐々に。静寂の中森々と、静かに、静かに降り注がれ、重なりあっていく。
 当然の事ながら、風に優しく吹かれた桃の木々達からは、これ以上は無いという程にゆっくりと、幻想の様な美しさを見せ付ける様に、花弁が三人にも降り注がれる。それはまるで、舞いを踏む少女の初々しい色気の様で、無骨な三人をも又美しく際立たせていた。それは、今日の三人の、命より大事な約束を祝福するかの様にも感じられる。
 桃の花は静かに落ちた時、し過ぎない程度にその存在を主張しながら、しかしその実、確実に地の色を鮮やかに変えている。それはまるで、女の優しさが我侭な男をそっと包み込む様なもので、おだやかな変化であり、そして強い変化でもあった。華美であり過ぎぬ程度に可憐で、目に障らぬ程度に揺り落ち乱れる。
 注がれた酒の上にそっと揺れる花弁を見て劉備は、まるで湖面に浮かぶ小舟だなと思う。ゆらゆらと杯上を泳ぐ小さな桃色の舟は、小さいが故に可愛らしく美しい。
 その小舟を見ながら、明哲なる劉備は思う。
 花は散る時が最も美しい。ならば我々も、散る時は美しくありたい。そしてその命の残照が放つ最後の美しき輝きは、三人で同時に放ちたい。三人同時に放ち、天下を明々と照らす程に煌めきたいと、強くそう願う。「同年同月同日に産まれる事は叶わなかったが、三人で力を合わせれば、必ずや一つの事を成し遂げる事が出来る筈だ」という、強くも勇ましい、冒険心に溢れた青年特有の快活な将来への希望が、劉備の胸には大海の海水の様に悠々と漲っている。しかもその海水は、驚く程に澄んでいて、目も瞑れんばかりに耀かしいのである。
 桃の香りに混じって辺りを漂う、酒と肉の旨そうな匂いにもう待ちきれぬという様子で
「哥兄、そろそろ」
 と虎鬚の勇ましい末弟張飛が言うと、
「これ、飛。はしたないぞ」
 と、美しい鬚を持つ雄偉な次兄関羽が嗜める。張飛には矢張り、花の下より鼻の下だなと、劉備は海の様な優しさで微笑んだ。関羽の生真面目も、この上なく好ましい。

僕はこういった飾り立てた文章、正直好みでは無い。厭だ、厭だ。
というよりも、生理的に受け付けない。読む分には構わぬが、己で書くとなると、矢張り若干の抵抗があった。
あ、文章の意味、全く解かって書いてません。勢いだけです。適当に、然程考えず、雰囲気だけで書いたので。
だがしかし、これが世間的には評価されている文体ではなかろうか?
普段の僕の飾り気の無い文体と、華美な僕のこの文体。どちらが良いだろう。

僕は自作の夏侯惇小説の様な実直な文体が好みである。こういった技巧ばかりに走った文章は、本当に好きにはなれない。技術に溺れているというよりも、技巧を追うあまり、本質をあやふやにしている、という作品は多いのではないだろうか。
又修辞の方法も、直喩や活喩など、比喩表現ばかりでは無かろうと思う。
皆さんは如何お考えであろうか?

(06/07/26 追記)
勘違いされぬ様に補足しておく。
最近似た様な言葉で、直喩を比較的多く用いる作品評価した事があった。 →参考
多用と言っても、嫌味にならぬ程度、「比較的」と付く程度であれば無論良いし、過ぎなければ表現がわかりやすい、優れた作品となる。
つまり本稿は、アーノルド坊や氏のカク昭について述べたものでは無い。氏の作品は優れていると僕は評価するし、今後も互いに切磋琢磨していきたい。無論、賢明なる方にはお解かりだと思うが、本稿は一般的な(多くの)この手の作品について述べたものであり、他の特定の作品を想定してもおらぬ。

(08/02/14)
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記述者 strap : 02:37 | コメント (11)

2008年08月14日

段落

一年ほど前から、三国志の登場人物の女性化について書こうと計画していたが、もうどうでも良くなってしまった。態々と論じる程の内容では最早無いし、結論を言えば、「これを発明した伏見健二は凄い。作品はつまらなかったけど」でしかないからだ(伏見健二氏と言えば、「森の妖精は肉を食わないから、大豆を栽培している」とかそんな発言も有ったような……)。


却説、先日知人が遊びに来た時、文章が巧くなりたいと、相談を受けた。僕自身、全く巧い訳では無いが、どうやら彼よりは大分増しらしい。それで彼の助けになるならばと、作品を拝見させてもらう事にした(編集作業用の横書きの形)。

彼の文章は確かに悪文のオンパレードで、一文中に何度も「は」の出る文や、慣用句の間違い、気まぐれで打ったとしか思えぬ読点、何を指すのか解からない語などなどというありさまだったが、何と無く別の違和感も感じた。
見た瞬間には気付けなかったが、二人で一つ一つ手直しをしていてすぐに気付く。彼には致命的な欠点がある事に。

当たり前の事ではあるが、文章は、幾つかの段落に仍って構成されている。
その段落は、幾つかの句点で終わる文に仍って構成されている。
その文も、文節の集まりであり、文節は単語の集合体であるが、そういった言語単位の話はどうでも良いだろう。
僕が言いたいのは、通常文章には「段落」があり、「段落」は「文」が集合して成り立っているという事だ。

しかし、彼の文章はそうではなかった。段落の概念がないのだ。

勿論、実際には段落は存在するのだが、それは段落の概念からは離れている。
段落が常に(そう、常に)一文のみで構成されているのだ。
そして、意味段落の代用として空行がある。

それは、今僕が書いている、この文章(ネット上で発表する事を前提にした文章――つまり、ブラウザー上で見た時に読みやすい形)にと同じ形だ。
彼はもうそれが癖になってしまっているのだろう。
悪文などよりも、性質の悪い癖だと思う。

聞いて見ると、彼の文芸仲間も、同じ癖を持っているという。
ネット上での形式が、強く影響を与えた結果なのであろう。
同じ癖を持つ人は、案外に多いのかも知れない。

記述者 strap : 02:21 | コメント (0)

2009年12月21日

重言

古くから「馬から落馬」の様な、重言は戒められています(重言の語源自体が、「馬から落馬」によるものの様です)。
僕も気をつけてはいるのですが、ついつい

車を駐車する
眼下に見下ろす

なんてやってしまいたくなります。
プロの書いた文章でも

味方の僚機
過半数を超える
不快感を感じた

なんて文章を見た事がありますね。

世間で見られる重複表現の中には、「星の降る夜」や「元旦の朝」の様に故意に狙った技術的なものもあるとは思いますが(永六輔の「見上げてごらん夜の星を」も、特殊な状況下でなければ見上げぬ限り星は見えませんし、又夜にしか星は通常見えませんから、人によっては重言と見るのではないでしょうか?)、然うでなければ、なるべくなくしたい物です。
気にしすぎて、文章を崩す事は恐いのですけどね。

却説、とはいえ僕はそういう重言に対してわりと肝要なのですが、最近どうしても許せない重言を発見してしまいました。
それが

インチキ霊媒師

です。

インチキじゃない霊媒師がいるかよ、呆け!

という感じですね。
同様に、インチキじゃない占い師も存在しませんし、インチキじゃない超能力者もいません。
この様な重言こそが、霊媒師なるものの存在を認め、犯罪を助長する事にも繋がるのだと思います。

偖。昔読んだ漫画に、「女のおばさん」という重言を書いているギャグがありましたが、昨今では「男のおばさん」もいるようです。
注意したいですね。

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ゲッサンで連載中の水滸伝ですが、青慈にも何か秘密がある様ですね。

記述者 strap : 06:36 | コメント (0) | トラックバック