2005年05月06日

白沢図-前書き

pc版「白沢図」には、前書きがないので、ここで付ける。

尚、携帯端末版はこちら

はじめに「自作解説」

さて、「三国図書館」の記念すべき第一回は、私が担当させて戴きました。以後に続く方々に先駆けての発表をお許し下さった天草さんに、お礼を申し上げたいと思います。
さて、この作品は、私が書いた初めての怪異譚です。今回ホームページで閲覧される事を考慮して、短かめにまとめてみました。又その為に、プロットにひねりを加える事を断念致しましたので、有名人物が登場しながらも、三国志の中でもあまり知られていない(しかし一部では非常に有名な)エピソードを選択しています。
尚、この大本となった逸話は、晋の時代に干宝という人によって編集された、「捜神記」の巻十二に納められています。この本は、裴松之の注釈にもしばしば引用される書物で、三国志の登場人物が遭遇した事件を、多数取り上げています。竹田晃という人の訳で、平凡社から出ていますので、機会があれば是非、一読してみて下さいね。
又、作中の「私」は、三国志呉書の登場人物です。捜してみて下さい(索引で、諸葛建から探せば楽やも知れません)。
主人公の諸葛恪ですが、作品は別人の目から見た一人称で書いていますので、本来ならば彼の名は、「諸葛元遜」と、字で呼ぶべきかもしれません。しかし混乱を回避する為に作中では、「恪」としています。何卒ご了解下さい。

さて、作中の「私(字は伯先)」が誰なのか、三国志ファンならば、当然わかりますよね?

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2005年05月08日

呉書シリーズ 故国

他の事をする為、しばらく書かない事にしました。
手元に資料が薄い事が原因です。

まだ数行しか書いてませんでした。

一 その曇天とは対照的に、その顔は実に晴れやかであった。

私は、あの人があの様に嬉しそうな顔をしようとは、夢にも思わなかったので、大層意外だった事を記憶している。

私もあの人の帰郷を寂しく思いながらも、本当に悦ばしく思った。
しかしあの空の、何と暗示的であった事だろう。


私の師とも言うべき人物、于将軍は、名を禁といい、泰山郡鉅平県の人である。
于将軍は中平元年甲子の年、黄巾の乱が起きると、鮑信の呼びかけに応じて従い、王朗という将軍を良く輔佐した。この後、兗州が青州黄巾賊の侵入を許すと、陳宮に伴い寿張を監督していた棗祗に見出され、曹公の軍の中核となった。この後于将軍は、一軍を率いて中原中を転戦し、二張楽徐の四将に劣らぬ戦功をあげる。建安の初め、温候が徐州を制圧すると、真っ先にこれに当たり、強靭な敵軍に対し良く善戦した。当時の温候の軍を見れば、成廉、魏越を筆頭に、高順、侯成、宋憲、魏続、張遼、陳宮と、錚錚たる顔触れであったし、陳紀の孫、羣の軍規が精兵で知られた集団を形成していた。善戦が如何に難事であったかは、想像に難くない。

こんな感じでした。

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2005年06月04日

シナリオハンティング(1)

物語を作る時には、二つの作法が有る様に思う。
それは、

キャラクター優先
物語優先
かという事である。無論両方を面白くする事は重要だが
、「こんな人物を書きたい(この人を書きたい)」
と思って書き始めるか、
「こんな事件を書きたい(この出来事を書きたい)」
と考えて創作意欲が湧くか、という事である。
皆さんはどちらを創作の切っ掛けとされる事が多いだろうか?

僕の作品、呉書シリーズの二編(白沢図濃醪
)は、そういう意味で、全く違うアプローチで書かれています。

白沢図
この作品は、

三国志の主要なな登場人物が関わった事件の内、一般的には有名でありながら、三国志ファンにはあまり知られていない話
を書こうと思い、シナリオハンティングしました。多くの候補の中から、諸葛恪が関わったこの物語となりました。事件を調べる内に、諸葛恪を別の事柄から分析し、強気の人物としました。

濃醪
この作品は、(白沢図の前日譚か後日談にしたかったので、)呉に関係している人物か事件を書こうと考えました。しかし事件を見つけるのは面倒だったので、結局は呉関係者の有名人の紹介をする事にしました。しかし、紹介だけを主とした内容ですから、本当の有名人を書いても仕様がありません。そこで、

三国志に書かれた人物の内、一般的には良く知られた人物だが、三国志ファンはあまり語らない人物
の紹介を書こうと思いました。それで白羽の矢が立ったのが、鄭泉です。鄭泉は、実は(後日書きますが)一部ではとても有名な人物なのですよ(そう言えば、鄭姓で思い出したのですが、鄭玄なども、社会科の教科書に載る位であるのに、殆ど三国志ファンは話題にしませんね)。

つまり、白沢図は「物語優先」、濃醪は「登場人物優先」という事になるでしょうか。

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2005年06月06日

人物紹介  鄭泉

さて、自作濃醪は、シナリオハンティング(1)で述べたとおり、キャラクター優先で書かれた作品ですが、主役の鄭泉はあまりにも三国志ファンには馴染みの薄い人物ですので、素直に「呉主伝」からで無く、万葉集の解説書から引用したいと思います。 本来は「万葉集講義」という本から直に引用したかったのですが、発見できませんでしたので、孫引きとさせて戴きます、ご了承下さい。又、引用する「万葉集講義」という書物じたいが、三国志を孫引きしたものである事もお断りしておきます。 以下引用。()内一字。
琱玉集巻十四嗜酒篇に
鄭泉、字は文淵、陳郡の人なり。孫権の時、太中大夫となり、性酒を好む。即ち嘆じて曰く、願はくは三百(百升)の船を得て酒をその中に満てて四時甘(食肴)をもちて両頭に置き、升升を安んじて傍らに在り、減るに随ひて益さば、将に一生を足れりとすべきのみと。死に臨む日その子に刺して曰く。我が死なば窯の側に埋むべし。数百年の後化して土とならむ、覬取りて酒瓶を為らむ獲心願ふと呉書に出ず
という風に、万葉集の解説書で紹介された鄭泉は、三国志ファン以外の所で、実は有名人なのです。超子孫引き、ご容赦でした(笑)

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2005年07月10日

自作解説:呉書シリーズ2) 濃醪

呉書シリーズ2) 濃醪参照)

三国志物語の魅力は、その優れた登場人物達の争いにあると思います。
そこに出てくる人々は、勇を比べ、武を較べ、その策謀を競います。
そして、己より強い者が現れた時、舞台裏に引くのです。より強い登場人物の有能を印象付けて。
ヤラレ役の代表格であり、主役級登場人物には全く適わない華雄や周瑜でさえも、優れた人物として設定されています。

畢竟するに、三国志物語における魅力的な登場人物は、例外なく武勇に秀でているか、権謀術数の人物となります。そこでは有能で無い人物など、無能と変わらぬ扱いです。


自作「呉書シリーズ2) 濃醪」では、鄭泉という人物を主役としました。この人物は、無能でこそなかった様ですが、武勇に優れた訳でも、政策に秀でた訳でも、外交が巧かった訳でもありません。三国志通俗演義を始め、僕の知る他の三国志物語にその名を見た事はありません。三国志と大宰帥大伴卿で書いた様に、少なくとも本邦ではマイナーな人物という訳ではありませんから、ただ単に、作中活躍できない不要の人とされたもでしょう(物語の登場人物は、必要があって初めて舞台に登場させられる訳ですから、ストーリーの進行上、不要な人物はなるべく出したくは無いものです。読者としても、活躍もしない登場人物を徒に増やされても混乱するばかりです)。
鄭泉は、戦場で功名を挙げたという記録も何も無いこんな人物ですが、僕はこの人物を魅力的に描こうと、呉書シリーズ1) 白沢図の前日譚として呉書シリーズ2) 濃醪を書きました。これは三国志物語のスピンオフ的作品であったから出来た事ですが、何とか巧く出来たと思っています。

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2005年08月14日

男が泣きたい時

少年時代、僕は「男とは悲しい事があっても泣かないものだ」と思っていた。
しかし今、それが間違いであった事を知る。
「泣かない」のでは無く、精神構造の為に「泣けない」のだ。
僕は自身の経験でそれを知った。

世の中には辛い事もあるし、寂しい事、悲しい事。沢山ある。
そんな事態に出逢った時、泣く事が出来たなら、どんなに楽な事だろう。
プライドも、意地も外聞も、全てをかなぐり捨て、声をあげて泣く事ができたならば、どんなに発散できる事かわからない。
しかし、「男」というのは、己に「男」という認識を与えた時点で、自分の為に泣く事は出来なくなるらしい。
その精神構造が、己の為に泣く事を許さないのだろうか?
男としての誇りなどは捨て去り、いっそ泣いてすっきりしたい。そういう思いをしているにも関わらず、男は泣く事が出来ない。一滴の涙も零れないのである。
泣く時は常に、他人の痛みの為であるか、人の優しさに触れた時でしか無い。「男」とは、何と不器用な生き物であろうか。

僕の自作においても、三国志の登場人物達は、己の為に泣く事はしない。泣く時は常に他人の為である。本人はただ、悲しそうな顔をするだけである。泣いた時は、既に「男」では無い。

太祖は涙ながらに、殺されに向かう陳宮を見送ったが、陳宮が振り返る事は無かった。

陳宮が死ぬ時、曹操は人目を憚らず涙を流したそうだが、それは慟哭であったのだそうだ。ならばそれは、陳宮という雄奇な才能を惜しんでの事では無いだろうと、張遼はそう思う。

僕の作品上での解釈はおいておいて、陳宮の処刑の際、曹操は陳宮の為に涙を流したと記されている。しかし陳宮が涙したとの記述は無い。しかし陳宮もまた、心情的には涙していたのだと思う。自分の死を惜しんでくれる男の涙を嬉しくない筈がないからだ。しかしやはり、己の死に直面している以上、「男」である陳宮は泣けなかったのだと思う。
CORRUPTION OHOTOMO EDITION 2004 は天草さんの作品のリメイクなので、この作品で僕は泣く人を書いたが、しかしその人は既に「男」を辞めている。

途端に恐怖が押寄せて来る。急に生への執着が強まり、涙溢れた。
「厭だぁ!厭だ孟徳!儂とは西園八校尉以来の親友では無いか!死にたく無い。死にたく無い、死にたく無い。許して呉れ!儂は役に立つぞ。儂を生かして損は無い」
 儂は恥も外聞も無く、泣きじゃくり曹操に訴える。大声を出し、叫び、訴えを聞かせた。鼻汁が口に入り、唾液と混じって地に垂れる。儂は這う様に前に出て頼んだ。後世に汚名を残す位ならば、今日の自尊心を捨てた方がまだ良い。無能な将という評価よりは、まだましだ。

夏侯惇の言葉の後、淳于瓊は子供の様に泣叫びながら、必死に命乞いを続けたが、最早それは無駄な努力であった。この様に覚悟の無い男、曹操が欲する筈が無いのだ。私は余りの痛々しさに、早く殺してやれとそればかりを心の内で唱えた。闊達で強気が過ぎる淳于瓊を必死で思い出そうと努力した。高潔な魂の、義理に熱い男の姿を。哀れで惨めな友人を、これ以上意識したくは無かった。卑屈に頼み、必死に諂う彼の姿は、最早私の知るどの淳于瓊でも無い。私にとってこれは、辛い、非常に衝撃的な出来事だった。私は親しいつもりで、友人の事をまるで知らなかったのだ。淳于瓊がこんなに弱い人間だったとは。私は彼を誤解した儘、三十年も付き合って来たのか。

同作品では

曹操が私の名を呼ぶ。瞼開き、顔を上げ見ると、曹操は未だ後ろを向いた儘であった。若しかすれば、彼も又哭いていたのかも知れない。
と書くが、これはやはり意味合いが違うであろう。


さて、本題であるが、執筆を数行で止めていた呉書シリーズの新作を書こうと思う。久しぶりに時間が出来たからだ。しかし、短い話にはなるだろう。
ここでは泣きたいのに泣けない男が悲しみを紛らわす方法を書こうと思っている。楽しみにしてほしい。

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2005年08月16日

呉書シリーズ(3) 故国

ああ、遂に完成しました。とはいえ、男が泣きたい時に書いた内容そのままです。
近いうちに天草さんの三国志図書館で公開されると思います。暫くpcのある環境から離れますので、今の内に書いておきますね。
暫くしたら、本weblogからも読める様に致します。

音楽小説にチャレンジしたのですが‥‥‥用語が限られた事に苦労しました。弦楽器の方が得意なのですが、今回は笛です。
製作日数は、五日位かな?一日一時間位で。
携帯電話で読まれる事が前提ですから、原稿用紙換算でたったの十七枚。

先に白沢図と、濃醪を読まねば、楽しめぬかも知れません。

たった今、天草さんからメールが届きました。

eiさんの作品を先に公開されるそうなので、十日後の公開だそうです(笑)
eiさんの新作、楽しみです。

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2005年09月10日

呉書シリーズの新作をupしました。

呉書シリーズ(3) 故国で完成は伝えましたが、昨日呉書シリーズ 故国としてupさせました。
まるっきり魯迅の故郷を意識したタイトルですが、実は音楽小説です。
当初はB'zの「GUITARは泣いている」のパクリで「琵琶は泣いている」とか、アホタイトルを考えたのですが、「GUITARは泣いている」がそれ程メジャーな曲では無い事を知り、現在のタイトルに落ち着きました。
楽器は弦楽器の予定でしたが、今迄散々ギターやバスを弾く現代小説を書いてきましたので、未知の分野に挑戦と、篳篥にしました。ちょいと難しかったです(汗)音楽用語を全く使わなかった事も、難しさの一因だったでしょうか。
三国志図書館感想掲示板故国感想スレッドに感想を戴けるとありがたいです。

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2010年03月22日

白沢図

 捜神記と呉志から (改定版)

「その様な大言は、諸葛の家を滅ぼすぞ」
 と強い語気で、彼の妹を娶った張承は危惧し諌めたが、
「なぁに、勝算些なき事では無い。容易な事だ」
 と、恪は事も無気に笑ったそうだ。ある時然う人に聞いた。
 「自らを恃む事甚だ厚く、最早過信の域」と批難する人も多くあったが、この人の不敵さは尊敬に値すると今でも思う。その彼の挑戦的な精神が、生涯を通して、幾多の功績を作り上げてきたのであるから。軽挙妄動、暴虎馮河と批難する声も今だに強くあるが、翼々としていては彼自身を生かせる事は出来なかったであろうし、私は進取果敢と評したい。これは、彼の叔父である蜀の丞相、諸葛亮が没す一月程前、恪三十二歳、七月の話である。魏の曹叡が自ら兵を率いてきた頃で、皆は撤兵で多忙な頃であったと思う。
 諸葛瑾の長男、恪は、字を元遜と云い、博識碩学にして賢哲、口給にして能弁。世にある万千の書物に通じ、それら全てを諳んじ、解説する事が出来た。若年の頃より才名高く、後の従中張休、平尚書事顧譚、偏将軍陳表らと共に、太子孫登に道芸を講論し、それと同時に賓友として遇されていた。又籌略のみに勝れた父とは違い、恪は緯武経文。体躯に能れ、乗馬を好み、前線指揮に於いても類い稀なる力を発揮できた。後には全軍を率い、巨大な戦果を揚げる人と成る。体毛は薄く、鉤鼻で額は広く、口は大きく、声量は大きく高かい。彼は慥かに自信家ではあったが、颯爽とした立ち姿の若々しい男であったと、私は記憶する。
 黄武年間の頃、蜀の費という昭信校尉が使者として会稽を訪れた際、これとの問答を担ったのも恪であった。この費某は、彼の叔父の後継者の一人と目された事もある人物で、後に蜀の大将軍となったと聞くが、魏よりの降将に刺されたとの噂も耳にした事がある。何はともあれ、この費某到着の際、大行皇帝陛下は食事を止められたが、その他は誰も身を起こさなかった。費某はこれを見て、「鳳鳥が翔り来たると、麒は食事を止めたが、兎馬や騾馬共は、それと気付かず食事を続けている」と発言した。これに恪は、「梧桐を育て鳳鳥を待って居たというのに、鷽鳩の類いがやって来て、己は鳳鳥だと囀っている。架々と煩い奴め」と応じた。費某が、蜀という字は如何なる字義かと問えば恪は、「水が在れば濁り、水が莫い物を蜀と言い、目を横にし身を屈め、腹に虫を飼っている」と答え哂う。又費某が、「然らば、呉は如何に」と問うたところ、恪は、「口が莫ければ天で、口が在れば呉であり、大海を臨む天子の帝都である」と応えた。蜀では智慧者の声望で知られた費某も、これらの問答で一つも言い返す事が出来なかったので、舌を巻いて蜀に還って往った。この後、蜀にいる彼の叔父はこれに感心し、恪へと駿馬と鋼刀を贈って呉れたと聞く。
 彼の才捷な事は、皆この様であった。大行皇帝陛下は恪の雄弁を好まれ、「藍田生玉と云うのは、虚偽に非ざるなり」と、彼の父に謂い讃された。
 彼はこの様に衆に秀でた青年であったが、しかし遉にその年の献策は、人々には無理な仕事に思われた。と云うのも彼は、従来より統治に手を焼いていた丹楊郡に、自らが赴任し、三年の内に平定し治めてみせようと、然う述べたからである。
 丹楊郡は当時、その極めて峻嶮なる地理的条件を背景に、武を好む屈強な人々や、刑罰から逃れる者、山賊夜盗の類いが隠れ住み、令に従わず生活をしていた。又、山からは銅や鉄が産出し、彼等不服住民はそれらを鋳造して、武具を製造していたのである。山中の叢や沢、薮の中を自在に動き回る彼等は鬼出電入で、時に邑まで下りて来て、抄掠を働いていた。この時の丹楊郡は、弘大な上に、武装した屈強な住民が隠れる、嶮岨な土地であったのだ。しかも我々の手許には、その土地の詳細な地図抔は無いのである。多くの人々の判断の方こそが、常識的であり、現実的だと、当然私にも思われた。彼の父抔は、家系の往く末を憂い、胃を悪くしたと云う。
 しかしこの提案に於いて恪は、
「隠れ潜む者々が唯、鈔略を以て資と為すならば、事は容易の事。防備を固め、作物が実れば速やかに収穫し、倉に納める。斯うすれば、態々干戈を交えずとも、連中は餓え苦しみ、必ずや帰順するでありましょう。臣に三年の任地をお許し下されば、屹度、勁卒三万を得られます」
 と謂い、そして許された。格はこの時、撫越将軍に任じられ、丹楊太守となったのである。大行皇帝陛下はこの案に大いに期待され、陳表、顧承という優れた軍政家を二人も付けられた。しかし驚くべき事に恪は、自分の属官に私をも望んだのだ。それで私は丞という、彼を近くで補佐する役目を担い、丹楊郡へと赴任する事になった。これが同年八月の話である。
 不思議な事で、彼が何故、私の様な年若く、名もそれ程通っていない者を、自らの補佐役に選んだのか、それは今も依然として判らない。又何故私が、陳表、顧承といった才気溢れる人達の中に立てたのであろうか。当時の私の取り柄と言えば、兵や卒と親しく交わっていた事ぐらいであったのに。彼は世辞にも、人心掌握術に長けていたとは言えなかったから、若しかしたら、その分野で私の助けを必要としたのかも知れない。まあ、今となっては理由を知る術も無いが、ともあれ、已後三年余り、私はずっと彼と共にそこで勤め、そして彼の手法を学ぶ事ができた訳である。後に、私が武昌の左部督に迄昇進出来たのは無論、この時の勲功が大きく作用したし、又、後の私の人格形成には、彼の影響が極めて大であるから、私にとっては実に、貴重な体験と成った。
 任地に着くと先ず彼は、接する四つの郡の城々に使いを出し、軍規を徹底させ、防備を固め、教化を受け入れている良民達は全て、屯田地に定住させる様にと指示をした。又丹楊郡でも、墨家の記した守禦の教えを参考に、城壁や砦の補修、増築をし、兵を鍛練し、警備を強化した。難攻不落、という言葉から私が連想するのは、今でもあの時の仕事である程だ。兵は補修や訓練の他、農田の刈り入れ作業にも従事させる事とした。それは従来の、奥地迄兵を進め、伐するやり方とは根本から全く違っている。全く違う方向から光を照らした、奇抜な手法であった。しかし、誰もが失敗すると考えたこの新しい方法も、半年もすれば次第と効果を顕在化させ、食料の尽きた人々が一集団、二集団と、新たに軍に加わっていった。兵站等の必要な軍需物資の計算を、何度もやり直さねば成らぬと、陳表が嬉しそうに不平を言った事を懐かしく思い出す。あの様な、本心を隠し乍らも滲ませる可笑しな表情を、私は他に知らない。恪は自分の仕事が成果を現し始めると、「吾、歴任された先輩諸氏には頗る怠慢為るを覚え、亦、その無能を遺憾に思う」と短く、成功を伝える使者を出した。
 乙卯の年。その年の秋、臼陽県に於いて我々は、山間部の詳細な図面を作成する事を目的とし、演習を兼ねて巡回を行った。私が已後何度も。然う、何度も語るあの不思議な事件は、この時起ったのである。この様な巡回は定期的に行われたが、矢張り文事武備の恪らしく、それには常に彼自らが参加した為、人々は随分と緊張したものだった。それでも鬱々とした中の風は心地よく、少ない外出であったので、人々は心晴れやかで、何時もこの巡回を楽しみにしていた。無論、私とて例外では無い。乗馬の好きな恪も同様であったらしく、嬉しそうな表情で事に臨んでいた。尤もこれは、私達が彼の碁敵として不適格であった事も、理由の一つではあるだろう。
 奥に入り暫く進むと、斗折蛇行したのを見て、
「伯先、これは注意をした方が良い。路が険しく先が視えない。不案内な我々では、賊と遭遇した時対処が難しい。ここで徂撃されては、我等は崩れ散るしか無いではないか。ここは一旦止まって方々に斥候を出し、一度安全を確かめよう」
 と、恪が私に謂う。慥かにその時の隊列では、挟撃された際、前後間の連絡が分断され易く極めて脆い。それで私も成る程と感心し、八方に偵察の為の士卒を出した。
 私達はそこで暫くの休憩をしていたが、そこに大慌てで先程出した偵察分隊の一つが戻って来る。緊急した事態だと悟った私は素早く立ち上がり、その伍長を待った。
 伍長は息を切らせ乍ら我々の前に立ち、
「子供の様な生き物が小路の真中におり、通る事が出来ません」
 と、手短に報告した。それで私が、
「子供の様な生き物では、何か判らぬ。猴か狙、狒狒猩猩の類いであろう。詳しく述べよ」
 と叱責すると、
「毛は生えておらず、手を伸ばして我々を捕らえ様としています」
 と答えた。それを聞いた恪が、
「二つの傾斜の境目に細径が在り、そこに脛の埋まった奚童の様な者が俟ち構え、警する様に居るのだな? そして近くには谿もあるのであろう」
 と聞けば、伍長は大きく頷く。
「伯先、どうやらこの辺りには、厄介な者が住み着いている様だな。恐らく賊は居ないぞ」
 と謂い、恪は私を見る。
「では少し安全な処を廻り、引き返しますか?」
 と問うと、
「否、厄介な奴が居るのだ。俺の在任中にあの様な者が居ては、俺の名に係わる。全く迷惑な話だ。矢張り殺して了おう」
 と笑った。そして、
「まぁ、俺も其いつを診てみたいしな。百聞一見、博学篤志。見識を広めるとは、斯ういう事だ。この様な珍しい物も看れるので有るから、能の無い前任者共にも感謝すべきかも知れぬな」
 と続けて謂うので、私も「然るべく」と、納得をするしか無かった。
 その分隊に案内をさせ進むと、羊腸の如き小径となり、茂った樹木の間を抜ける暗風が気持ち悪く、一層暗々とした雰囲気を醸し出した。未だ昼間であるというのに日は遮られ、葉を風で擦らせる木々の音が、私の心を逆撫で、耳障りだ。列を細くしてゆっくりと進むと、慥かに恪が想像した様に、谷川の流れる音も聞こえてきた。最早深山幽谷と表現する事に、何の躊躇いもいら無い位の奥地である。どの様な事が起きても不思議では無い気がした。話を聞けば、その山径の通行を妨げているのは、どうやら魑魅罔両の類いである。私はその様な自然の存在に対して、対抗の手段が有る物かと、不安に成って了った。 しかしそれを悟って恪は、
「なに、相手が精怪だからとて、恐れずとも良い。何とか成る」
 抔と簡単に言う。常々彼の知勇兼備な事を敬う私であったが、遉にこの時はその、余りの剛胆さに驚いて了った。この男の自信は、一体何処から湧いて来る物かと、当時は良く思案したものだ。経験や知識に裏打ちされた自信と言うには、少々大き過ぎる。彼が誇大妄想狂だと陰口を叩かれた所以であろう。しかし彼のそれは、勝気な者が持つ、自己を尊大に見せようとするそれでは全く無い。それに威張っては居ても、勝気の傍若無人とは、全く質が違った。真から己の能力に自信があるのだ。であるから、他人が失敗を恐れて退く様な事にも、彼は率先して取り組む事ができた。彼の弱点と言えぬ事も無いがそれは、彼の大きな持ち味であり、最大の武器であろう。彼自身の天分の才能は、その明晰な頭脳や勇猛な性質抔よりも、その強気の方にあったのかも知れない。
 偖現場に到着すると、慥かにそこには奇妙な者がいた。それは艶々とした膚の、毛のない小人で、膝から下が地に埋まっており、こちらに手を伸ばしている。明らかに、人の世の者では無かった。悍ましい。一目視ただけで、肌に粟が立つ。場を妖気が支配している事が私にも感じ取れた。
「伯先、先ずどう対処しよう」
 と恪は楽しむ様に私に聞いた。
「先ずは箭を放ち、蝟に致しましょう」
 と私は答え、彼が「うむ」と答えるので射させたが、箭はその儘突き抜けただけで、小人の傷は直ぐに癒えて了った。
「次策は、如何致そうか」
「武芸を誇る者数名に斬らせます」
 私はその問いに斯う答え、彼が「うむ」と答えるので準備をさせた。
 三人の屈強な歩卒が鶴膝を構え、間合いを取って振り下ろす。すると小人は、青い半透明な汁を撒き散らし、見事に切り刻まれて了った。
 生臭い風がしたが、私達は安堵し、怪異が去った事を欣んだ。安心して、その内の一人が小人の死を確かめに近付く。その時。
 嗚呼、今考えても弥立つ。その歩卒の、我々の、何と不用心な事か。その時、小人は瞬く間に身体を修復、再生させ、その兵の右腕を掴んだ。それは恐ろしい程の剛力らしく、掴まれた歩卒の骨が砕ける厭な音が、我々の耳に届いた。
 どう仕様も無い私の横を、「いかん!」と、鐙を蹴って恪が馬を下り、一瞬の内に間合いを詰め、腰の軍令刀を抜く。と、素早く踏み込み、持ち上げられようとする歩卒の右臂を、恐ろくべき速さで叩き斬った。男は腕を捕まれ、脇が空いていたからこその飄撃である。無論それは、恪自身の技量と膂力無くして出来る芸当では無かったが、銛々とした百煉の鋼刀無くして出来る物でもなかった。その直刀は、彼が蜀の叔父から贈られた品で、その叔父が、西曹掾の蒲元という男に命じて打たせた、斜谷の「神刀」、三千本余りの内の一本であった。だからこそ、斯様な技が可能であったのだ。
 恪は左手で歩卒の胸倉を掴みつつ、後方へ敏捷に飛び退き、
「誰か上腕から縛ってやれ!」
 と、上空から降る血を被り乍ら命じた。近くの兵が気絶した男を引き摺り寄せ、衛生卒が応急手当てを行った。
 咄呵して恪が謂う。
「矢張り俺がやろう。左側に数人配置し、長兵で牽制をさせて呉れ」
 それで私は鶴膝を持たせた五人に廻り込ませ、左側方向、小人の右手側側面から攻撃を仕掛けさせた。
 小人は必死で鶴膝を掴もうとするが、一本を掴もうとすると他の数本が攻撃をし、然うはさせなかった。小人は無言のまま、大きく右手を振り回した。兵は何度と無く鶴膝を突き、鶴膝で切り付けた。然ういう我々と小人との駆け引きが続き、然うして暫くが経つ。
 却説、私達はその左側の攻防に気を取られ、恪自身が単身、小人の左手側近くによった事を気づけなかった。それは小人にとっても同様で有ったらしく、小人が気付いた時にはもう、恪は小人の直ぐ後ろに迄迫って居たのである。全く、何という勇気であろう。否、元より恪は、己が失敗する事抔、屹度微塵も考えた事が無いのである。小人が慌てて左手を後方に廻そうとした時、恪は右手で相手の左手首を、「咄」と、驚くべき速度で甲側から掴み、そして厭らしく嗤った。樹木が闇風を受けて、激しく鳴る。
「鈍間め。俺の勝ちだ」
 動きが止まり、小人の顔が恐怖に歪む。
 私も兵達も皆、息を飲んだ。
 恪は静かに眼を瞑る。そして。
 そして、一気に踏み出した右足に力を入れ支点とし、「疾」と、力強く小人を地から引き抜いた。
 小人は、この世の物とは思えぬ断末魔の悲鳴をあげ、宙を舞う。それは現世に未練を残す小人の、悲痛の叫びであったと私は思う。そして小人は、落下と共に絶滅した。地に叩き付けられた小人の亡骸は、潰れ、飛び散り、青い液体塗れの肉塊と成る。我々は起った事が良く判らず、小人の悲鳴に恐怖を感じていたが、しばらくすると、恪が小人を殺した事を悟り、大きく感激し、感嘆した。
「この小人は一体、何で有ったのでしょうか?」
 恐る恐る私が問うと、
「これは奚嚢という罔象だ。二つの山の境目に生じ、小路を往く人を捉え喰う。山中深くで、突然人が失踪する事があるが、原因はこれにある事も多い。後学の為に、彼の足下を掘ってみようではないか」
 と、恪は答えた。それで小人の立っていた位置を、兵に円匙で掘らせると、肉の溶けかかった歩卒の右腕と、無数の白骨が出て来た。人骨ばかりでは無く、鳥や蛙、鼠、獣、そこにはあらゆる動物の骨が、地下深く迄続いている様だった。
「これが奚嚢の胃袋だよ。数千年の内に餌食と成った人々や獣が、此処に眠っている。奚嚢はこの胃袋と離されれば、死んで了うのだ」
「しかし将軍はこの知識を、一体何処で?」
 私は尋ねてみた。
「うむ。黄帝は東巡した際、桓山という山に登った。その時、獅子に似た、人語を交す神獣が見れたのだ。この神獣は東望山に住み、王者が有徳で有れば出現する」
「慥か白沢とか。森羅万象を識ると聞きます」
「然うだ。白沢は我々が知らぬ事を、その時多く語った。その時の話によると、精気が凝って物の形を為した精や、遊魂が変化して生じた妖怪が、人の世界にも大凡一万一千五百二十種あると云う。まあ大凡にしては、随分と具体的な数字だが、大体それ位存在すると言ったのだ。然うして斯う陳べた後、白沢はその一つ一つの特徴を、詳細に叙論した。その話を黄帝が図に写させ、解説を加えた物が、今日に伝わる白沢図である。俺はこれを偶々これ読んだ事があったので、罔象の正体が判り、弱点も知っていたのだ。まあ、俺程の強記でなければ忘れていたであろうし、俺已外の者では、実行は無茶な危険であったろうがな」
 と、恪は説明した。
 この事があって已来、その噂は瞬く間に広がり、帰順する者は益々増え続け、任期の終わる嘉禾六年の冬には、恪の見積もりを一万も超える士卒を得る迄になった。勿論その総てが恪の指導の下、勇壮なる猛兵に仕上げられたのである。
 後に私が武昌の左部督に迄昇格できたのは無論、この赴任の経験を考慮されての事であろうし、又、その後の私の思考法法は、この時習得した後天的な手法が、非常に大きな割り合いを占める。畢竟するに、私はその三年余り、本当に貴重な体験をさせてもらった事となる。引き立てて呉れた彼に、改めて感謝をしたい。
 この後、恪はその才覚の為、孫峻の上表で大将軍と成り、その功績の為、孫峻の推挙で太傳と成った。内外の権力を一手に掌握した彼は、善政を布き、多くの軍事的成功を治めたが、その失敗を恐れぬ気性の為に人望を失い、その不遜な気質の為、孫峻等の手によって誅殺されて了う。
 彼が謀殺された時、彼の末息子の建を私の部曲が捕えたが、私はしのび無く、解き、そして放った。しかし建は江を渡ったものの、魏に逃げ込むまでには到らず、追っ手に捕えられて了う。歩兵校尉を勤めていた程の建ではあったが、素より、恪程緊急時の対処能力に、長けては居なかったのであろう。否、恪譲りの強気、楽観主義が災いしたのかも知れない。と、言うのも、恪は敵を侮ったが為に、斬られたのであるから。ともあれ同様に、恪の一族の者は皆外甥に至る迄捕縛され、皆首を刎ねられた。
 丘陵地帯に打捨てられた恪の屍体を埋葬する許可が下りたのは、それから大分時を置いての事である。博覧強記を誇りにし、衒学趣味であった恪の事は、今でも懐かしく思い出す。
 私は他にも、恪に付いての面白い逸話を多く知っている。が、今は既に呑みたくなって了ったので、それは又、別の機会に語りたい。

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2010年04月28日

濃醪

(改定版)

 私も恋は沢山経験した。忘れた恋もあれば、忘れたい恋もある。そして、忘れられない恋も。
 酒の席も同じ事で、若い日は翌日後悔する様な深酒も、騒ぐだけの下らない歓会も多くあったが、忘れられない呑み方も少なからず経験した。鄭氏との酒は、その後者の代表例で在った事を思い出す。今は最早懐かしい。
 壬寅の年の閏六月。前年から八月も続く膠着状態を、江陵侯率いる我が軍は急襲し終わらせた。私の父も参加した大規模な作戦で、卒に茅の輪を持たせ、岸辺の蜀軍を焼き討ちにしたのである。巫峡、建平から、夷陵に到る迄も長く連なっていた四十余営を悉く撃ち破り、我が軍は快勝する。敗走の際蜀軍は、物資を破棄し、燃やす事で焔の壁を作り、夜陰に紛れ白帝城に逃げ込むが精一杯であった。この為当時の軍中には、白帝城への攻撃許可を求める声が多くあった。手柄を望む人々が、競って提案したのである。事実この時の蜀は非常に脆く、攻め入ればある程度の戦果を得られたかも知れない。が、しかしこの時、魏軍に不信な動きが見られた事から、その献策は悉く退けられ、その年の十二月、蜀とは一時関係を修復させる事と決まった。この時、蜀への外交に赴き、駐在して内情の調査に当ったのが鄭氏である。直後に魏が三方から侵攻して来た事を考えると、彼の果した役割の大きさが解るであろう。
 鄭氏は諱を泉、字を文淵といい、陳郡の人であった。学があり、武にも優れ勇敢であったが、それは際立った程では無く、彼より優れた人は呉にも多くあった。馬術が巧みと言っても、真に能れた人とは、競ぶべくも無い。その外交手腕も、後任の張温と較べるならば、大きく劣る。事務処理能力とて、多くの人に及ばなかった。媚び諂う事が嫌いな剛毅の人で、毅然とした態度で大行皇帝陛下にも忠告をした事があったが、地位が伴わなかった為、危うく死刑にさえ成りかけ、肝を潰したという。
 この様に、鄭氏は特別に勝れた人でも、身分高き人でも無かった。が、しかし。彼は周囲の人々からは一目置かれる存在であったのである。事実私も、彼が東呉という組織を上手く協調させていた事を知っているし、彼の果した役割の偉大さを理解している。彼がいなければ、今の東呉という組織があったか否かにも疑問が残る程だ。彼が存命であったならば、恪の謀殺抔も防げたのではあるまいか。
 鄭氏は、呉臣団結の要であったと思う。本来殺伐とした軍内に、愉しみと安らぎを作り出す事の出来る人物であった。邪を抱く者には義憤を抱き、善良な人々には親しく接する。彼はその性質から、多くの人々から信頼され、愛されていた。我々の強かった絆は、彼が作り出した物と謂っても過言では無いと思う。
 彼は失敗した者を視ると、必ず笑い者にし、人々を楽しませた。そしてそれと同時に、その者への配慮の為、自分の似た様な失敗談も皆に語って聞かせるのである。鄭氏の話で楽しんだ手前、責任ある立場の者も失敗した者を強く罰する事が出来ず、多くの有能な人が救われた。又、失敗した者を責める事が出来ぬ為、それを発端とした諍いや憎悪も起らなかったのである。仮に、失敗した者を必要已上に批難する者があれば、事情通の鄭氏はその批難者の過去の失敗、私生活の醜聞と、皮肉たっぷりに暴露し、より多くの恥を掻かせた。不正を働く者や、謬ちを隠蔽しようとする者がいれば、必ず意地の悪い罠を仕掛け、本人の口からそれを白状させた。そして、私の様な年若い人が困難に衝つかった時、態々と訪ねて励まして呉るのが、この鄭氏であったのである。傷付いたり悩める人々に対しては、己の事の様に同情し、苦しみを共有して呉れた。私が于将軍の身の回りの世話をしていた頃、鄭氏は良くその仮宅を訪れた。話に依れば、糜氏とも度々呑んでいたと云う。二名は美髯公の一件已来、各々の理由で呉に留まっていたが、恐らくは愉しい場所では無かったであろう。であるから、鄭氏の存在にその心安らぐ事如何ばかりであっただろうかと想う。
 彼が蜀へと赴く事になったのは、その人柄が、鋭き弁説抔よりも敵対国への説得に適していると、然う大行皇帝陛下が考えられたからに違い無い。彼は勝手に帝号を自称する蜀の劉備を、陛下では無く殿下と呼び、大いに恥じ入らせている。この様な事は、彼の人間的魅力無しに、容易に出来る事では無かっただろう。
 彼は己の失敗を語って迄皆を楽しませていたし、失意の人を慰め支えていたから、心優しき人として、身分の上下や男女を問わず、あらゆる階層の人に人気があった。辛辣な皮肉と反語、そして諧謔趣味を、我々は好ましく思っていたものだ。
 嘉禾三年、甲寅の年の七月。この時期は、魏の曹叡が自ら兵を率いてきた頃で、人々は撤兵で多忙な頃であり、人手は不足していた。その為、私が太守諸葛恪の属官として、丹楊郡へと赴任する事になる。この地の統治が、我々の任務であった。丹楊郡は当時、その極めて峻嶮なる地理的条件を背景に、争いを好む屈強な人々や、刑罰から逃れる者、山賊夜盗の類いが潜み住み、政令に従わず生活をしていた。又、山からは銅や鉄が産出し、彼等不服住民はそれらを鋳造して、武具を製造していたのである。山中の叢や沢、薮の中を自在に動き回る彼等は鬼出電入で、時に邑まで下りて来て、抄掠を働いていた。この時の丹楊郡は、広大な上に、武装した屈強な住民が隠れる、嶮岨な土地であったのだ。然も我々の手許には、その土地の詳細な地図抔は無いのである。これは多くの人々に無理な仕事に思われたし、私にも当然そう考えられた。抜擢を喜ぶ気持ち抔、私には全く起きる筈も無い。加えて上官は、無理無茶無謀で知られた、強気が取り柄の諸葛恪なのである。正直に告白すると、失敗が目に見えていると感じていたので、この時は積極的な気持ちにはなれずにいた。そんな時に、私の邸宅を訪れて呉たのが、鄭氏であったのである。
 当時の記憶は年月を追う毎に、私の中で味わいを深めている。それは丁度、酒が次第に醗酵して熟成していく過程に似ているかも知れない。鄭氏という人物の存在が我々にとって、如何に重要な要素であったのか。その大きさが年を重ねた今の私には、より良く判るのだ。
 鄭氏が来た晩、私は皓々とした夜空とは裏腹に、気分が晴れず切々としていた。未だ若い私は、困難な仕事を無理に押し付けられた事に、すっかりと腐れていたのだ。恥ずかしい話であるが、若き日の勘違いと許して戴きたい。鄭氏には早々と帰って戴きたく、私は茶すら出さなかったが、氏は随分と用意周到で、自ら酒壜を提げて来ていた。満面の笑みを作り、「験なき物を失くす智慧の水」だと言う。彼は無類の酒好きで知られ、常々「五百石の美酒で泳ぎたい」だとか「酒に勝る宝物無し」だの、「賢しらぶって酒呑まぬ奴の、何と醜い事か」だのと発言している程だった。私をその日の盃を交す相手と、然う決めて来ているらしいと、私も遉に気付く。何とか帰ってもらおうと交渉を試みたが、年若い私の抵抗抔、全くの無駄な努力であった。「付き合わなければ、貴様の家の門前で呑むぞ」という、脅す様な眼でこちらを視る。この為、私は仕方無く折れ、渋々と肴を用意させる事になった。
 彼は呑み始めると真先に、
「諸葛家の長男は、十中八九失敗する」
 抔と謂った。態々と鄭氏に謂われずとも、誰しもが思っている事だと私が述べると、
「否。君は俺の謂う真意が判っていない。確かに多くの人々は君を気の毒に思っている。しかし俺は、君を慰めに来た訳では無いぞ」
 と謂い、一口呑む。
「では、あの籌画をどの様にお考えなのでしょう」
「あのお坊っちゃんの計画は大した物だよ。矛を交えずに事を済ませようという所抔、俺には大いに好感が持てる位さ。力づくのやり方ばかりが、方法では無いからね。色気も洒落っ気も無いが、些なくとも野暮ったくは無い。第一、勝算無ければ、あの計算高く小狡猾い我等が御主君だ。遉にあれ程簡単には認めはすまいよ」
 而立を過ぎた男を「お坊っちゃん」は無いと思うが、鄭氏は鄭氏なりに恪を買っていたらしい。恪は当時五品で、鄭氏より品位も一つ上だったのだが、まるで気にする様では無かった。鄭氏の中では、年齢や品位が人間の価値を決める訳では無いのだ。
「しかし彼の父親も反対しているとか。胃を悪くしたと人に聞きましたよ」
 私が然う言うと、
「左将軍は、憂い事が趣味なのだ。心配事が無ければ無いで、順調過ぎる事に心配になる。常に心配事をしている事で、精神の安定を図っておられるのだ。畢竟するに、適度に悩み事を提供しているあの御曹子は、それはもう、立派な孝行息子だよ」
 と、醪を継ぎ足し乍ら答える。無茶苦茶な事を言うと思った。
「では矢張り悩み事なのではないですか!」
「小さな事に噛み付く奴だなぁ。それは左将軍にとってさ。お坊っちゃんの狙い自体は悪く無い」
 恪の提案は、防備を固め、作物を隠れ潜む人々に渡さないという物だった。これで餓えさせれば、干戈を交えずとも征伐ができると言うのだ。
「しかしでは何故、上手くいかぬのでしょうか」
 私もここで一杯呷って尋ねてみた。鄭氏は好きな割に強くは無いので、山梨を齧り乍らゆっくりと舐めていたが、私の質問に答える為に急ぎ呷る。
「徹底出来ぬからだ。如何に計画が優れていようとも、実行でき無ければ失敗するのは当然の事だよ。左将軍は己の倅に実行能力が無い事を御存知なので、御趣味を満喫されている訳さ」
「では何故、実行出来無いのでしょうか」
 私は尚も尋ねる。この質問に対し、鄭氏は真剣な顔をし、そして大きな声で答えた。
「それは。それは、それを補佐すべき君が、彼の明敏性を信じていないからだ! 繰返し言うが、如何に優れた立案とて、実行が伴わねば上手くはいかぬ。実行を補佐する者が成功を疑っていて、どうして良い成果を残せようか! 君が本気にならぬ限り、成功する物も成功しない!」
 何という言い掛かりであろうか。私はそう憤慨し、
「失敗をすれば、それは私の責任でありましょうか!」
 と声を荒気て了った。それに対して鄭氏は穏やかに答えた。
「伯先。君は未だ、自分が如何に恵まれた立場を手に入れたのか、それが判ってはおらぬ様だな」
「恵まれているですって? とんでもない! 誰がこの立場、羨むと謂われるのでしょう」
 私は若さの余り、怒りを露にして叫んでしまう。しかし鄭氏はそんな私を視て笑んだのだ。
「君の謂うとおり、皆君には同情的だ。皆、君は我が儘に付き合わされ、生け贄にされたものだと考えている。若し左将軍の御子息が失敗されても、君に責任の追求は及ぶまいよ」
「では何故、恵まれた環境抔と申される」
「だからさ。君は失敗しても責任は少なく、成功すれば大きな功績と成る。そんな地位を手に入れているのだ。然も本気になりさえすれば、それは成功するかも知れない。これ程気楽な地位は、そうそうは無い物だがね」
 斯う言われて発と気が付いた。確かに、その時の私は斯ういう立場なのかも知れぬと、初めてそういう認識を持たされたのだ。今考えると簡単な事であるが、当時の独り思い悩む私には、全く到達出来ぬ視点であった。鄭氏は醪を呑み、そして続けた。
「抑々、撫越将軍諸葛恪が、何故君を己の丞に望んだか解るかね? 人不足ばかりが原因とでも? 彼とてああ言ってはいるが、この仕事の難しさは知っているにも拘わらずだ。人事には気を使った筈だよ」
 慥かに恪とて、口では簡単だと言ってはいたものの、その困難さは充分に理解していた事だと思う。
「それは、君の人心掌握の能力を、高く評価しているからでは無いのかね? 任務遂行に当って、己に足りない物を知る彼は、そこを補ってくれる人を強く求めたのだ。男として、これに応えぬ訳にはいくまいよ」
 斯うして私は恪を輔佐する事を決心し、誰もが失敗すると考えた仕事を達成させた。私の目を醒まして呉た鄭氏には深く感謝している。後の私の出世は、この時の仕事が高く評価されての事であったから、私にとってはこの決意が、人生の大きな分岐点であったと言えるだろう。
 鄭氏は死後遺言の為、陶器作りの家の傍に埋められた。百年の後に土と化して、酒壷に生まれ変わるのだという。何と彼らしい発想であろうか。
 鄭氏が没してから先、我々は腹の底から笑う事は些なくなった。年を追う毎に、政事は乱れてきている。今年も「呉を滅するは、公孫の姓」という流言の為、罪無き人々が年齢に拘わらず処刑された。
今の軍を動かしているのは、卜占の結果だ。財政的にも破綻寸前で、満足な戦費が捻出できないにも拘わらず、出兵させられる。計画の無い軍事が、成功する筈も無い。戦死した将兵達は皆、無駄に命を散らした様な物だ。諫言をすれば、顔の皮膚を剥がれるか、目玉を抉られる。この様な情勢の中、私にはこれからの未来を明るい物と考える事はとても出来はし無い。鄭氏を懐かしむ度に、その思いは強くなる。
 我々が向かう先は、一体何処なのであろう。何処に流されて往くのだろう。一瞬の破滅だろうか? 永劫の苦痛か? 進むその路も、光明無き闇の中なのだ。我等が手には、闇路を照らす灯影も無く、唯々、現実の重みが伸し掛るだけである。この様な時にこそ、「験なき物を失くす智慧の水」を呑むべきであろう。この世の憂いを一時でも忘れ、深く眠るが賢明である。こうして耐えるより他は無い。
 その、「智慧の水」に頼る度に又もや思い出す。
 常に明るい未来を示して呉れた人は、今はもういない。

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