三国志小説論--私家版三国志小説の執筆

三国志小説論は、三国志の小説化を論じるweblogです。

私版三国志の執筆をする際に感じた事、考えた事を書いていきます。特に周倉夏侯惇(を中心とした諸夏侯曹伝に立伝された人物達)に関しては、時々紹介していきたいと考えています。

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周倉木強人也
三国志演義の登場人物、周倉
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又偶には三国志を離れ、尊敬する作家、中島敦魯迅などにも触れていきますね。現代小説はここで書いております。

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2010年06月25日

牛輔牛輔牛歩、夏帆! ("うしのぶ"もいるよ)

夏休みはまだまだ先ですが、この季節になると小出早織も所属していたSnappeasのあー夏休みが聴きたくなります。

却説。
「午前零時の鐘の声、諸行無常の響きあり。如何に悪事を足せりとも、零を掛ければゼロなりき」……というのはSnappeasに所属していた夏帆の決め科白ですが、今回は「うしほ」こと、牛輔の紹介("うしすけ"と読むのは誤り)。

牛輔というのは誰なのか?
先ずはそこから疑問のある人もあると思います。

三国志平話

董卓問李儒「今四大寇離了西涼府、誰可把西涼府」
李儒言「有太師女婿牛信可去」
太師叫牛信将十万軍往西涼府鎮守去訖。

とワンシーンだけ名前を言われる"うしのぶ"のモデルが、牛輔です。

孝献帝紀第九によると、

(中平六年)(冬十月)白波賊寇河東、董卓遣其将牛輔撃之

とあるので、董卓の配下であった事がわかります(河東は地名)。白波賊が河東で暴れている時に、これを制圧する為に遣わされた将官だった様です。この事(と思われる事実)は、董卓列伝第六十二にもっと詳しく書いてあって、牛輔は中朗将であり、白波賊の討伐は失敗した様です。
初霊帝末、黄巾余党郭太等復起西河白波谷、転寇大原、遂破河東、百姓流転三輔。号為白波賊、衆十余万。卓遣中朗将牛輔撃之、不能却

(「霊帝末」と書いてあるので、若しかしたら中平六年已前の事件かも知れませんが、少なくとも中平六年には中朗将であったとみて良さそうです)
何故牛輔が中朗将であったのかと言うと、恐らくは董卓の娘婿であったからでしょう。矢張り董卓列伝第六十二に、
初董卓以牛輔子壻、素所親信、使以兵屯陝

とあり、大変信頼されていた事が伺えます(陝は地名)。
後に曹操に匿われている献帝に尽くし、劉備を使ってクーデターを起こそうとして失敗する董承という人がいるのですが、この人は三国志が注に引く献帝起居注で董卓の弟と甥に挟まれ列記してある為、董卓の親族である可能性があります。この董承は後に安集将軍になる際、

又以故牛輔部曲董承為安集将軍

と書かれており、牛輔麾下だった事がわかります。董卓の親族の可能性が高い董承(甥より前に書かれているので、傍系3親等已内と考えられる)がその部曲にいたというだけでも、大変な信頼のされ方です。

と、中平年間には既に中朗将であった牛輔ですが、その後も少焉くは中朗将のままであった事が、同じ董卓列伝第六十二の記述で解かります。
というのも、呂布と胡軫が孫堅に敗れたという記事の直後に、

中朗将牛輔屯安邑

とあるからです(安邑は地名)。
遉の牛輔といえど、一年や二年でポンポンと出世できる様に世の中出来てはいないのですね。

偖、董承だけではなく、後に天下を乱す李カクや郭汜も、牛輔の部下でした。皇甫嵩朱儁列伝第六十一には

董卓聞之、使其将李カク郭汜等数万人屯河南拒儁。儁逆撃、為カク汜所破

としか書かれていませんが、董卓列伝第六十二には、
輔分遣其将李カク郭汜張済、歩騎数万撃破河南尹朱儁於中牟

とあり、李カクや郭汜、張済等が牛輔の指揮下にあり、董卓が直接指示した訳ではない事がわかります(中牟は地名)。

そんな牛輔ですが、本人自身も戦上手であった事が伺えます。
三国志演義では呂布と並ぶ豪傑として設定される白袍の李粛も、史実では牛輔に敗れているのです。
(尚、三国志演義の李粛については南飛烏鵲楼さんが詳しい(そして素晴らしい)ので、下にアンカーを設けて、該当記事を紹介しておきます)
南飛烏鵲楼 李粛について

権勢を誇った董卓ですが、その傍若無人が災いし、初平三年四月、呂布と王允によって誅殺されて了います。そしてリーダーを失った董卓の軍閥は、急速に力を失っていきます(しかし後に、前述した李カクや郭汜、張済、そして樊稠の四人が権力を取り戻します。紹介した三国志平話の董卓の発言中、牛信の前に西涼府を守っていた「四大寇」というのが出てきますが、それがこの四人を指します)。
こうして官軍から一夜にして逆賊の身となった牛輔には、新官軍から李粛が差し向けられるのです。

呂布之使李粛以詔命至陝討輔等。輔等逆与粛戦、粛敗走弘農
(弘農は地名)

しかし李粛が敗走しましたので、今度は呂布が直々に牛輔が駐屯している陝に攻め入ってきます。
遉の豪傑牛輔も、呂布には敵わないとみた様で、怖気づいて了います。そして黄白等を腰に結び逃げ出そうとした様ですが、配下の者に斬られて了いました。

輔懼、乃齎金宝踰城走、左右利其貨、斬輔送首長安

ここでは左右は幕僚を指し、具体的には注で攴胡赤児(三国志演義での胡赤児)の名が書かれています。長安は現在の西安の事で、献帝(というよりも、呂布や王允)がいた地名です。

三国志が引く魏書によると、気弱で用心深い性格だった様で、軍用の割符を常に所持していた様です。又刑罰用の斧と斬首台を側に置くことで、自分を励ましていたとあります。

そして迷信深く、占いの結果を気にする乙女心も持っていました。中朗将の董越を匿った際、火沢睽の卦が出ました(兌下離上。「睽小事吉」から始まるが、卦象としてはあまり良くない)。

牛輔懼失守。不能自安、見客先使相者相之、知有反気与否。又筮知吉凶、然後乃見之。中郎将董越来就輔。輔使筮之、得兌下離上。筮者曰「火勝金、外謀内之卦也」即時殺越

「即時殺越」の四文字から、如何に占いを信じていたかがわかりますね。そして即決を出来るある種の決断力を持つ性質や、情に流されない英断の人であった事がわかります(無論現代の観点から鑑みれば、迷信を真に受ける愚か者であるが、信憑性があると信じられていた当時の時代背景を考慮する必要はある)。
献帝紀に仍ると、占い師は董越に嫌がらせを受けており、それでこの機会に復讐をしたのだそうです。
筮人常為越所鞭、故因此報之

あまり人に意地悪をしてはいけませんね。


長々と牛輔について書いてきましたが、上記を一行で纏めると、謂いたかった事は

牛輔と夏帆は、「ほ」で終わる二文字の名前なので似ている。

という事に他なりません。
畢竟するに、美保美穂(CV:夏樹リオ)だとかサリー・セイント・フォード(CV:岩男潤子)とかには、全然似ていません。
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2010年06月26日

山月記と虎狩

六月の末と云えば、どうしても朝鮮動乱(俗に云うアコーディオン戦争。韓国では開戦日にちなみ、6・25(ユギオ)と呼称する)を思い出して了いますが、今回は朝鮮を舞台にした虎狩という中島敦作品の話。

五月の中頃の深夜、福岡市天神で、韓国人学生(二十代半ば)の旅行者二人に道を訊かれました。
中州で呑んでいたらしいのですが、愉しくて終電を逃して了ったのだそうです(ハイヤーを使う余裕はなかった様だ)。(不況の影響も考えられるが)GW開けという事で、歓楽街はこの時期特に良いサービスを提供しなければやっていけないのかも知れませんね。然ういう意味では、彼等は良い時期に来日したのかも知れません。
彼等のホテルは、四つ先の西新駅付近という話でした。赤坂駅から道なりに、歩けば良い事は知っていたらしく、赤坂駅の位置を訊かれます。天神から赤坂までは、一駅です。
赤坂駅への行き方を教えてあげれば良いだけの話でしたが、しかし僕も道には自信がなかったので、一緒に一駅分だけ歩いてあげました。これで嘘を教えて、「日本人は嘘つきだ」なんて印象を持たれて了ったら厭ですからね。そういう訳で、半時間ほど彼等と一緒にいました。
その間一方と色々と話したのですが(いま一人はシャイなのと、英語と日本語が不得意だった様である)、外国人と話すのは違う文化に触れられて、本当に愉しいものです。彼は我が国に良い印象を持って呉れているみたいで、僕も凄く嬉しく思いました。
良く良く考えてみれば、我が国は朝鮮半島の民衆を大韓帝国から開放しましたし、(朝鮮半島を対中、対露の拠点とする目的もあったが)朝鮮人を外国人扱いせず同国人として仲良くやっていこうと考えた時期もありました(今回紹介する中島敦の虎狩では、雑誌「中央公論」掲載時に「朝鮮人」「日本人」と表記していたものを、筑摩書房から刊行された「光と風と夢」に収める際、「半島人」「内地人」と改めた経緯がある。内鮮一体化政策では、仲間意識から、「朝鮮人」という外国人扱いの表記が問題視されたのだろう)。なので今後も仲良くやっていく努力は出来るのではないかと、然う感じました。

中島敦は戦前当時の一般の日本人としては珍しく、何度も転居を繰り返した人です。死の前年、教科書編纂掛としてパラオ南洋庁へ赴任した事実は、南島譚や環礁 ——ミクロネシヤ巡島記抄——で生かされています。
中島敦は東京市四谷区に生まれてから、埼玉、奈良と転居し、浜松の尋常小学校に入学します。そして10歳(満9歳)から中学校卒業までを、京城市(現在のソウル特別市。現在の京釜高速道路や京仁地域という呼称は、その呼び名の名残)で過しました。
虎狩という作品はその京城市で学ぶ(内地から転校してきた)中学生と、半島人趙大煥との交友を描いた作品です。中島は”日本ではない異空間”を書く事を好んだ様に僕は考えているのですが、これもそんな作品群の一つに数える事ができるでしょう。
中島作品で朝鮮が舞台になる場合、朝鮮で特別一般的ではないらしい趙という姓が度々出てきますが、同級生の話によると、当時の中島の級友に趙という人(又、金大煥という人)がいた様です。彼等がモデル(少なくとも名前上のモチーフ)なのでしょう。内地から引っ越してきたきた中島は学生当時、文化の違いに途惑った様です。そしてそんな風であったから、同級生に数人しかいないというマイノリティである半島人達にシンパシーを覚えたのかも知れません。

偖、この作品は「中島が朝鮮人を如何思っていたか」とか「中島は国民性の実在を実感していた」とか、将又「中島はゴールデンバットを吸っていたのではないか」という考察も出来るのですが、その辺りは他の方にお任せするとして、僕は別の指摘をしてみたいと思います。

この虎狩はタイトル通り虎狩りがクライマックスではあるのですが、しかし虎狩り自体は呆気ないものです。
しかしそれでも、野生の虎が登場は了す。
当時の京城市は比較的開けた地域であったにも拘わらず、虎が出没する地域だった様です。(朝鮮出兵の際、加藤清正は三国志で知られる関羽の霊と戦う事で知られていますが、実は虎狩りをしたという逸話も残っています)。先に「中島は”日本ではない異空間”を書く事を好んだ」と書きましたが、虎は本邦に生息していない生き物ですから、それが中島には面白く感じたのでしょう。

物語自体はフィクションである訳ですが、僕はその虎狩りの様子が詳細で臨場感に溢れたものである為、中島自身、虎狩りに参加した事があるのではないかと考えています。少なくとも、虎狩り経験者に、詳しく取材をしていると思います。
と、ここで思い出されたのが、同じく作中に虎が出る山月記です。

山月記という莫迦莫迦しいファンタジーに、ある種のリアリティが感じられる理由の一つは、最後に姿を現す虎の存在感です。

一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二声三声咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

この虎の美しい咆哮で物語を終えるところに、劈く様な余韻が残ります。この虎の迫力を無しに、山月記は成り立たないと思うのです。

僕自身は、中島敦は野生の虎を見た事があったのではないかと思います。
見た事がなくとも、それを見たという人に、詳しく聴いたのではないでしょうか。

中島自身は少年時代の多感な時期に、往こうと思えば野生の虎を見に往ける地域に住んでいました。
仮令見た事無くとも、虎の恐怖を大いに想像する事が出来たのではないでしょうか?
それが山月記という作品に活かされたのではないかと、僕は考えています。

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2010年07月07日

僕の部屋に警察が来ました

僕はサッカーには全く興味が無く、「ドイツ大会」と言われると「74年でしたっけ?」なんて答えて了うほど、知識がありません(1974年はFIFAワールドカップ西ドイツ大会の年ですね。余談ですが、この年からジュール・リメ杯ではなくなりました。メキシコ大会でブラジルが三度目の優勝を果たした事で、ジュール・リメ杯はブラジルが永久に持つ事になったのです。因みに余談の余談ですが、このジュール・リメ杯は盗難にあっており、現在行方不明という事です)。
然ういう訳で、今回のFIFAワールドカップのTV中継も殆んど見てはいなかったのですが、準々決勝のドイツ対アルゼンチン戦だけは、今大会屈指の好カードと誰もが口を揃えて言ったので、遉の僕もこの試合だけは見る事にしました。
偖。試合内容については皆さんご存知でしょうから割愛するとして、この試合中にクローゼというFWの選手が、ゲルト・ミュラーの持つFIFAワールドカップ通算得点歴代2位の14得点に並びました。ゲルト・ミュラーと言えば僕でも知っている偉大なプレイヤーですから、「このクローゼという選手も凄いんだなあ~」なんて事をぼんやりと思いました。
前述した様に、僕はサッカーに付いては殆んど知識が無く、僕が知っている過去のドイツ人選手と言えば、ネッツァーやルンメニゲ、GKのマイヤーなどの僅かな人だけです(とはいえ、三菱に監督でいたブッフバルトと、福岡ブルックスの監督だったリトバルスキーなんかは遉に知っています)。
と、意図的に名前を書きはしませんでしたが、矢張りドイツサッカー人の代表格といえば、リベロシステムの確立者、フランツ・アントン・ベッケンバウアーでしょう。イタリア大会の決勝戦でアルゼンチンを完封した時の代表監督でもあります(前述したブッフバルトやリトバルスキーが当時の代表でした。ブッフバルトやリトバルスキーよりも、マテウスやクリンスマン、フェラーの方が有名かも知れませんが)。

ですが、平成生まれにはベッケンバウアーを知らない人もいる様で「別件です。ベッケンバウアー」と先日飲食店で女給さんの質問に対し答え、きょとんとされて了いました。

このベッケンバウアーの遣り取りを、先日警察が訪ねてきた時に思い出しました。
というのも僕は、その時過激派(60年代にヘルメットとゲバ棒で武装していた人々とか)が読んだと推察される、危険思想の本を読んでいたからです。

朝風呂に入っていたのですが、警察にノックをされた時は、「あの本そんなにやばかったのか!」と、肝を潰したものです。
実際は僕に用事があった訳ではなく、隣人が不祥事を起こした様で、僕の部屋のベランダから隣を覗き込みたいという事でした(でも風呂に入っているところを襲われたので、警察官三人にちんこを見られて了いました)。

偖々。
問題の危険思想の本ですが、魯迅「故郷」というエントリーに出てくる「ロシア語が堪能な親友」に貰った物です。彼はロシア語が堪能なだけではなく、ロシア文学やロシアの文化、ロシア正教などに深く精通しており、又共産主義についても一家言もつ人物なのです(今は凡人然として生活していますが、中高生の頃は彼は秀才で通っており、地域の有名人でした)。
これは改造出版社という出版社(その筋では有名)という出版社から出たもので、タイトルは「社会フアシズム論」。タイトルからして危険な匂いが漂います。
折角貰ったものなので、先の飲食店で呼んでいたのですが……昔の知識人はこんな本を読めたのかと、感心をするばかりでした。というのも、全く意味が解からないのです。
鳥渡最初の一ページ目から引用してみましょう(引用に際し、新字に改める)。

改良主義の基礎的根幹、基礎的核心は――レーニンの表現に従へば――「××の変革まで」、その最後の段階まで存続するであらうし、××の接近と共に自己の反革命的積極性と本質との色彩を強めさへするであらう。その全歴史的発展に於て間断なくブルジヨアジーとその政治とに結びつけられてゐた、此の基礎的な、堅固に築かれた改良主義陣営の核心は、××によつてブルジヨアジーもろ共に打砕く外に打砕くことは出来ない。

レーニンの表現では何の変革なのか、全く解かりません。伏字だらけで、先に知識がある人已外には、何が書いてあるのか、さっぱり不明なのです。
昔の知識人達はこれを理解できたんだなあと思うと、感心して了います(尤も彼等は、知識人ではありましたが、思慮深くはなかったと思います)。

この本は中古だった様で、後ろに「昭、七、四、廿七 本郷にて買ふ」と買った日付と地名らしきものが書かれていました。
昔の知識人達は、買った本の後ろに何か書いちゃうのも特徴の一つですね。
戦前の本なので、紙質は好いです。



不在者投票、往って来ました。
上院の員数が上下した所で、政治には殆んど影響はありませんが、それでも一応はね。


ウサギ耳、サスペンダ半ズボンの少年達だと! 然も白のハイソックスに、タイ! 
ロシア、怖ろしや。

前述の友人によると、曲名は「小さな獣ちゃん達」の意らしいです。
動画タイトルは「お庭の魔法使い」だそうです。

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2010年07月20日

祝日だと思って油断していました (ずっと、スタンド・バイ・ミー(上))

タイトル通りです。寝てました。

今月17日発売のずっと、スタンド・バイ・ミー(上)ですが……九州は田舎ですので、新刊や雑誌は発売日に出ません。
という訳で発売は遅れるのですが、昨日は祝日でしたので、入荷は今日だろうと思っていた訳です。

甘かった……。
寝てたら本屋からの電話で起こされちゃいました。
書籍の配送って、休日でもやってるものなのですね。知りませんでした。

と、いう訳で只今読了です。
今回は、人前では読まない方が良いかも。涙腺の弱い方は、それなりの準備をして読んで下さい。
「然う言えばメリダ島って、宇津帆島だった!」とか思い出しました。実はメリダ島は、東京都台東区です。
何はともあれ、未読の方は先ず、アニメーションのOP動画でも見て、気分を高めて是非読んで下さい。

この巻からタイトルの前にシリーズ名と、長編の何冊目かが付く様になった様です。

しかしどうも生きてるっぽいですね、彼。
最近では「ミスリル」の出典が有名になって、些し寂しかったり。
ずっと、スタンド・バイ・ミー(下)は来月発売らしいです。この下巻、今山本大介では、本で4位ですね。未だ予約の状況なのに凄い!

ずっと、スタンド・バイ・ミー(上)
ずっと、スタンド・バイ・ミー(上)




最近、『必死剣鳥刺し』の映画とは全く関係なく、藤沢周平の短編を読んでいます。
たそがれ清兵衛という短編集を再読してから、「冴えない変人が実は剣の達人」という剣客物にはまって了いました。特に、長門守の陰謀に収められた「夢ぞ見し」が好きですね。お叱り覚悟でネタバレ書くと、この物語にはもう一人、素性を隠している人物がいる――というのが、好いです。
暗殺の年輪に収められた「ただ一撃」も同系統の物語ですが、こちらは舅と関係を持った嫁が自害して了うので、聊か後味悪いです。迫力はありますが、ユーモアがあって笑わせる分、僕は(隠居した爺が剣豪という物語構成ならば)たそがれ清兵衛に収められた「ど忘れ万六」の方が好みではあります。

しかし……海坂藩は日本一剣豪を輩出した藩ではないでしょうか。
海坂藩の隣に、海上藩という漆で潤う支藩がある事も、今回一気に読んで気付きました。

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2010年09月03日

ご無沙汰なので、今更な記事の箇条書きです

半ば、生存報告でしょうか。

先日日誌に書きましたが、終電を逃しました。
帰り道が分からないので線路を歩きましたが……小学生の頃を思い出して、中々愉しかったです。
小川の上を通る時は、些し緊張了した。
偖、その時国営放送で放送している「ギフト ―E名言の世界―」のテキストを借りたのですが、表1に書かれた言葉は、「Great things can be accomplished only when people are the basis for them.」という言葉。
これは先主伝の「夫済大事必以人為本」を英訳したものらしく、七月の第二週のテーマ「人徳」で取り上げた人物が「劉備 Liu Bei」だったからの様ですね。

NHKテレビギフト~E名言の世界 2010年 07月号

二箇月も経ってからなので、今更ですが……。


却説、夏といえば、マニアックな人達が全国から集まるあのお祭りがある季節でもあります。 今年は8月7日~8日、江戸川区で開催された様です。 →公式サイト

そこで今年も「本邦のヒューゴー賞」ともいえる星雲賞(でも名前はネビュラ賞っぽい)が決められたのですが、やっぱりというか、何というか、予想通りメディア部門の受賞はサマーウォーズでした。

サマーウォーズ 桜庭ななみ


それが関係するのかどうかは不明ではありますが、上田電鉄上田駅の発着メロディーがサマーウォーズの主題歌である、僕らの夏の夢になった様です。
サマーウォーズ主題歌:僕らの夏の夢

う~ん。やっぱり星雲賞の力というか、権威は凄いなあと、感じて了いました。
今更ですが……。

星雲賞を受賞した事で、注目度も又高まっているようです。
ニフティによると、8月9日の瞬!ワードで「サマーウォーズ」は3位だった様です。参考:(週刊アスキー 2010 9/7号)

先日北天神の漫画喫茶に往ったのですが、オープンスペースにサマーウォーズのキスシーンを何回も見てるおっさんがいました。少なくとも、5回は見ています。余程好きなんだなーと思いました(北天神界隈の情報は後日紹介するかも知れません)。

そして友人が先日、白いFD3Sを売りました(涕) 翔太の車というよりは、侘助叔父さんが壊す車と言った方が分かり易い哉?


う~ん。これは遉に流行らないんじゃない哉?
ウルトラマンしょうぎ


八月に入ってから、尾崎豊の「僕が僕であるために」のカヴァーを街で良く聞きました。
女性がカヴァーしているのですが、ヒットしたのでしょうか。

「僕が僕であるために」は、十七歳の地図というアルバムに収録された曲なのですが……尾崎ファンじゃない僕は、弟と話していて最近気づきました。

"十七歳の地図"も"回帰線"も、ベストアルバムじゃなかった!!!

え~。だって全部知ってる曲ですよ。
そりゃ、ベスト盤だと思うじゃないですか!

今更ですが……。

ukiペデアで十七歳の地図の項目を見てみると、

後に尾崎自身も「ファースト・アルバムを超える作品が作れない」と発言している
(中略)
鬱屈した10代の感情を歌い上げた楽曲群は若者たちに受け入れられ、現在でも再発が繰り返されている作品である。また、オリコン史上、発売からミリオン達成まで最も時間がかかった(1994年3月21日付で達成。10年3か月21日)アルバムでもある。
なお、後に親友となる吉川晃司は、このアルバムが発売された当時、自身のラジオのレギュラー番組で「自分と同い年の奴が発売したアルバムで、素晴らしいアルバムがある。是非みんな聞いて欲しい」とこのアルバムを大絶賛した。

なんて書いてありますけど、納得ですね。曲名の一覧を見れば、後にシングルカットされた作品やB面曲ばかりです。

ちなみに、ビートルズのホワイトアルバムがベスト盤でない事は、レヴォリューションNo.9を聴いて、すぐにわかりました!
(しかし、4人はアイドルはずっとベスト盤だと勘違いしていました)


却説、吉川晃司に触れたところで予想を一つ。

今年の流行語は、
「お手向かい……致しますぞ」
だと思います。
かっこよ過ぎる!

この科白、隠し剣シリーズ中で使われているんだけど、何て作品だったかなぁ。「必死剣鳥刺し」でない事は確かなんだが。
今度調べてみます。
(この予告編、岸部一徳がネタバラシしとるwwwww)

しかし吉川晃司かっこいいな。森孝慈さんの後輩なのも◎。
然う言えば、これ終わりましたね。

ZX以降のライダーでは出色です(他がダメ過ぎるというのを差し引いても良作です。当初センターマンと莫迦にしたんだけどなあ)。

最近良く、W-B-X~W Boiled Extreme~を歌っています。
今更ですが……。

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2011年01月19日

線路の雑草 下らぬ雑感(生存報告用日記)

十月から中島敦に関する投稿を書こう書こうと考えているのですが、気が乗らず、ズルズルと何も書かない儘になって了っております。
という訳で、mixiに書いた日記から一つこちらに転載しておきます。

*******************
先日、線路の雑草が抜かれているところを見ました。
線路脇には沢山生えているというのに、抜かれているのは線路上に生えてきた雑草のみです。伸々と生えた雑草の横で、未だ若い、小さな草が次々と抜かれています。

線路脇は土の儘。線路上は無論、砂利が厚く敷き詰められています。抜かれている草が線路脇のものに比べて、大きな努力の後に芽を出した事は明らかです。
大きくなれば運行上の妨げになる事は勿論ですし、抜かねばならぬ事は理解できます。
しかし、纔かに数尺ずれて芽を出したが為に、比較にならぬ程の努力を強いられ、その努力が実らぬ儘に抜かれねばならぬ悲しさを思い、虚しくなって了いました。

人の世は、生まれ落ちた場所に左右されず、亦、努力が報われる場である事を、ここに感謝致します。

万葉集より
442
世の間は 空しき物と 有らむとそ 此の照る月は 満ち闕けしける
(ストラップ意訳;世の中は虚しいので、月は一度盈ちても欠けるのだ)

*******************

最近twitterを始めました。
http://twitter.com/hammerstrap

二番目のtをsに代えたら、Hなゲームの名前なんですね。
フォロアーが未だ0人です(涕)

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2011年03月17日

中島敦の諸作品は、文章芸術です

先日風呂に入ろうと浴室に入ったら、濃霧の様に真っ白で、慌てて(手探りで)蛇口を探し、湯の方を閉じました。
しかし入ってみると……、意外に温い(汗)。
実はその前にお八つとしてレバーを焼いて食したのですが、その際にまるでフランべの様に油に引火了して、濛々と煙ぶっていたのです(僕の部屋は1kで、キッチンは玄関や浴室の入り口を兼ねているのです)。どうやらその煙が、浴室迄流れ込んでいた様でした(汗)

扨、下らん日常はおいといて、中島敦に関するエントリーを先日から書いていますが、巧く纏まらずに(と言うか、気が乗らずに)苦労しています。今回はその中で、取り上げる事を断念した話題(というよりも、独立させた方が相応しいと判断した話題)を、独自にエントリーを設けて書いてみます。

先日とある掲示板に、「中島敦李陵が映画化したら良いなあ」抔という書き込みが為されていました。その掲示板の利用者達には概ね好評の意見で、支持されておりました。
しかし僕は、その様な意見には、大反対の立場です。その様な意見は、決して許す事が出来ません! 斯ういう事を平気で言える人達は、中島敦が(死ぬ迄)一字一句に迄気を配り続けたということが、理解出来ない人々なのでしょうか?
 (事実「李陵」は本来、題名さえ決められておらぬ未完成の状態で、原稿の中には推敲する為に二種類の語句が書かれている部分が多々あります。現存する浄書原稿は20字×20行の「南洋群島文化協会原稿用紙」五枚のみで、現在読めるものは、コクヨの20字×20行とフジ20字×20行に書かれた草稿を、編集者が勝手に取捨したものです。冒頭は、当初「天漢二年秋九月漢の辺将騎都尉・李陵は五千の歩兵に将として、辺塞……」と書いており、直後に「漢の武帝の」と付けた様です。そして後日、「漢の辺将」の扱いと「歩卒」の追加や句点の位置で悩み、そして「の歩兵に将として→を率ゐ」と変更した事が、インクの色で推測出来ます。又これ以後は、草稿と浄書原稿では、大きな違いが見られます)
僕は「どうせ失敗するよ」とか、「改悪やキャスティング、演出等で中島敦の雰囲気を損なう可能性もあるし、映画化しなくて良い」の様な事を言っている訳ではありません。「映像化希望」と、中島敦のファンを名乗る人達が斯う言う事に、強く違和感を覚えるのです。
と言うのも、小説と言うのは(中島敦作品に限らず)、文章芸術であるからです。

文章の芸術と言えば……

古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉
という句は、最も知られた俳句であると思います。僕は詩歌や俳句などの鑑賞は良く解りませんが、この句の美しさは遉に理解できます。多くの日本人は、然うでしょう。
扨、では、この俳句を視覚化(写真やイラスト、動画等)してみた時に、この俳句の美しさを再現できるものでしょうか? 
僕は(粗)できないと考えています。仮に素晴らしい画像や映像ができたとしても、それは文章芸術である俳句とはまた別の美しさであって、ただ単に、俳句が描いた現象と同じものをモチーフにしたに過ぎないのではないでしょうか? (又実際にその光景を見たとしても、この俳句が齎す印象以上の美しさはないかも知れません。俳句とは、俳人の目で見たフィルターを通していて、又不純なものを取り除いているからです)。

視覚効果と音響に頼る『総合芸術』であるところの映画は、表現力に優れている事は間違いありません。特に、動きのあるもの(アクション)などは、文章の敵うところではないでしょう。
小説という表現方法は、それらの長所を持ち合わせてはいませんが、しかしそこを、読む人の想像力に託させる技術で書かれているのです。又、即物的な現象を描く映像よりも、内面的な描写(心理描写)を得意ともしていますし、動きの殆どない会話劇も得意です。

僕は斯ういった理由で、「李陵の映画化」なんて話題を嫌う訳です。中島敦の文学は(無論李陵は未完の作品ですし、完成されているとはいえませんが)文学としての完成を目指したものですから、他の媒体で表現すべきものではないと思います。

追記;最近三国志の話題してないなあ。次回も多分、(書きかけの記事があるので)中島敦です。


こんなかっこいいおもちゃが出ていました。

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こんなのも。
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2011年04月04日

中島敦の入籍時期は?

前回のエントリー中島敦の諸作品は、文章芸術ですにも書きましたが、現在中島敦に関する記事を書いている最中だったのですが、巧く纏まらないので、中島敦の入籍時期を推測する記事を、以下に抜き出しておきます。

先日(と言っても、先年十月の話ですが)ukiぺであの中島敦の項目から、

1932年 3月 橋本たかと結婚。

という項目を、削除しました。なぜならば、これは完全な間違いで、この頃は未だ橋本たかとその許婚である和田氏との問題が解決していない時期であるからです。1931年の書簡(内容は他者による写し)を見ますと、9月13日の日付で和田氏に手紙を送って結婚の許しを求めていますから、1931年の結婚は、疑問が残ります。又、11月14日のタカ宛の書簡でも、「近頃、父の意見をよく聞いて見ると、在学中の息子に嫁を持たせて置くのは、親類の手前、一寸都合が悪いと言ふんだよ」と始まりますし(卒業は1933年の3月)、1932年の4月にも、まだ前述の和田氏との問題が解決していない様です。とはいえ、何時頃の結婚なのかは不明の様です。

それできっちりと調べてみると、次の様になります。
父である田人から敦への書簡を見ますと、

昭和8年(1933)5月16日「其上にて結婚届、出生届ニ記名調印したいとおもふ」

とあり、結婚は確実にこれより後だと言えると思います。又たか側の書簡では、
橋本を名乗る最後の手紙は昭和8年(1933)7月2日(本文中は6月2日とあるが、7月の消印と長男桓の誕生から65日と書かれている為、7月2日の誤り)。中島姓を初めて名乗るのは、昭和10年(1935)8月6日

である為、この期間に結婚したと見て良いようです。敦側からタカ宛の書簡では、
昭和8年(1933)8月19日に法師温泉から出した絵葉書の宛先は「橋本たか」。
翌昭和9年(1934)4月4日の手紙では、宛先は「中島たか」。

なので、やはりこの期間だという事は、確かだと言えそうです。8月29日の書簡には
「婚姻とゞけは(そちらに判をおしていたゞくために)二三日中に送る。」

とあるので、結婚は少なくともこれより少し後と見るべきだと思います。同様に、昭和8年の9月下旬と思われる書簡には、橋本家の戸籍謄本を求める内容がありますから、恐らく昭和8年の10月頃結婚したのではないでしょうか?
裏付ける様に、内容から昭和8年の10月に投函したと思われる手紙「橋本たか宛(封筒なし)」の追伸部分には、
「お前も桓も籍ははひつてゐるよ。大丈夫だ。もつとも桓の生まれた日は実際より遅れてゐるがて、とゞけてあるが。」

とあり、この頃籍を入れたのではないかと考えられます(しかし不思議な事に、久喜の謄本では、長男桓の出生は12月18日らしいとの事ですので、この書簡の内容も怪しくなります)。
とりあえず、正確な時期は不明ですので、誤りを正したという内容を書いておきますね。


扨。講談社の子会社である星海社のブログに、“星海社朗読館シリーズ”今夏刊行!という記事がある。些しだけ、引用しておく。

昨年9月より4ヶ月にわたり『最前線』にてお送りした『坂本真綾の満月朗読館』が、4月創刊の新レーベル・星海社FICTIONSより書籍化決定!
満月の夜を彩った日本文学の過去・未来の名作4篇が、フルカラーブック+朗読CDの強力タッグで再誕します。
“星海社朗読館シリーズ”は本年初夏より4ヶ月連続刊行予定。
刊行ラインナップは以下の通り。描き下ろしイラストが入るものもあるかも!?でございます。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜 「第9章 ジョバンニの切符」より』Illustration/竹 朗読/坂本真綾
中島敦『山月記』Illustration/ミギー 朗読/坂本真綾
乙一『ベッドタイム・ストーリー』Illustration/釣巻和 朗読/坂本真綾
奈須きのこ『月の珊瑚』 Illustration/武内崇・逢倉千尋 朗読/坂本真綾

中島敦の『山月記』が含まれているし、楽しみである。

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2011年05月06日

昨日は中島敦の誕生日でした

僕が帰省中に呟いたtwitterの内容の纏め。「草木」は地名ではない。、「そうもく」と読むと語呂が良いと思う。

******以下より******

野薔薇は良い。人に甘えぬ力強い様も、人に矯正されぬ闊達な姿も良い。そして、小さく可憐な、白い花が良い。人に縛られぬ、自由の美しさが良い。

廃墟の荒れた庭は良い。生き生きとした躍動感にある、凛とした美しさが、風格をも思わせる。抑圧されて育った草木が、人の軛から解き放たれ、生命力の侭に伸びる様が、迚も美しい。

自然の侭に育った草木よりも、人に育てられた草木の箍が外れて荒れた様の方が僕は好きだ。野趣と云う言葉では安っぽい程に美しい。

人の世の自由は、黄白あってこその物。金銭なき自由など、牢獄と然して変わりない。

豆知識:科学特捜隊日本支部が最初に戦った怪獣は、横浜港に現れた「核露怪獣ゴルドキング」。原子炉を破壊しに来る。 こんな豆知識、今は不謹慎な時期なのだろうか?

豆知識:「食べれるガム」の正式名称は、「ソフトキャンディー」というらしい。

******以上迄******

最近ふと思った事だが、冒険を嫌う人でも、「冒険」という言葉にはワクワクさせられる様に思う。

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