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続編 : 濃醪感想掲示板
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この事があって以来、その噂は瞬く間に広がり、帰順する者は益々増え続け、任期の終わる嘉禾六年の冬には、恪の見積もりを一万も超える兵を得る迄になった。勿論その総てが恪の指導の下、勇壮なる猛兵に仕上げられたのである。 後に私が武昌の左部督に迄昇格できたのは無論、この赴任の経験を考慮されての事であろうし、又、その後の私の思考法法は、この時習得した後天的な手法が、非常に大きな割り合いを占める。畢竟するに、私はその三年余り、本当に貴重な体験をさせてもらった事となる。引き立てて呉れた彼に、改めて感謝をしたい。 この後、恪はその才覚の為、孫峻の上表で大将軍と成り、その功績の為、孫峻の推挙で太傳と成った。内外の権力を一手に掌握した彼は、善政を布き、多くの軍事的成功を治めたが、その失敗を恐れぬ気性の為に人望を失い、その不遜な気質の為、孫峻等の手によって誅殺されて了う。 彼が謀殺された時、彼の末息子の建を私の部曲が捕えたが、私はしのび無く、解き、そして放った。しかし建は長江を渡ったものの、魏に逃げ込むまでには到らず、追っ手に捕えられてしまう。歩兵校尉を勤めていた程の建ではあったが、素より、恪程緊急時の対処能力に、長けては居なかったのであろう。否、恪譲りの強気、楽観主義が災いしたのかも知れない。と、言うのも、恪は敵を侮ったが為に、斬られたのであるから。ともあれ、同様に、恪の一族の者は皆、外甥に至る迄捕縛され、皆首を刎ねられた。 丘陵地帯に打捨てられた恪の屍体を埋葬する許可が下りたのは、それから大分時を置いての事である。博覧強記を誇りにし、衒学趣味であった恪の事は、今でも懐かしく思い出す。私は他にも、恪に付いての面白い逸話を多く知っているが、今日は既に呑みたくなったので、それは又、別の機会にしたい。
了
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