白沢図@白沢図A白沢図B白沢図C白沢図D白沢図E白沢図F白沢図G白沢図H |
彼はこの様に衆に秀でた青年であったが、しかし流石にその年の献策は、人々には無理な仕事に思われた。と云うのも彼は、従来より統治に手を焼いていた丹楊郡に、自らが赴任し、三年の内に平定し治めてみせようと、そう述べたからである。 丹楊郡は当時、その極めて峻嶮なる地理的条件を背景に、武を好む屈強な人々や、刑罰から逃れる者、山賊夜盗の類いが隠れ住み、令に従わず生活をしていた。又、山からは銅や鉄が産出し、彼等不服住民はそれらを鋳造して、武具を製造していたのである。山中の叢や沢、薮の中を自在に動き回る彼等は鬼出電入で、時に邑まで下りて来て、抄掠を働いていた。この時の丹楊郡は、広大な上に、武装した屈強な住民が隠れる、嶮岨な土地であったのだ。しかも我々の手許には、その土地の詳細な地図などは無いのである。多くの人々の判断の方こそが、常識的であり、現実的だと、当然私にも思われた。彼の父などは、家系の往く末を憂い、胃を悪くしたと云う。 しかしこの提案に於いて恪は、 「隠れ潜む者々が唯、鈔略を以て資と為すならば、事は容易の事。防備を固め、作物が実れば速やかに収穫し、倉に納める。こうすれば、態々干戈を交えずとも、連中は餓え苦しみ、必ずや帰順するでありましょう。臣に三年の任地をお許し下されば、屹度、勁卒三万を得られます」 と謂い、そして許された。格はこの時、撫越将軍に任じられ、丹楊太守となったのである。大行皇帝陛下はこの案に大いに期待され、陳表、顧承という優れた軍政家を二人も付けられた。しかし驚くべき事に恪は、自分の属官に私をも望んだのだ。それで私は丞という、彼を近くで補佐する役目を担い、丹楊郡へと赴任する事になった。これが同年八月の話である。 不思議な事で、彼が何故、私の様な年若く、名もそれ程通っていない者を、自らの補佐役に選んだのか、それは今も依然として判らない。又何故私が、陳表、顧承といった才気溢れる人達の上に立てたのであろうか。当時の私の取り柄と言えば、兵や卒と親しく交わっていた事ぐらいであったのに。彼は世辞にも、人心掌握術に長けていたとは言えなかったから、もしかしたら、その分野で私の助けを必要としたのかも知れない。まあ、今となっては理由を知る術も無いが、ともあれ、以後三年余り、私はずっと彼と共にそこで勤め、そして彼の手法を学ぶ事ができた訳である。後に、私が武昌の左部督に迄昇進できたのは無論、この時の勲功が大きく作用したし、又、後の私の人格形成には、彼の影響が極めて大であるから、私にとっては実に、貴重な体験と成った。 |