濃醪@濃醪A濃醪B濃醪C濃醪D濃醪E濃醪F
呉書シリーズ@
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壬寅の年の閏六月。前年から八月も続く膠着状態を、江陵侯率いる我が軍は急襲し終わらせた。私の父も参加した大規模な作戦で、卒に茅の輪を持たせ、岸辺の蜀軍を焼き討ちにしたのである。巫峡、建平から、夷陵に到る迄も長く連なっていた四十余営を悉く撃ち破り、我が軍は快勝する。敗走の際蜀軍は、物資を破棄し、燃やす事で焔の壁を作り、夜陰に紛れ白帝城に逃げ込むが精一杯であった。 この為当時の軍中には、白帝城への攻撃許可を求める声が多くあった。手柄を望む人々が、競って提案したのである。事実この時の蜀は非常に脆く、攻め入ればある程度の戦果を得られたかも知れない。が、しかしこの時、魏軍に不信な動きが見られた事から、その献策は悉く退けられ、その年の十二月、蜀とは一時関係を修復させる事と決まった。この時、蜀への外交に赴き、駐在して内情の調査に当ったのが鄭氏である。直後に魏が三方から侵攻して来た事を考えると、彼の果した役割の大きさが解るであろう。 鄭氏は諱を泉、字を文淵といい、陳郡の人であった。学があり、武にも優れ勇敢であったが、それは際立った程では無く、彼より優れた人は呉にも多くあった。馬術が巧みと言っても、真に能れた人とは、競ぶべくも無い。その外交手腕も、後任の張氏と較べるならば、大きく劣る。事務処理能力とて、多くの人に及ばなかった。媚び諂う事が嫌いな剛毅の人で、毅然とした態度で大行皇帝陛下にも忠告をした事があったが、地位が伴わなかった為、危うく死刑にさえ成りかけ、肝を潰したという。 この様に、鄭氏は特別に勝れた人でも、身分高き人でも無かった。が、しかし。彼は周囲の人々からは一目置かれる存在であったのである。事実私も、彼が呉という組織を上手く協調させていた事を知っているし、彼の果した役割の偉大さを理解している。彼がいなければ、今の呉という国があったか否かにも疑問が残る程だ。彼が存命であったならば、恪の謀殺なども防げたのではあるまいか。 |