故国@故国A故国B故国C故国D故国E故国F故国G
呉書シリーズ@
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私の師とも言うべき人物、于将軍は、名を禁といい、泰山郡鉅平県の人である。筋骨隆々としたその姿は、如何にも前時代の武人という雰囲気を纏っていた。 于将軍は中平元年甲子の年、黄巾の乱が起きると、鮑信の呼びかけに応じて従い、王朗という将軍を良く輔佐した。この後、エン州が青州黄巾賊の侵入を許すと、陳宮に伴われ寿張を監督していた棗祗に見出され、曹公の軍の中核となった。この後于将軍は、一軍を率いて中原中を転戦し、二張楽徐の四将に劣らぬ戦功をあげる。建安の初め、温候が徐州を制圧すると、真っ先にこれに当たり、強靭な敵軍に対し良く善戦した。当時の温候の軍を見れば、成廉、魏越を筆頭に、侯成、高順、宋憲、魏続、張遼、陳宮と、錚錚たる顔触れであったし、陳寔の孫にして陳紀の子、羣の軍規が精兵で知られた集団を形成していた。屈強な騎馬と、精悍な猟兵とで知られた温候の軍である。善戦が如何に難事であったかは、想像に難くない。この為曹公は、活躍のあった于将軍を股肱の臣と頼りにし、重用する事になる。 建安二十四年八月。劉備が漢中王に即位すると、荊州に専行権を持つ関羽が、曹仁の樊城に攻撃を仕掛けた。曹公は于将軍に命じ、それを救援に向かわせたが、この年は長雨が続き漢水が溢れた為、武運無く、于将軍は七軍を失う。この為于将軍は已む無く関羽に降伏し、江陵城に繋がれる事となった。そしてその翌年の十月、我が軍が関羽を討ち荊州を領土に加えると、于将軍は我が軍の預かるところとなったという訳である。何と数奇な人生であろうか。
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